京都アニメーションのスタジオ放火事件から3ヶ月が経ち、市内では今週末、亡くなった社員を追悼する「お別れ そして志を繋ぐ式」が開かれ、関係者や多くのファンが訪れました。
あらためて、亡くなられた方々の死を悼むとともに、傷ついたすべての方の傷が癒えることを祈るばかりです。
教養としてのアニメ
今回の事件で多くの人が、とりわけ若い世代が大きなショックを受けた理由は、同社の手掛ける作品が、受け手である彼女/彼ら、あるいは私たちの生活の中で日々感じている葛藤や悩み、苦しみに届き、ヒントを教えてくれるものだったからではないでしょうか。
本書は、事件の前に出版されたものですが、そうした実存・文学的アプローチから京アニの代表的な6つの作品(『涼宮ハルヒの憂鬱』『CLANNAD』『けいおん!』『Free!』『中二病でも恋がしたい!』『響け! ユーフォニアム』)を取り上げています。
と言っても、内容はよくある難しげな作品批評ではなく、作品の内容をコンパクトに紹介した上で丁寧に物語の枠組みを追っているので、作品を未見の人にも親切な構成になっています。
京アニが描く日常
この本でもテーマのひとつになっているのが、京アニ作品の特徴である細かな日常の描写です。
それは、登場人物たちの何気ない動作であったり、緻密な背景描写で表現されるのですが、しかし、それは、ただたんに日常が、かれらにとって楽しげで素晴らしいものだから、ではありません。
例えば、いっけん平凡な学園モノにみえる『涼宮ハルヒの憂鬱』のヒロイン・涼宮ハルヒは、平穏な高校生活を過ごすだけでは満足できない不器用な少女です。その彼女の抑圧された感情は、”じつは世界がハルヒ自身によって創られたものだった”というSF的な設定として現れます。
自分という存在の凡庸さ(=日常性)と、他人とは違うはずだという特別さ(=非日常性)。ここには、両者のギャップにどう折り合いをつけるのかという思春期にありがちな問いがあります。
物語の終盤、ハルヒは、主人公・キョンの努力によって、陳腐な日常のなかにある幸福を見つけ、今ある世界を受け入れます。その日常の輝きに説得力を与えているのは、アニメーションの力でしょう。
日常のかけがえのなさ
さらに付け加えて言えば、物語に深みを感じるのは、それがたんなる現実の肯定ではないからです。
そこには、”日常の輝きが、非日常の経験を通じてはじめて実感される”という構造があるのです。
現実世界に帰還したハルヒがいるのは、たしかに、今ここにある日常です。しかし、その世界の日常の意味は、もしかするとありえるかもしれない非日常と共にあることによって支えられているのです。
ほんとうは世界はこのようにではなく、つねに別様でもありうるという可能性にも開かれている。このような気づきが、作品を観る私たちにもきっと、この日常を生きる希望と、そして、そのかけがえのなさを教えてくれるのです。
Text:Yoshio Okubo
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