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戦後70年安倍首相談話とマイケル・サンデルの「正義」の話

京都アカデメイアの浅野直樹です。これから述べることは私個人の見解で、京都アカデメイアの公式見解ではないことを最初にお断りしておきます。

 

京都アカデメイア塾の授業準備の一環で、遅まきながらマイケル・サンデル著、鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』(早川書房、2010)を読みました。

 

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この本を読んだ直後に戦後70年安倍首相談話のニュースに触れて、日本のマスコミがこの談話に曖昧なスタンスを取っているように見える理由が自分なりにわかった気がしたので、ここにまとめます。

 

上に挙げた『これからの「正義」の話をしよう――いまを生き延びるための哲学』の第9章「たがいに負うものは何か?――忠誠のジレンマ」の内容がそのまま使えます。そこでは、先祖の罪を償うべきかといった問いに対して、以下の2つの立場があるとされます。

 

 

道徳的個人主義 共同体主義
(物語的な考え方)
主な提唱者 カント、ロールズ アリストテレス、マッキンタイア
先祖の罪を償うべきか 償う必要はない 償うべき
長所 私の責任は私が引き受けたものに限られるという解放感 物語的説明により道徳を考えることができる
短所 一般に認められている道徳的・政治的責務の意義がわからなくなる コミュニティの負荷は抑圧となりがち

 

戦後70年安倍首相談話は、この2つの立場が入り交じっているので、それに対する反応が曖昧になってしまうと考えられます。

 

 日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

 

これが道徳的個人主義の典型です。

 

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しかし、それでもなお、私たち日本人は、世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません。謙虚な気持ちで、過去を受け継ぎ、未来へと引き渡す責任があります。

私たちの親、そのまた親の世代が、戦後の焼け野原、貧しさのどん底の中で、命をつなぐことができた。そして、現在の私たちの世代、さらに次の世代へと、未来をつないでいくことができる。それは、先人たちのたゆまぬ努力と共に、敵として熾烈に戦った、米国、豪州、欧州諸国をはじめ、本当にたくさんの国々から、恩讐を越えて、善意と支援の手が差しのべられたおかげであります。

 

は共同体主義(物語的な考え方)です。

 

もし前者の道徳的個人主義を貫くなら、戦後の焼け野原を生きた人はもう人口の二割程度ですし、次の世代は次の世代で生きていくので、2つ目の引用のような発想をしないでしょうし、後者の共同体主義(物語的な考え方)を貫くなら、あの戦争に直接関わっていない子や孫も自分が直接関わっていないという理由だけで謝罪をしなくてもよいということにはなりません。

 

どちらの立場がよいかはともかく、こうした2つの立場があると考えれば議論の土台になると思いまして、紹介させていただきました。

 

(戦後70年安倍首相談話は、平成27年8月14日 内閣総理大臣談話 | 平成27年 | 総理指示・談話など | 総理大臣 | 首相官邸ホームページに全文があるので、そこから引用させてもらいました)

鉄板classe vol.1『あさりが教えるボクらの未来』を開催しました

 
7月11日、鉄板classe(テッパン・クラッセ)inおっとうvol.1『あさりが教えるボクらの未来』を開催しました。

今回は「夜ごはんのついでに学べる時間をつくろう」をコンセプトに、トークやディスカッションだけではなくディナーも楽しんでいただくという、いつもとはかなり趣の異なるイベントとなりました。

会場は、大阪市営地下鉄谷町線、中崎町駅から徒歩すぐの鉄板焼「おっとう」さん。京都アカデメイアが遂に大阪に殴り込みです!

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第1回のテーマは「あさり」。

あさりの話?

あの、貝のあさり?

どういうこと?一体、何が始まるの?

こんな疑問が渦巻く中、それでもたくさんの方にご来場いただいた結果、最終的には何と定員を少しオーバーすることに!参加してくださった皆様、本当にありがとうございました!

