立川武蔵『仏教原論 ブッディスト・セオロジー』:仏教のアップデートに向けて

 

 

 

 

 

 

 

 

トリヴィシャ(三毒)

激変する現代社会において私たちはどう生きるのか? この本質的な問いにかんして、椎名林檎の近作「鶏と蛇と豚」の回答はじつに鮮烈でした。

タイトルにある三匹の動物は、それぞれ人間の根本的欲望を表すといいます。
MVでは、半獣となった椎名林檎が東京に降り立った三獣(鶏・蛇・豚)を掌握するという筋書。作品のメッセージは、欲望の徹底肯定であり資本主義経済の全面肯定です。★1

しかし、この作品をたんに商業的に成功したアーティストによる現状追認だ、として受け流すことはできないでしょう。というのは、私たちの同時代的な感覚を鋭く切り取っているからです。

人間の欲望、資本主義が過剰なまでに肯定されるのは、それに代わる、他の選択肢が見つからないからではないでしょうか?
その一方、いまやグローバルに展開する資本主義が様々な深刻な問題を引き起こしているのも事実です。イギリスの社会学者・アンソニー・ギデンズは現代社会のことをコントロール不能な巨大暴走トラック「ジャガーノート」に喩えます。
つまるところ、欲望の全面肯定とは、暴走トラックのアクセルを限界まで踏み続けることを意味するわけです。★2

本書は仏教学の立場から現代の社会的な問題に切り込んでいこうとする非常に挑戦的な本です。

仏教というと、葬式のような個人や家族のための霊的救済が思い浮かびますが、他方、それ以外の影響力となると、あまりピンとこないかもしれません。
本書からは、仏教が現代社会の諸問題(例えば地球環境問題)に対して、ほとんど発言力がないことへの強い苛立ちが感じられます。いまとは別の途方、それを著者は「仏教神学・ブッディスト・セオロジー」★3あるいは「否定の手」として主張すべきだと述べます。

根本問題は、欲望のコントロール

現代社会の根本問題は何か。それは人間の欲望であると。

しかし、いつの時代の人間も欲望を持っていたはずです。むしろ問題なのは、人間の欲望が、地球の生態系を脅かすほどに拡大してしまったことにあります。そして、その原因は、西洋近代に特有の世界観にあるのだと。

西洋的世界観とは、一言で言えばキリスト教的な伝統です。もちろん、近代以降、科学的な考えが普及するので、一見キリスト教の影響力は弱まったようにみえますが、じつは社会の根底には神や聖書の教えが流れているのです。★4

たとえば、西洋において人権がことさらに尊重されているのは、人が神の似姿であるという宗教的な考えが効いているからです。★5 この人間を世界の絶対的な中心に置く考え方(人間中心主義)が、好ましくない形で現れることが問題なわけです。

 
他方、仏教はその成立以来、人間の欲望=煩悩をいかにコントロールするかの探求に労力を費やしてきました。そのときに肝となるのが、やはり仏教独特の世界観です。

仏教は、客観的な世界の実在というのを素朴には認めず、世界を、それを認識する主体との関係性の中で考えました(縁起説)。
人間の欲望は、欲を感じる感覚意識とその対象物との相関関係から生じる。★6 平たく言えば、その人の心のありよう自体が、(その人にとっての)世界を形作るわけです(この辺はカントの認識論とも整合する気がします)。

マンダラ的、浄土的世界観

そうした世界観をビジュアル的に表現したものがマンダラです。

マンダラは約5世紀頃に登場したとされる、密教の儀式で用いられる、諸仏を配した円形のイコノグラフです。
とくに「胎蔵界マンダラ」「金剛界マンダラ」が有名ですが、そこには理想的な世界の有様、聖化された世界がミニチュアサイズで表現されています。そして、修行者はマンダラを心に描く(観想する)ことで、仏と一体となるわけです。★7

