第2回 京アカゼミを開催しました

京アカゼミ、今回は「精神分析から見る現代の知のあり方」と題して、京都アカデメイアの浅野直樹が担当。
発表の間、参加者からそのつど質問を受け付けながら、打ち解けた雰囲気のなか行われました。

以下、内容のまとめです。

報告では、まず、理想的な知のあり方として、「これが答えだから覚えろ」式の”真理のお説教”ではなく、ちゃんと先生が理由を説明し、その上で、自分が納得できるのが望ましいだろうと。

歴史的に位置づければ、古代ギリシャのソクラテスが言う「知」は、単にモノ知りがエラいのではなく、みんなにとってより善きものを目指す「徳」という観念と結びついていました。

さらに、その延長上に精神分析が登場します。フロイトが従来の催眠療法から「自由連想法」に切り替えたことは、患者自身を客体ではなく、”知的な主体”とみなす点で評価できます。

一方、目に見えない人間の心理や無意識を扱う精神分析には、本当に科学的なのかという疑問が寄せられてきました。そこで、行動療法などの実証的なアプローチが考案されますが、今度は、患者が単なるモノのようになってします。

その難点を乗り越えるのが、「認知療法」です。認知療法では、患者がもっている認知の歪みを、コミュニケーションを通じて自ら修正していくという方法です。そこでの医師の役目は、患者自身の学びを助けることです。

以上、精神分析の歴史から浮かび上がるのは、2000年以上昔から受け継がれてきた、知のあり方の伝統です。

最近、AI(人工知能)が話題です。お店のレジ係、事務、車の運転手…。多くの仕事がAIに置き換わったとき、私たちが”自分で考えること”は、どれほどの意味をもつのでしょうか?  

しかし、もし人がAIに従うだけなら、それまでにない新しい状況に対応できません。それは、精神分析家の説明を表面上受け入れても、別の形で症状が出てくるのと同じです。ほんとうに解決できるのは、自分自身、問題を深いレベルで理解したときなのです。
 

まとめの内容について一切の責任は筆者・大窪にあります。念のため。

 

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