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講演は三部構成でした。最初のコーナーでは、池波正太郎の時代小説を話の枕にして、江戸前の代表的な食材だったあさりの産地が現在に至るまでにどのように変遷していったのかを追いました。その過程で日本の近現代史が少し透けて見える場面も。

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続いては和辻哲郎の名著『風土』をきっかけに、「日本のあさり」が海を渡ってイタリアなど海外の様々な国で食べられ、そして養殖されている現状を紹介しました。和辻が「死の海」と呼んだ地中海では、何と日本国内よりも多くの「日本のあさり」が育てられているという衝撃の事実が明かされます。

そして最後に、あさりの「産地偽装」にまつわる隠れたトリックや生態系の破壊に話が及び、食のグローバル化の中で気づかないうちに静かに起こっていた問題とは何なのか、そして私たちはその問題をどのように捉える必要があるのかについて解説しました。

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講演後には質疑応答とディスカッションも活発に行われ、参加者の皆様にはありふれた食べ物であるあさりを通じて社会を考える意外さと面白さを堪能していただけた様子でした。

講演終了後は「おっとう」さんが自信をもって用意した特別なコース料理を皆様に楽しんでいただきました。もちろん、今回の主役であるあさりもワイン蒸しとしてテーブルに。永遠に食べられるんじゃないかと思うくらい身が厚くておいしいあさりでした(ただ食いしん坊なだけ)!
あさり

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そして、ディナーと並行しつつ、今回のもう一つの企画が開催されました。「今日の講演内容がちゃんと理解できているか復習する」という名目で大喜利に答えてもらう、その名も「復習大喜利」です!「(池波正太郎の写真を見せて)この人は誰でしょう?」「日本のあさりと西洋あさりの違いは?」など、次々出されるお題に対して、大喜利参加者の皆様は見事なまでに「ちゃんと理解できていない」答えを繰り出す展開に。異様な熱気に包まれて、もしかしたら本編より盛り上がっていたのではないでしょうか?こちらとしては嬉しいような悲しいような・・・。

とにかく異例の内容づくしだった「鉄板classe」。今後も様々なテーマで皆様と楽しく議論できるイベントにしていこうと思いますので、ご意見、ご感想、ご要望などございましたら、京都アカデメイアまで是非お寄せください。お待ちしております。

中島啓勝

<関連サイト>
鉄板焼おっとう/Facebook

 

第2回京都アカデメイア古典読書会「戦後70年の夏に丸山眞男を読み返す」のお知らせ

百木です。
本格的に暑い夏がやってきましたね。
第2回古典読書会のお知らせです。

<第2回京都アカデメイア古典読書会>

課題テキスト:丸山眞男「超国家主義の論理と心理」「日本ファシズムの思想と運動」
日時:8月1日(土)14~17時
場所:GACCOH(京阪出町柳駅から徒歩5分)
※参加費無料ですが、場所代としてひとり数百円程度のカンパをいただきます。

現代政治の思想と行動

超国家主義の論理と心理

前回はマックス・ウェーバー『職業としての政治』『職業としての学問』を読みましたが、今回は戦後70年目の夏にあらためて丸山眞男を読み返す、ということで、「超国家主義の論理と心理」と「日本ファシズムの思想と運動」という二つのテキストを読みたいと思います。

いずれも『現代政治の思想と行動』(未来社)または『超国家主義の論理と心理 他八篇』(岩波文庫)に収録されています。一番手頃に入手しやすいのは岩波文庫版かと思いますが、どのようなかたちのテキストをご参照いただいても結構です。
当日はレジュメ担当者が簡単な要約発表をしますので、ご関心ある方はテキストを読まれていなくてもご参加可能です。

あらかじめ参加人数を把握したいので、参加希望の方は事前にkyotoacademeia[@]gmail.comまたは百木までご連絡いただければ助かります。ぜひお誘いあわせのうえ、ご参加ください。

ちなみにその日の18時からGACCOHさんにて「やっぱり知りたい!ニーチェ」講座が開催されるそうです。
こちらは直接、京都アカデメイアとは関係ありませんが、関心ある方はこちらもどうぞ。