密教がどちらかと言うと現世利益的な傾きであるのに対して、来世信仰の傾きを持つのが浄土教です。
浄土教では、この世を苦しみの世界(穢土)、あの世を苦しみなき世界(極楽浄土)と捉えます。称名念仏、つまり阿弥陀如来の名を唱え、帰依することこそが浄土へと往くための方法だというわけです。

でも本当に浄土など本当にあるのか、どのようにして確かめられるのでしょうか? 一応、経典によれば、「はるか昔、法蔵菩薩という人が、すべての生きとし生ける者を救うと請願し、仏(阿弥陀如来)となった」。論理的には請願が成就している以上、すべての人の救済が保障されているというわけです。

しかし、教えの内容にほんとうに説得力が宿るのは、それが信じる足る理想世界、物語を提示したからでしょう。
とりわけ鎌倉期以降、日本で浄土教が広く普及していった訳は、浄土教が説く物語を切実に受けとめる人々が大勢いたからです。

否定の手

信仰が現状とは異なるオルタナティブな世界観を提示しえたとき、それは著者の言う「否定の手」として現れます。

否定の手とは、仏教の教義にもとづいて、現状(例えば資本主義社会)をラディカルに批判するための倫理的指針ないしは根拠づけです。
この否定の手が機能するには、俗なる世界と聖なる世界との往復が不可欠だと言います。
俗なるものとは、仏教的に言えば、煩悩に囚われた苦しみの世界です。逆に、聖なるものとは、俗なるものの否定、つまり煩悩から自由になった状態です。

聖なるものが社会実践として機能する原動力は、まず俗なるもの(現世)から聖なるもの(密教や浄土的世界)へと離陸し(1)、聖なる世界に触発され(2)、再び現世へと戻ってくる(3)というダイナミズムにあります。★8

しかし、実践の具体的な方法となると、残念ながら十分に展開されていません。だから、仏教が社会や政治的な影響力をどのように発揮してゆけるのかが結局よくわからないのです。

仏教神学と社会理論

ここからは本書を読んだ上でのコメントです。結論から言えば、本書が具体的な実践を十分に示せなかったのは、社会理論の観点が欠けているからではないでしょうか?

著者は、最新の自然科学の知識や哲学思想を取り入れた上で、仏教をアップデートしていくべきだと主張します。その路線は正しいと思いますが、その先に、人間の欲望と社会構造あるいはテクノロジーの関係を分析する必要があるように思われるわけです。

たしかに、環境問題の根本には人間の底すらない欲望があるとも言えますが、しかし、個々人の欲望が地球規模の破壊力を持つのは、それが様々なテクノロジーや社会構造によって増幅されているからです。

だから、こうした社会システムをいかにコントロールできるかという問題は、たんに個人の心理とか努力には還元できない、きわめて複雑な社会的問題であるわけです。★9

 
第二に、政治的な影響力について。仏教神学が現状に対する「否定の手」として機能するかどうかは、それが、今とは違う別の世界観を示せるかにかかっています。
ところで、現代の民主的な政治制度は「世界観的中立性」をモットーとしています。中立性というのは、特定の宗教的世界観にもとづく決定を無理やり押し付けるのはNGという考えです。なので、仏教神学の「否定の手」が、直接政治的な影響力を与えるのは困難でしょう。

ではどのような方法なら可能でしょうか。やはり、仏教神学と自然科学、人文学とのコミュニケーション、相互学習が不可欠ではないかと思います。
仏教の教えが科学、学問とも協調するとき、はじめて仏教的世界観・物語が説得力ある形で、公共的議論に参加する人々の動機づけや判断に(間接的な)影響を与え、ほんとうの人間社会の解放を可能にするのではないでしょうか。★10
と、このように考えてみました。
 

