
現在公開中の新海誠監督『天気の子』が大ヒットしているそうです。このブログでは、前作の『君の名は。』(2016年)を取り上げましたが★1、今作も面白かったので、内容について考えてみたいと思います。
『君の名は。』から『天気の子』へ
物語は、高校生の少年・森嶋帆高(もりしま ほだか)が、離島からフェリーで上京するところからはじまります。舞台は現代の東京ですが、異常気象により連日雨が降りつづいていました。
家出でし行くあてのない帆高は、あるきっかけで天野陽菜(あまの ひな)という少女とであいます。彼女の秘密は、空に祈ることで晴れをつくることができる「晴れ女」であるということ。同じ境遇を察した帆高は彼女に「晴れ女」のネットビジネスを提案します。最初は半信半疑の陽菜でしたが、徐々に口コミで依頼が殺到するようになり・・・。
前作『君の名は。』を観た人なら、すぐに今作との共通点に気がつくでしょう。それは、表現の両義性です。
『君の名は。』は二人の少年・少女の中身が入れ替わり、再会するというのが物語の軸でした。そこでキーになってくるのが彗星で、これが、二人を引き裂く元凶であると同時にめぐり逢わせるという、相反する役割を担っていたのでした。
今作その彗星の位置を占めるのは、陽菜の晴れ女の能力です。★2 その力は周囲の人々を幸せにしてゆくのですが、それにはある代償が伴っていました。
天気を晴れにする代わりに、晴れ女=巫女である陽菜には、人身御供にされるという悲しい運命が待っていたのです。つまり、能力を使うことが、祝福であり呪いであるという、コインの表裏の関係になっているのです。
不条理から条理へ
しかし、この映画には見逃せない、もうひとつの二重性があります。それは、”自然と人為の関係”です。
ふつう、わたしたちは大雨などの天災による被害と人が原因で起こる事件や事故とを区別して考えています。なぜなら、自然には理由はないが、人為には理由があるからです。だからこそ、人為に対しては理由の説明や責任がかかわってくるわけです。★3 このようなあり方を、哲学では「人倫の世界」と呼びます。
そう考えると、巫女とはじつに微妙な存在です。
巫女の役目は、自然や神に対して祈ることで人間のお願いを聞いてもらうことです。つまり、それは(部分的な)自然の人倫化にほかなりません。★4

同じことをヘーゲルは葬儀の存在理由について述べていますが、★5 わたしたちは、どうしようもない自然現象に対する解釈や儀礼を通じて、不条理(理由なきこと)を条理(理由ありしこと)へと変換しているのです。つまり、巫女は、自然と人倫の世界とをつなぐ媒介者なのです。
不条理とセカイ系
私は、この映画は、“不条理をどう受け止めるのか”という観点からみることができるのではないかと思います。この映画の最大の不条理は、聖なる力によって帆高と陽菜が引き離されてしまうことでしょう。
恋人をとるのか、それとも世界の安定をとるのかという二者択一。このような極端な選択は、「セカイ系」と呼ばれる一連の作品群ではおなじみの設定です(前作『君の名は。』もそうでした)。★6
しかし、この映画が際立って不条理なのは、通例に反して、恋人を救うことで、結果として、世界は救われない、最終的に、両者が両立しない(ようにみえる)からです。では、なぜそのようなことになるのでしょうか?
システムへの隷属/世界からの「照らされ」
ところで、帆高と陽菜は、なぜ不思議な力に巡りあえたのでしょうか。それは、二人が疎外された存在だったからです。
東京に出てきたばかりの帆高は、生活のためアルバイトを探しますが、未成年なのでまともな仕事はありません。なりふり構わずヤクザの事務所も訪ねるが(!)、門前払い。
このシーンはわりとコミカルに描かれていますが、結構重要です。“違法だから雇えない”のは、たんに法律というシステムに従っているからで、決して少年を心配してのことではないのです。★7 一方、陽菜との出逢いが彼の心を打ったのは、それが、システムの命法を超えた(ささやかな)越権行為だったからです。
その陽菜にとっても東京は居心地のよい場所ではありませんでした。弟と二人だけで暮らす陽菜もまた、システムにとっては異物でしかないからです。
*
私は、前作『君の名は。』の批評で、三葉と瀧の出逢いの理由をハイデガーの議論をもとに考察しました。★9 今回もそのモチーフが反復されています。キーワードは 「照らされ(リヒトゥング、独 Lichtung)」。
帆高が東京に来た動機は、故郷の島(伊豆)でのくらしに閉塞感を感じていたからです。だから、回想の場面は、灰色で覆われた一面モノトーンの世界。”自分のいるべき場所はここではない”という疎外感。そこへ、雲の切れ目から伸びる一筋の光。その光の中に入ろうと自転車で追いかけ、岬から彼方をみつめる帆高。それが、彼が東京行きを決めたきっかけでした。
