第三回 京都アカデメイアゼミ。今回は、「別れはなぜあるのか」と題して、中森弘樹が発表を担当。北大路・ゲストハウス・カンノコにて開催しました。
転校や転勤、失恋、そして死別…。人と人との別れは、ときに悲しみを伴うものです。発表では、そんな「別れ」を社会現象として捉え、「なぜ私たちは別れを経験するのか」というユニークな問いからスタートしました。
まず、素直な答えとしては、「別れが自由の条件」だという説。人の移動や職業選択が自由になった近代社会では、必然的に別れを経験することが多くなります。これは、別れがもつポジティブな側面です。
しかし、さらに詳しく見ていくと、別れは様々なタイプに分けることができます。その中でも「あいまいな喪失」という分類が注目されます。たとえば、行方不明者や誘拐事件、またはアルツハイマー病のように、物理的・心理的には不在でも、遺族が存在を感じ続けているような場合。「あいまいな喪失」は、長期にわたる心理的ストレスになるといいます。
この「あいまいな喪失」の痛みを避けるために、別れの挨拶や葬送儀礼が重要視され続けてきたのではないか。では、なぜ、明示的な別れは、その痛みを和らげるのでしょうか。
そこで、日本語の「さようなら」という別れの挨拶がヒントになります。「さようなら」は、もともと接続詞の「さらば」「左様なら」から来ています。そこには、過去と現在とがつながっていることと、それを改めて確認するという、両義的な感覚が生きられています。
このように、過去と現在とを切り結び、人生の節目節目で関係を再確認する作法は、個人のアイデンティティを物語的に形づくることに結びつきます。それが全面的に開花する時代が近代です。かくして、別れは、小説に描かれるような、ドラマチックな成長の物語として経験されるようになります。
一方、現代では、インターネットやSNSの普及により誰もが簡単につながれるようになりました。その反面、かつてに比べると、別れそのものが経験しがたいものになっているのではないでしょうか。たとえば、携帯のアドレス帳には、長い間連絡を取っていない他人の情報が山積みになっているように。
ここにきて、「別れを通じて成長する」という近代の物語的自己形成は、機能不全に陥っているのではないか。そのとき、私たち自身や社会に一体どのような変化が起きるのでしょうか。この現代的であると同時に非常に深い問題について、中森氏、そして、参加者のみなさんと一緒に考えました。
中森弘樹
1985年生まれ。2015年、京都大学大学院 人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学。博士(人間・環境学)。現在、日本学術振興会特別研究員(PD)、京都大学・立命館大学・京都造形芸術大学非常勤講師。
著作に、「網野善彦――『無縁』の否定を超えて」(大澤真幸編『3・11後の思想家25 別冊大澤真幸 THINKING「O」』左右社、2012年)、「失踪者家族の悲嘆」(髙木慶子・山本佳世子編『悲嘆の中にある人に心を寄せて』上智大学出版、2014年)など。
近著に、2017年10月刊行の『失踪の社会学』(慶應義塾大学出版会)がある。