以上、よろしくお願いします。

ウェーバー『職業としての学問』『職業としての政治』読書会のお知らせ

下記のとおり、読書会を開催することになりました。
専門知識がある方もない方も、 ご関心ある方はどなたでもご参加ください。

日時:6月20日(土)16〜19時
場所:GACCOH (京阪出町柳駅から徒歩5分)
課題図書:マックス・ウェーバー『職業としての学問』『職業としての政治』

※参加費は無料ですが、場所代としてひとり数百円程度のカンパを頂きます。

テキストは岩波文庫版が最も入手しやすいかと思いますが、 それ以外の出版社のものでも構いません。
日経BPクラッシクから出ている中山元訳のものも、二つの講演がひとつにまとまっていて便利かもしれません。
飛び入り参加も可能ですが、事前にある程度参加人数を把握したいので、 参加希望の方はkyotoacademeia□gmail.com(□に@を入れてください)までメールいただけると助かります。 どうぞよろしくお願いします。

職業としての学問 職業としての政治 nikkeibp

読書会とパラダイス

 

こんにちは!村田です。(批評鍋でいつも鍋を食べているだけの者です。)

京アカでブログを書くのは実に実に久しぶりでして、ブログもリニューアルしたことであるし、自己紹介もかねて「私にとって京アカとは」的なテーマで書いてみては、と勧めていただいたのでありますが、昨今京アカの活動にもめっきり参加できておらず(鍋を食べる以外)、勉強からも遠ざかり気味でありなんとも情けない思いであります。

とはいえちょくちょく読書会に参加したりもしておりまして、ずっと 「私にとって京アカとは」 と問われると「アカデミック出会い系みたいな感じ」と答えておったのですが、まさに以前に『構造と力』読書会を通じて知り合ったメンバーと、最近はフロイト読書会をしました。ひとりで考えるとすぐに行き詰まってぐるぐるしがちな性質なのでありますが、フロイトという著者はひとりで読むとぐるぐるしがちの極致のようなものであるから、いろんな専門の人が集まって、時代背景、他の思想家、現代の精神医学、はたまた個人的体験にも話を飛ばしながら読めたのは有難いことであり、大学を離れて久しいが、やっぱ勉強会ええなあ、と思ったのでありました。

さてそうしてわいわい勉強できることに感謝する一方で、わたしはじめじめひとりで何かすることも好きであり、じめじめひとりで何かして自足している人に憧れます。

たとえばわたしは「パラダイス」めぐりを趣味としているのであるが(「パラダイス」とはテレビ番組『探偵ナイトスクープ』で名付けられた、いかにも土地の余った田舎や郊外でたいていは中高年の男性が一人で、なんともいえない珍妙なオブジェ群やアトラクション群でもって或るワールドを作り上げてしまったものを指す)、「パラダイス」はアウトサイダーアートの一種であると思っておりその著名なものがシュヴァルの理想宮であると思うのですが「どこから/どこまでがアートか」という論にここでは深入りしたくないので「パラダイス」という絶妙な名称で統一しますが、パラダイスが好きなのは、それがひとり作者(パラダイサー)の世界観に基づいてその自足のために飽かずコツコツと作られているところです。勿論来場者の愉しみが考慮されていたりもするのだけど(でも独りよがりだったりする)、基本的に、儲けが度外視され作者が愉しんで作っている、というところに惹かれるのであります。

一方でこの自分の嗜好に私は疑念をもってきてもおりまして、それは、この嗜好は、オーソライズされていない者の作品(と呼んでよいか分からんが)に、しふぉん主義の中で失われたピュアネスやなんやを投影する、ある種失礼な「オリエンタリズム」、あるいは嘲笑的キッチュ趣味のようなものがベースにあるのでないか?という疑念であったのでありますが、先日先輩に「ものすごく絵が下手な絵付け職人」を教えてもらい、その人の作品を見、たしかに絵がすごく下手なのだが不思議な迫力のある世界が展開されているのを目の当たりにし、さらにその制作者の目が作品に凝らした工夫や趣向を語りながらきらきらと輝いているのを見たとき、「いや!違う!」と強く思うたのでした。「自分は、未熟だったり売れなかったりしても愉しんで描き続けている人が好きなのだな、そしてそうして描き続けることは『失われた』ことでなく、端的に自分にとって『まだ手に入れられていない』ことなのだな、だからこのパラダイス愛は敬意なんや……!」と強く感じたのでありました。

