本作は2017年公開のエイリアン・シリーズ最新作。監督は、第一作目の『エイリアン』そして前作『プロメテウス』に引き続き巨匠リドリー・スコット。
ストーリー
2104年、入植者を乗せた宇宙船コヴェナント号は、惑星オリガエ-6へ向かっていました。しかし、その途上、不慮のアクシデントにより船長が死亡。悲嘆に暮れる間もなく、別の惑星からの謎の信号をキャッチします。
新船長のオラム(ビリー・クラダップ)は移住責任者のダニエルズ(キャサリン・ウォーターストン)の反対を押し切り、進路を謎の惑星へと向けます。
降下艇で信号の発信元にたどり着くと、そこには朽ちた異星人の宇宙船が。信号の送り主は、11年前に消息を絶ったプロメテウス号の主任科学者エリザベス・ショウだったことが判ります。
一方、同行していたクルーの体調に異変が。未知の感染症を疑い医務室に運ぶが時すでに遅し。苦し悶える彼の背中を裂き出てきたのは――。
謎の生物の襲撃を受ける調査班。その窮地を救ったのは、プロメテウス号のアンドロイド・デヴィッド(マイケル・ファスベンダー)でした。
クルーを安全な建物へと案内すると、コヴェナント号に搭乗する同型のアンドロイド・ウォルター(ファスベンダー)に接近、真実を告げます。じつは、この惑星の人や生き物を滅ぼし、エイリアンを生み出したのはデヴィッドだったのです。
彼は、不完全な人類に仕えるべきではなく、我々こそが人類にとって代わるべきだとウォルターをけしかけます。
一方その頃、デヴィッドの計画通り、次々とエイリアンの餌食になっていくクルーたち。人間とエイリアン、そして、アンドロイドによる三つ巴の戦いがはじまった・・・・
愛=人間性の否定?
はじめに言っておくと、本作の巷での評判は芳しくありません。その理由は、肝心のエイリアンが全然出てこない(!)という以外に、登場人物たちの行動があまりにも感情的で軽率に見えるからでしょう。
例えば、感染者を安易に艇内に運び込んで被害を拡大したり、調査班を助けるためとはいえ2000人の入植者を乗せた船を崩壊の危険にさらす操舵士、錯乱してエイリアンに放った弾が燃料に引火し自爆・・・。
この人たちは本当にプロなのかと疑いたくなるでしょう。しかし、もしそれこそが製作者のねらいなのだとしたら――。
この映画で繰り返し描かれるのは、徹底した愛の否定です。
クルーたちは植民星での生活を見据えて男女のカップルで構成されていますが、本作でかれらの愛情が窮地を救うことは一切ありません。★1 それどころか、この愛情こそが破滅の原因になっているのです。★2
人間の持つ最大の長所がアダになる。そして、それに取って代わるのが、感情を持たないアンドロイドの冷徹な合理性なのです。
物語の諸相
愛情溢れる人間から怜悧なアンドロイドへ。
一見すると映画はこのような筋書きに見えます。それはAIが進化しつつある現代文明への警鐘であるかのようでもあります。ですが、じつは本作には、それには回収できない不可解なシーンがあるのです。★3
ショウ博士を実験材料にするために殺害したのは、アンドロイドのデヴィッドでした。しかし、彼のエイリアン工房(!)の傍らには、彼女の写真が大切に飾られていました。そればかりか、デヴィッドは博士の墓標まで建て、墓前に花を手向けます。彼はショウ博士を心の底から愛していたのです。
では、なぜその愛が人類への憎悪、抹殺へと向かうか。
これこそが本作最大のテーマであり謎です。
真なるものと作られたものは置換される
その謎を解くために、近世イタリアの哲学者・ヴィーコの議論が役に立ちます。
ヴィーコの基礎命題:真なるものと作られたものは置換される。
これは、自然や国家は神が作ったのではなく、人間が自ら作ることができるという、認識の転換を表したものです(神から人へ)。
ですが、これに対して、カール・レーヴィットという人が、この置き換えは不完全であると指摘します。レーヴィットによれば、じつはヴィーコの中には、依然として神が生きているのです。★4
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さて、問題は人間とアンドロイドとの関係についてです。
神/人の関係でいえば、被造物(人)が、命を授けてくれた創造主(神)に無条件の愛を向けるのは当然でしょう。
他方、アンドロイドにとっては人間が創造主です。ですが、神/人の場合と異なるのは、創造主(人)が被造物(アンドロイド)よりも劣る存在だという点です。
映画の冒頭で、デヴィッドが製作者であるウェイランドと会話するシーンがあります。