〈脚注〉

★1 この作品は仏教の教説をちょうど真逆にしたものになっている。だが、俗物的な欲望に対する過剰なまでの肯定は、逆説的だが、それ自体宗教的な輝きを帯びて見えてくる。というのは、〈現世の肯定〉は、じつは〈来世の否定〉を媒介として現れているからだ。歌詞にあるように、自分自身の感覚(眼・耳・鼻・舌・身)的体験こそが至高の体験であるというのは、結局のところ、来世の否定としての〈現世〉の様相を絶対化することになる。MVの冒頭で経文を唱える僧侶が砂塵と化すシーンは、その鮮やかな表現と言う他はない。

★2 グローバルな資本主義が生み出す危機に対して、資本主義自身の自己修正が機能するという楽観シナリオはどの程度説得的だろうか。例えば、2000年代中盤の米国のサブプライムローン危機をとってみても、社会システム自体が生み出す予測困難なリスクはますます深刻化しているように思われる。

★3 この奇妙な用語について、本書では詳しく定義されていないと思う。敷衍しておけば、仏教では神(諸天)はさして重要な位置を占めないが、たとえば浄土教では阿弥陀仏が、さながら一神教の神(God)のような救済者のように信じられている。ひょっとすると「仏教神学」とは、聖なる世界の様相(マンダラ的、浄土的…)を基盤として、現世の有様を批判的に捉えようとする企てではないだろうか。

★4 たとえばハイデガーは主著の『存在と時間』において「 なぜ何もないのではなく、何かがあるのか? 」と問い、存在論を哲学の中心に据えたが、仏教においてはついにこのような問題は問われなかったという。仏教の中心教義である「縁起=空性」では、世界やその中にいる存在者を不変な実在とはみなさない(実在するように見えてもそれは仮のものにすぎない)。他方、キリスト教では創造主は、定義上、世界の外側にいる人格的存在としての実在でなければならないという違いがある。もちろん、ハイデガーは哲学者として神学との矩を踏み越えないが、彼の「存在者, das Seiende」に対する「存在, Sein」の優位とか、晩年の「最後の神(のごときもの)」なる概念は、少なからずキリスト教的伝統が影を落としているようにも思われる。ハイデガーとキリスト教との影響作用史については、J. マクウォーリー『ハイデガーとキリスト教』勁草書房、2013年、を参照。

★5 『旧約聖書』「創世記」第1章 27節「 神は自分のかたちに人を創造された」。人間以外の動植物については言及していないから、人間は神において特権的な存在であると解釈できる。あるいは、ハリウッドの宇宙人が侵略してくる映画で、なぜ暗黙のうちに、たとえば微生物でなく、人間が地球の代表者であるかのように描かれているのかを考えてみるとよい。

★6 人間の意識と感覚器官である「六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)」と、それに対応する対象の「六境(色・声・香・味・触・法)」。これらを総称して「十二処」という。cf. 桜部建・上山春平『存在の分析「アビダルマ」』 仏教の思想〈2〉 、角川書店、94-9頁。

★7 さらに興味深いのは、このマンダラが儀式の後には破壊されるということだ。原始的なマンダラは砂で書かれ、儀式の終わりと同時に消し去られなければならなかったという。それは理想的な世界であっても、それを実体化して捉えないための工夫(マンダラもまた空である)であろう。

★8 この過程は「ABC三点・空の実践プロセス」として示されている。これは、龍樹『中論』の実践プロセスを図式化したものだが、宗教的な実践プロセス一般にも適用可能だという。cf.本書、181-2頁。

★9 歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリは、近著『21世紀のための 21つのレッスン』“21 Lessons for the 21 Century”,2018 の宗教の章の中で、宗教が現代社会の技術的、あるいは政治的な問題にまったく対応できなくなっていると指摘する。pp.127-138。

★10 宗教の政治的公共圏への模範的な関わり方については以下の論考を参照。J.ハーバーマス「公共圏における宗教」『自然主義と宗教の間』法政大学出版局、2014年、133-68頁。

Text:Yoshio Okubo

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