「社会学(sociologie)」という学問の命名者は、19世紀の思想家、オーギュスト・コントですが、彼の有名なことば、「予見せんがために見る」には、「進歩」や「成長」の名の下に、ダイナミックに変動する”近代”という新しい時代が、一体どこへ向かうのかという切実な問いが込められていました。
それから2世紀後の問いとは、”近代の運動が行き着くところまで行き着いた現代社会が、これからどこへ向かうのか”、ということです。
無限性から有限性へ
現代を理解するために、著者は、まず、人類史の発展を3つの段階にわけます。(1)発展の開始時期、(2)爆発的な増大、そして、(3)なだらかな安定期。これは、「ロジスティクス曲線」という、生物の増殖傾向を援用したものです。
よく成功した生物種は、爆発的な増加のあと、環境の限界にあわせて、安定的な定常状態に至ることが知られています。
著者のユニークな観点は、3段階の移行期を、「軸の時代」と「現代:軸の時代Ⅱ」として位置づけているところです。
「軸の時代(Axial Age)」とは、哲学者 カール・ヤスパースの用語で、紀元前500年頃、ギリシャ哲学、キリスト教のもととなったユダヤ教、仏教、儒教などの「普遍思想」が陸続と現れた時代を指します。
「近代」は、この”無限”の原理をさらに推し進め、20世紀の後半には、「広告」や「クレジット(信用)」といった、実体のない情報や差異を消費するところにまで行き着きました。
ところが、この、いっけん、無尽蔵とも思われた情報の消費は、2000年代に米国から広がった「サブプライム・ローン問題」やそれを受けたGMの破綻(GMは、商品イメージの差異化戦略によって成功したメーカーでした)によって限界を露呈します。
情報化に情報化を重ねることによって構築される虚構の「無限性」が、現実の「有限性」との接点を破綻点として一気に解体するという構図[…]資本主義は自己をコントロールする技術を格段に獲得したから、それは二九年の恐慌ほどには悲惨な光景を生まないだろうが、ほんとうはもっと大きな目盛の歴史の転換の開始を告げる年として、後世は記憶するだろう。
ユートピアは”今ここ”に
人類史上、第二の転換期、「軸の時代Ⅱ」、無限性から有限性へ。その大転換の手がかりとして、著者は、大規模な統計調査や個別のインタビューなどの経験的データを引用しています。
たとえば、近年の若者消費行動の変化。かつてのような高価なブランド品志向ではなく、シンプルなもの、同じものをシェアするといった「脱商品化」が進んでいる、と。しかも、それで当人たちは結構楽しくやっている―。それは、「無限→有限」という転換に適応した結果なのかもしれません。
その変化の根底にあるのは、時間概念の転回です。「軸の時代Ⅰ・無限性」の時代とは、ゴールをつねに先にある未来に延期する、”ヘブライズム的な時間感覚”です。それに対して、「軸の時代Ⅱ。有限性」の時代とは、「いまここ」における、自己充足的な感覚です。
では、その先には、どのような展望が開かれるのでしょうか。
高原の見晴らしを切り開くという課題の核心は、[…]欲望と感受性との抽象化=抽象的に無限化してゆく価値基準の転回であり、欲望と感受性との具体性、固有性、鮮烈なかけがえのなさの開放である。
経済競争の強迫から開放された人間は、アートと文学と学術の限りなく自由な展開を楽しむだろう。歌とデザインとスポーツと冒険とゲームとを楽しむだろう[…]
こうした、”いまここ”において自足するというヴィジョンは、多分にユートピア的に思われます。ですが、その”ユートピア(どこにもない場所)”は、どこか遠い未来に約束されたものではないと言います。ではどこに? 今ここに!、と。
現実的ユートピアと超越性のゆくえ
著者は、かかるユートピアのイメージについて、ポジティブに語っています。自己充足、多様性と寛容、自由… 交響圏。しかも、それらは、すでに、今ここのなかに、萌(きざ)しされているものです。
その一方で、少し気がかりなこととして、人間は”いまここ”だけで満足できるのかという点があります。
人間の本性は、いまここにはいない存在への「想像力」、世界に働きかける「構想力」(カント)、あるいは、「脱自的存在,ex-histemi」(ハイデガー)に求められてもきたからです。
そうした、”いまここ”のユートピアが達成されたとき、”ここではないどこか”と結びついた、科学技術、人権や民主主義とった政治の理念、あるいは、資本主義は、どのような形でありえるのでしょうか。
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