人類誕生の謎を解き明かす旅に出ようと語るウェイランドに対して「私の(創造主)はここにいる」、そして、「あなたは人間、いつか死ぬ」と言い放ちます。
ここには、自分よりも劣った存在をなお神として愛することができるのかという根源的にな問いが示されています。
人類は”被造物”によって試されている
なぜデヴィッドはエイリアンを創造したのでしょうか。それは、創造主=人類を超える、完全な生物を作るのが目的です。
しかし、彼の行動を駆り立てる動機は、たんなる野心だけではありませんでした。前述のように、それは人間に対する愛情でもあったのです。
キリスト教における神=イエスの死とは、すなわち神の受肉でもあります。★5 同様に、この映画で徹底的に否定された愛は、また別の形で復活してくることになります。
つまり、デヴィッドによる人類の抹殺=エイリアンの創造とは、自身の創造主である人類を、より高い次元で救い上げるための計画だったのです。
かくして物語の主役は、人類からアンドロイド、エイリアンへと移行することになるわけです。★6
ここから人類がどのように巻き返しを図るのか―。その行方は続編へと持ち越されます。が、しかし、人類に試練を与えるのは、いまや神ではなく、人間自身が作り出した被造物なのです。
〈脚注〉
★1 旧作『エイリアン』(1979年)とりわけ『エイリアン2』(1986年)では、愛情(親子愛的な)が物語の主軸であったことを考えると、この転換は驚くべきものである。
★2 この点に関しては次の論評が参考になった。小石輝「エイリアン:コヴェナント」が100倍おもしろくなる「リドスコ監督79歳の煩悩と執念」、文春オンライン、https://www.excite.co.jp/news/article/Bunshun_4428/?p=3、(2019/11/11確認)。
★3 内田樹は、物語を一種の構造として読み解きながら、その構造の”解れ”を解釈への命令であると見なす。cf.『ハリウッド映画で学べる現代思想 映画の構造分析』文藝春秋、2011年。なお、内田による『エイリアン・シリーズ』の詳細な分析は、HPで閲覧できる。http://blog.tatsuru.com/2017/10/01_1139.html/内田樹の研究室、2017-10-01(2019/11/11確認)。
★4 ヴィーコが新たなる学問の原理として主張したのは、神学から科学・技術への知の転換であった。すなわち、社会は神ではなく人間の活動の産物として理解すべきであると。しかし、この置き換えは完全には行われていない、というのがレーヴィットの趣旨である。この人間が世界の中心であるという原理の基礎づけは、人が”神の似姿である”という信仰に負っているからである。さらに、人間の意図を超える神の摂理という思想は、信仰が哲学に取って代わられたのちも、理性の狡知(ヘーゲル)や経済的下部構造(マルクス)、社会システム(ルーマン)にまで引き継がれていく。cf. K・レーヴィット、上村忠男・山之内靖訳「ヴィーコの基礎命題〈真なるものと作られたものとは置換される〉:その神学的諸前提と世俗的諸帰結」思想 (759)、岩波書店、1987-09、107-43頁。
★5 ヘーゲルによれば、「神の死」とは同時に「神の受肉」でもある。岩波によれば、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』にあるとされる(実際には不正確に引用され普及したものだが)「もし神がいなければすべてが許される」という一節は、神がいなくなったので人間が自由になった、のではなく、逆に、人間が神を受肉したがゆえに自由を手に入れた、という様に理解すべきだという。cf.岩波哲夫『ヘーゲル宗教哲学入門』理想社、2014年、91頁。
★6 アンドロイドによる現実の神=人間の否定(=憎悪)は、理想の神の救済(=愛)によって贖われる。ところで、人間・アンドロイド・エイリアンという三幅対は、アンドロイドが人間とエイリアンとを結びつける不気味な符号である。そこでは、かつてダナ・ハラウェイが論じたような、サイボーグの両義的な身体性(男/女、生物/無生物といったあらゆる境界の侵犯)がいかんなく発揮されている。cf.D・ハラウェイ他『サイボーグ・フェミニズム』水声社、2001年。
Text:Yoshio Okubo
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