なんか勉強するとか論文書くとかいうのも絶対そういうパラダイス的側面をもっていると思うておりまして、そのように自身も、ひとりでじめじめとパラダイス的世界を作り上げつつ出会い系的世界にてその我がパラダイスを伝えられたらばまったく理想的なのでありますが、なかなか実際はひとりでは集中力が続かずに中途半端に出会い系に頼る、という凡人回路をぐるぐるしている日々です。
またなんか書きますね。

(画像はハニベ巌窟院の未完成大仏)

 

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将棋電王戦FINALが投げかけたもの

電王戦FINALが閉幕した。
結果は、プロ棋士がコンピュータソフトに3勝2敗で、初めてプロ棋士側の勝ち越し。第1回から第3回までの電王戦でプロ棋士側が大幅に負け越してきただけに、将棋関係者や将棋ファンからは安堵の声があがっていた。
とはいえ、その幕切れがいささか後味の悪いものになってしまったこともまた確かだ。
2勝2敗で迎えた最終局、阿久津主税八段 vs AWAKEの戦いは開始からわずか49分、21手でAWAKE側の投了となった。投了図は下図のとおり。(投了図は記事の最後にリンクした野月浩貴七段の記事から引用した)

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20手目に後手AWAKEが△2八角と敵陣に打ち込み、21手目に先手阿久津八段が▲1六香と香車を上がったところで、AWAKE開発者の巨勢さんが「ここで投了します」と唐突に投了を告げた。あまりにも早い終局に、ニコ生での中継解説は騒然とした雰囲気となり、重々しい空気に包まれる対局場が映し出されていた。

投了図後は、どうあがいても敵陣に打ち込まれた2八角が先手に召し捕られてしまう格好。結論からいうと20手目に後手が△2八角と打ち込んできたのが無理筋で、阿久津八段がその無理筋を的確に咎めたことになる。

ただし問題となったのは、現バージョンのAWAKEはこのかたちになると無理筋にもかかわらず△2八角と敵陣に打ち込んでくることが、電王戦の開幕前からすでに、アマチュア参加型のイベント(「電王AWAKEに勝てたら100万円!」)のなかで明らかになっていたということだった。この企画に挑戦したアマチュア強豪のひとりが、この筋を利用して見事にAWAKEを破り、100万円を獲得したという出来事が電王戦直前に起きていた。この出来事は将棋ファンのあいだでもニュースとなり、はたして阿久津八段もこの筋を使うのかどうかが最終局の前からひそかに関心の的になっていた。

投了後に行われた記者会見では、AWAKE開発者の巨勢亮一さんは「すでにアマチュアの方が指されていた形を、プロ棋士が指すのはやり辛いのではないかと思っていた」「このような指し方はプロ棋士の存在意義脅かすものではないか」と憮然とした表情で述べた。ソフト側に欠陥があることがわかっているにしても、すでにアマチュアが公開イベントで試して勝利している「ハメ形」を、プロ棋士がこういった大舞台で指してくるのはいかがなものか。もっと正々堂々と戦ってはどうなのか。巨勢さんの発言からはそういった怒りと悔しさが滲み出ていた。

阿久津八段は、このかたちを指すことに葛藤があったとしながらも、プロ棋士側の大将でこの勝負は勝たなければならない大一番だったことから、一番勝つ確率の高い指し方を選んだと説明した。そのような阿久津八段の決断に対して、将棋ファンからは「プロ棋士ならば相手の弱点を突くのは当然」という意見と「プロ棋士ならばハメ形など利用せず、堂々と戦ってほしかった」という意見との両方が聞かれ、一種の論争にまで発展した。