そして、その先にいたのが陽菜でした。彼女がつくり出す、その光の中に入ることこそが、本来の自己を取り戻すことだったのです。


さて、この映画の徹底的な不条理の謎。彼女/彼の関係と世界とが両立しないのはなぜなのか。
両者の対立が最終的に和解されないのは、一方で、社会をドライなシステムとして、二人の関係をシステムの論理に回収できない、それ以上の剰余として、描いているからではないでしょうか。★10
ゆるやかな破局の享楽、そして、祈り
とすると、映画の結論としては非常に”脱社会的な”ところに着地してゆきそうです。ですが、ここで留意するべきは、前述した「媒介者としての巫女」の位置づけです。
社会との対立も恐れず、彼女を救い出すことに成功する帆高。しかし、その見返りとして、東京には止むこのなく雨が降りつづけ、やがて都心一帯を海へと変えていきます。非常に美しく描かれた東京が沈む様子は、観客に対して、劇的ではなくとも、それ自体の享楽を感じさせます。★11 自分の行動は正しかったのかと逡巡する帆高。「この辺は昔は海だった。もとに戻っただけかもしれない。」そう語るかつて住人・立花冨美。「世界なんて、どうせもともと狂ってるんだから」とアイロニカルに励ます元上司・須賀。”自然をありのまま受け入れよ”というメッセージです。
だが、ほんとうにそれでいいのか・・・、わだかまりを抱きながら坂をのぼると、その先にいたのはーー。
力を失った純粋な祈りが、できごとを人倫の方へと差し戻します。不条理を条理へと変換するとは、負担不可能な責任を、自ら引き受けようとする構えに他ならなないのです。
〈脚注〉
★1 拙論「映画『君の名は。』:失われた「君」は、もう一人の「私」だ」、京都アカデメイアblog、2016。
★2 前作では、物語上の仕掛けは、二人の入れ替わりと彗星の衝突の二つであった。対して、今回は、”願うと本当に祈りが届いてしまう”という巫女の能力と、止むことのない雨が対応する。しかし、異常気象による雨の方は、彗星に比べてはるかにリアリティを感じてしまう。
★3 近年では、自然災害であっても人為的責任や原因を問うコミュニケーションの契機が増大しているという議論がある(リスク社会論)。その理由は、かつて(伝統社会)のように、自然が社会の外側にあるものではなく、社会の内部に(たとえば、開発=搾取(exploit)し、あるいは保全すべき対象として)位置づけられるようになってきたからである。cf.N.ルーマン『リスクの社会学』新泉社、2014年。U.ベック『リスク社会』法政大学出版局、1998年。
★4 各地に残る水神・龍神信仰とは、一種の自然現象の擬人化(キャラクター化)と見ることができる。
★5 ヘーゲルは、葬儀の意味について、それが家族にとって義務なのは、死という自然のできごとが、それを行うことで、ひとつの”為されたこと”になるからだという。「死とは完結させることであり、最高の労働として、個体が個体であるかぎりで共同体のために引き受けるものだ。」cf.G.W.F.ヘーゲル『精神現象学』下、筑摩書房、2018年、27-8頁。
★6 セカイ系とは、一方に大世界の抗争のような極めてマクロな世界の物語があり、他方に、友人や恋人関係のような極めてミクロな関係性があり、かかる小世界の関係が、大世界の物語によって意味をもつような構造の作品を指す。たとえば、谷川流『涼宮ハルヒの憂鬱』では、ちょっと風変わりな部活に参加する高校生たちの日常が描かれるが、かれらがその部活に勤しむのは、世界の創造主兼部長である涼宮ハルヒが暴走して世界を破壊することがないように監視するためなのだ。
★7 それにしても、”遵法精神に溢れたヤクザ”ほど、ひどい語義矛盾もあるまい。
★8 これをもっとも鋭く具現化したキャラクターは、高井刑事であろう。パトカーの車内で帆高は、陽菜が人身御供に遭ったと訴えるが、刑事にはたんなるノイズとしてしか感知されない。もちろん、警察権力が法コードに従うこと自体には瑕疵はない(というか、そうでないと困る)。むしろここで問題なのは、かかる経済、法のシステムの合理性”だけ”で社会を考えると、直観的な人間性の本質から乖離してしまうということなのだ。
★9 cf.前掲、拙論、§記憶の忘却とハイデガーの「空け開け」cf.M.ハイデガー『存在と時間』上、下、筑摩書房,1994年。
★10 システムの側、あるいはその内側の視点から見れば、帆高の行いは常軌を逸した逸脱と映らざるを得ないだろう。
★11 『君の名は。』の破局が彗星の衝突であるのに対して、今作で描かれる破局は徐々に訪れるタイプの破局である。未曾有の災害を「享楽」というのはいささか不謹慎かもしれないが、だが、それに対する感慨は、バタイユの言う「蕩尽」にも似たものがある。
Text:Yoshio Okubo
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