千葉雅也『意味がない無意味』:この世界は無意味なのか?

「現実はなぜこのようなのか」「なぜ世界にはこのような不条理があるのか」

際立って深い悲嘆や喪失を経験したとき、私たちはこのような感情を抱く。この根源的な問いにたいして、人文学は何か手がかりを与えてくれるのだろうか。

現代思想界で注目されている議論、通称「思弁的実在論(SR)」の紹介者である著者は、世界が現にそうであることの理由、”意味”の渇望にたいして、あえて”無意味”、「意味のない無意味」をキーワードに考える。

 

最善の世界?

世界の様相についての根源的な問い。西洋哲学ではたびたび神の存在によって説明されてきた。ライプニッツは、そのもっとも有名な学者のひとりだ。なぜ現実はこのようになっているのか。彼は、“神がそのように選択したからだ”と考えた(充足理由律)。★1

いっけん、人間の目から見て悪いことでも、神の超越的な視点から見通せば、もっともな善き理由があるというのだ。だから、「なぜ世界には不条理が…=他の可能性もあったのでは?」という感覚の原因は、神にたいする、人間の有限性に起因する理解不能性ということになる。

 

ところが、このライプニッツの議論は、すでに18世紀において、激しい批判に晒されることになる。1755年11月1日、リスボンを未曾有の大地震が襲ったからだ。

よく知られているように、フランスの哲学者・ヴォルテールは、震災直後に出した本の中でライプニッツを批判した。★2 それは、「破局においても、なお神を信じ続けることは可能か?」という苦難の神義論だった。

 

意味のない無意味へ

もちろん、現代の世俗的な社会は、神の存在を前提に回っているわけではないから、21世紀の私たちとしては、ヴォルテールの意見が、至極もっともだと感じるだろう。だが、話はそれほど単純ではない。じつは、神から縁を切ったはずの現役の近代哲学にも、宗教的な思考が残っているのだ。

この残存する形而上学を一掃することが、SRを掲げるQ・メイヤスーの戦略である。★3 結果、この世界の様相を決定する神は存在しない。だから、この現実に必然的な理由はなく、端的に存在するのみだ、と。

 

だが、もしここで議論が終わりなら、がっかりだ。私たちは、たんに、わけのわからないこの現実を受け入れて、諦めるしかないことになるのだから。

しかし、そこからは、いささかアクロバティックな展開になっている。前述の通り、この世界に究極の保障者=神はいない。ということは、この現実がこうでなければならないという、必然的な理由はまったく存在しないことになる。

だから、ほんとうはこの世界は別の様でもありえたという可能性が、別の形で再度すくい出されるのだ。この世のすべてのものは、いまは、たまたまそうなっているだけで、いつでも別様なあり方に豹変しうるのだ、と(=意味のない無意味)。

 

解釈/無解釈的世界の並立

「意味のない無意味」とは何か。著者は、メイヤスーの議論を次のような喩えでもって敷衍する。「秘密」とは、一方では、それが何なのかをめぐる解釈を増殖させる源として機能する「穴」のようなものである。しかし、他方では、「石」のようにかたく、絶対に踏み込めない位置取りでもあると。★4

 

この喩えは、私たちが、道徳的な困難に直面したとき、手がかりになる。この「穴」によって表されるものこそ、社会的・道徳的な正しさを問う「人倫の世界」のコミュニケーションだからである。

たとえば、何か事件や事故が起きると、それにたいして、自然の因果性とは別に、動機や責任の追及や、さまざまな角度から無数の解釈、物語化が施される。それは、解釈、物語には無数の可能性があり得、そして、どれだけ言葉を重ねても、出来事の「穴」それ自体は、決して埋められ得ない暗号だからである(=意味のある無意味)。★5

 

他方、端的に「石」である「意味のない無意味」とは、”自然の法則が、たまたまそのようになっていたから”といった、解釈の余地のない理由のなさである。

たとえば、加害者の責任を問おうとしたとき、そもそも、かれに行動を選択できる主体性がなければ、原理的に責任を問うことはできない。

著者の指導教員でもあるC・マラブーは、最近の著書で、脳腫瘍やアルツハイマーなどが原因で生じる、脳のマテリアルな変化による精神の変容(消失)について論じているが、★6 こうした、身も蓋もない、自然・物質的な偶有的作用こそ、「意味のない無意味」の現れであろう。

 

そして、不気味なものへ

問題は、この無倫理性、無解釈的な「意味のない無意味」が、社会的なアクチュアリティを増しているという直観である。著者は、こうした解釈/無解釈の世界とが並立した状況として、現在の社会を捉えている。

いわく、一方では、際限のない(だからこそ、どこかで中断せざるをえない)”解釈の層”があり、他方で、解釈の彼岸に、身も蓋もない端的な”物質の層”がある。

だが、この(理由についての応答が不可能な)後者が、前者の領域と「衝突」するとき、それは、途方もなく”不気味なもの”として感じられてくるのではないだろうか。★7 この、いわく言い難い”不気味さ”を、ある意味で、いかにして”馴致”できるのかが、「なぜこの世界は…」という問いを解くカギではないだろうか。

 

〈脚注〉
★1 G・W・ライプニッツ「形而上学叙説」『世界の名著30 スピノザ・ライプニッツ』中央公論社、1980年。

★2 ヴォルテール『カンディード』岩波書店、2005年。

★3 メイヤスーは『有限性の後で』の中でカントを「相関主義」として批判している。近代哲学の基点たるカントの認識論的実在論は、客観的な実在を、主観的認識から独立した「モノ自体」として認識の外側に括りだした上で、認識可能な範囲をその内側へと制限した。よって、カント的パラダイムでは、モノの実在は、認識主体との相関関係によってのみ捉えることができることになる。それに対して、メイヤスーは、人間の思考から独立した、実在を哲学的に証明することを目指している。cf.本書、「思弁的実在論と無解釈的なもの」139-40頁。

★4 「石」という比喩は、ハイデガーの議論を念頭においているが、その趣旨は、徹底して反ハイデガー的である。1929−30年に示された、石の世界(無世界的)/動物の世界(世界貧乏的)/人間の世界(世界形成的)という三幅対のテーゼ。現実態(エネルゲイア)にたいする潜在態(デュナミス)の優位テーゼ。それにたいして、著者は、2000年代の東浩紀をはじめとする「動物論」ブームから、2010年代の「物=ポスト・ヒューマンの現代思想」へという哲学的転換を指摘する。cf.前掲、136,57-8頁。

★5 そうした状況がもっとも可視化され現れているのは、インターネットのSNS上のコミュニケーションであろう。たいていの場合、議論が終わるのは、合意に達したからではない。それは、たとえば、「携帯の電池が切れた」とか「疲れたから」といった、議論外の物理的・身体的な制約によって不意に断ち切られる。

★6 cf.C・マラブー『新たなる傷つきし者』河出書房新社、2016年。

★7 責任主体の衰退あるいは消失。たとえば、自動運転車の事故もこの範疇で考えることができるかもしれない。自動運転車の交通事故の責任は、誰が取るべきなのだろうか。乗員がまったく運転に関与していない場合、責任者はドライバーではない。ならば自動車を製造したメーカーの責任になるのだろうか。その場合、自動車の設計は人間が行っているにもかかわらず、事故はあたかも自然現象のような、確率的な現象として認識されるのだろうか。

 

Text:Yoshio Okubo


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