この論争のどちらが正しいかを簡単に結論づけることはできないだろう。それぞれにそれぞれの立場からの言い分がある。真剣勝負をかけて戦うプロ棋士とソフト開発者のあいだに見解の齟齬が生まれるのも当然だと言える。むしろこのような論争を含めて、人間とコンピュータ(人工知能)の対峙の仕方がいかなるものであるべきかを考えるための最高の素材を与えてくれることに電王戦の最大の価値があったのだと見るべきなのかもしれない。

この点について本質を突く発言をしていたのは、主催者のひとりであるドワンゴ会長の川上量生氏だった。

「この電王戦の大きなテーマは、人間とコンピュータの関係を世の中に問うということだと思っています。そういった意味で、今回の電王戦は今までのなかでも一番、人間とコンピュータが性能を競うとはどういうことなのかということについて、いろいろな問いを投げかけてくれたのではないかと思って、大変に満足をしています」

電王戦はしばしば「人類vsコンピュータ」という図式で語られ(そして実際にドワンゴ自身がそのような対立図式を煽っているのだが)、プロ棋士とコンピュータソフトのどちらが勝ったのかという点にのみ関心が行きがちだが、むしろ一番重要な問いは勝ち負けではなく、その戦いを通してどのような人間とコンピューターの関係性の未来が見えてくるのかということにある。

今回の最終局について言えば、阿久津八段がAWAKEのハメ形を知ったうえで、その弱点を採用するのかしないのか、彼がどのように戦い、またソフト開発者はそれに対してどのように対応するのか、そしてそこからどのようなドラマが生まれ、観客はそこに何を感じとるのか、ファンの間でどのような議論が巻き起こるのか、人間とコンピュータの対戦が生み出すそのような一連の反応こそが、電王戦の最も重要な要素だったということである。

それらの反応からは、人間とコンピュータ(人工知能)の関係性の未来を予測することができるだけではなく、そもそも人間とコンピュータ(人工知能)の違いとは何なのか、「人間(らしさ)」とは何なのか、というより根本的な問いが立ち上がってくる。もし部分的な性能においてコンピュータ(人工知能)が人間の能力を追い抜いたとき、それに人間はどのように対応するだろうか、そこで脅かされる人間の意義とは何だろうか。あるいは決してコンピュータ(人工知能)には真似することのできない「人間的」な部分とは何だろうか。そのような哲学的問いを、電王戦が生み出したドラマはわれわれに問いかけてくるのである。

プロ棋士がコンピュータソフトに負けたからといって、その事実だけで単純にプロ棋士の存在意義が脅かされるということはないはずだ。むしろ本質的な問題は、コンピュータソフトにその実力を追い抜かれようとしているときに、プロ棋士側がその過酷な現実に対してどのような手を打っていくのかということにある。その意味では、ここ数年、将棋ファンの枠を超えて広い盛り上がりを見せている電王戦シリーズの開催は、今までののところ、プロ棋士側がとるべき対応として大成功の結果を収めていると見るべきではないだろうか。日本将棋連盟は、プロ棋士がコンピュータソフトに負けるというピンチを、電王戦という興行イベントを立ち上げることによって見事にチャンスに変えたのだ。

ここ数年、毎年さまざまなドラマと論争を巻き起こしてきた電王戦は、今回がFINALと銘打たれている。少なくとも第2回~今回までのような5対5の対戦形式での開催は今年が最後ということである。しかし最後の記者会見では、日本将棋連盟とドワンゴのあいだで次なる企画に向けた話し合いが進められていることが明らかにされた。ここまでピンチをチャンスに変えてきた日本将棋連盟が、次に放つ一手とはどのようなものだろうか。将棋ファンのひとりとして楽しみに見守ることにしたい。

 

参考記事:電王戦FINAL第5局 観戦記 野月浩貴七段(ニコニコニュース)
「ハメ手」って何? 将棋・電王戦で21手でコンピューターが投了 人類が圧勝した理由とは(The Huffington Post)
将棋電王戦FINAL 第5局 阿久津主税 八段 vs AWAKE PV (ニコニコ動画)

コンピュータ将棋

ドキュメント コンピュータ将棋 天才たちが紡ぐドラマ (角川新書)
松本博文 (著)

新年度雑感

百木です。
あっという間に新年度になりましたね。ついこの前までお正月だったはずなのですが。数えてみると、京都アカデメイアも最初に始めてから今年で6年目になります。NPO法人になってからは3年目ですね。最初に始めた頃は、正直、このように長く続く取り組みになるとは想像していませんでした。

地道な活動をボチボチと5年間続けてきた結果、それなりに周囲での認知度も高まり、一応活動を続けてきた意味はあったのかなと思ったりしています。ここまで続けてこられたのも、京アカの活動に協力してくださった方々、応援してくださった方々のおかげです。改めて感謝申し上げます。

この5年間でいろんなことがありました。
うまくいったこともあれば、うまくいかなかったこともあり、予想以上の成果が出たこともあれば、議論がこじれて後味が悪い結果になったこともありました。6年目を迎える今でも、活動は試行錯誤の連続で、ひとつの団体やプロジェクトを長期間継続していくのは大変なことだなとしみじみ感じています。

京都アカデメイアのメンバーは、大きな理念や方向性は共有しているけれども、個別の興味関心や志向性、知的なものへの向き合い方はそれぞれにバラバラな部分が大きく、何かにつけて意見がぶつかることも多いです。ひとつの企画を実行に移すときにすんなり物事が決まるほうが珍しいくらいです。それでも、それぞれ価値観の異なる意見でもメンバー間で率直にぶつけあって、議論し合いながら互いの妥協点を探っていくことができるのはありがたいことだと思っています。

個人的には今年度はまたフレッシュな気持ちでなにか新しいことに挑戦したり、あるいはその反対に、原点回帰的な読書会や勉強会などを企画できたらいいかなと考えたりしています。具体的なことについてはそのうちまたいずれ。
あとは昨年に立ち上げた京都アカデメイア塾をもう少し盛り上げていきたいですね。どうやったらもっと盛り上がるかなといろいろ考えていますが、まだこれだ!というアイデアを思いついていません。なにか良いアイデアがあれば教えてください。

しかし余談ですが、わずか正会員約20名、賛助会員約10名の団体で、常時の活動にコミットしているメンバーは3~5人程度で、だいたい月1回程度の活動で、基本的には大まかな理念や方向性を共有しているメンバーで構成されている団体を続けていくだけで、これだけの労力とエネルギーがかかるのだから、人口が何千万人とか何億人とかの国家をひとつの同質の集団としてまとめあげて存続させていくのなんてほとんど不可能にしか思えないというか、きっと相当な無理をしたうえに成立しているもなんだろうなと思えてなりません。それゆえにそこにはさまざまな軋轢や歪みが生じるのでしょうけど。別に国家でなくても、大企業とか大組織とかでもいいんですが、そういう単位のものは基本的に僕の理解や共感や愛着の範疇を超えたところにあります。

自分にできるのはせめて自分に目の届く範囲の物事を、地道にコツコツと続けていくことぐらいだなぁというのが正直な実感です。それだって(自分にとっては)十分にしんどいことなんだから。とはいえ、なんだかそういう呑気なことを言っていられない剣呑な状況が社会全体で進行しつつあるのもまた事実なのですが。
世界にはいろんな考えや価値観をもった人がいて、そういう人たちとなんとか一緒にうまくやっていかないといけないというのは本当に大変なことです。
京都アカデメイアを通じて、自分に何がどこまでできるのか、未だによくわかりませんが、とりあえず自分にやれる範囲のことを、自分なりのペースで地道に続けていこうかなと思っています。相変わらずそんなマイペースな感じですいませんが、そういうことでひとつ、今後ともどうぞよろしくお願いします。

(以上の見解も、あくまで京都アカデメイア全体ではなく百木個人のものです、ということをお断りしておきます。念のため)

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写真は鴨川(正確にいうと出町柳よりも少し北なので高野川)の桜です。個人的にはこのあたりが毎年の花見のベストポジション。

京アカ通信 Vol.02 ができました

 

会報誌 「京アカ通信」Vol.02が完成しました!

第2号は、去年からスタートした京都アカデメイア塾を特集しています。
百木さんと浅野さんがインタビュー形式で出演し、「京アカ塾」のコンセプトや実際の授業の様子などを紹介しています。

 

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制作風景。パソコン上で記事をレイアウトしていきます。

 

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内容はもちろん、素材にもこだわって作りました。かなりいい紙を使っています。

 

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百木さんの記事です。ちなみに全ページ、フルカラー仕様!

 

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発送作業の様子。
会員のみなさんのほか、お世話になっている方や団体にもお送りしています。
週明けにはお手元に届くと思います。どうぞご笑覧ください。

 


入会のご案内


京都アカデメイアの活動は会員の方々の会費と参加・応援によって成り立っています。当会の活動、理念に賛同して参加、応援していただける方をお待ちしています。

スタッフとしてイベントなどを企画したいという方は「正会員」、資金面から応援していただける方は「賛助会員」があります。入会いただくと特典として、年一回、会報誌「京アカ通信」をお送りいたします。

詳しくは、入会案内をご覧ください。

http://www.kyoto-academeia.sakura.ne.jp/index.cgi?rm=mode1&topsub=join

 

ルネの花壇

こんにち(む)です。
先日ひさびさに京大に行ってみましたらば、西部生協「ルネ」前の花壇に、薔薇がきれいに咲いていました。
しかしそこには、悲しいお知らせの貼り紙が!
なんでも、ルネの耐震工事のため、花壇は今年夏で取り壊されることが決まっているそうです。

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毎年きれいな薔薇を咲かせるこの花壇には、在学中よりしばしば心慰められておりました。
取り壊しは寂しいのう……工事後は花壇も復活するのやろか。
と思うと同時に、これまで花壇の世話をしてこられた方(ルネの職員さんなのでしょうか??)に感謝であります。お疲れ様でした!!毎年楽しみにしておりました。

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見事に咲いておるので、京大生や近隣の方は東大路を通る際に見てみてください。東大路通に面しております。
きょーあかとは関係ない記事でしたが。ではまた。

新学期雑感

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こんにちは(む)です。
新年度であります!
京都は桜の季節もすぎて早くも新緑になってしまいよりました。
しばらくブログを書いておりませんでしたが、その間もわれわれは、色々うごうごしておりました。
ブログに書きそびれたイヴェントとしては、山の学校で開催させていただいた第3回アカデメイアカフェがありました。
「教育」というテーマで話し合いました。年配の方から幼稚園児(!?)まで集まってくださいました。

新年度に向けて(あ)氏が作成し続けていたウェブサイトも公開できる状態になりました。
まだぼちぼち修正中ではありますが、晴れてお披露目です。
プログラミングを一から学んでの、渾身のリニューアルです!
http://www.kyoto-academeia.sakura.ne.jp/

わたくしめも、(な)くんとともに、新歓タテカンを作成中であります。今度は水族館風味にしようと思ってます。もうじきお披露目しますね。

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年度末には、スタッフ会議(という名の放談会)も何回か開きました。
相談したのは主に、ホームページのことやイベントのことですが、その中で「京アカとは?」みたいなでかい話もちらちら出ましたので、今日はそのよーなことなどちょっくら書いてみるとします。

ついったーで「京アカのマネタイズ」という話が出ていたので、もしかしたら気にしてくださっている方もおられるかもしれませんね。
かいぎ(会議という字面が好きではないのでひらがなにする)ではその話も中心話題のひとつでした。まずこれについて報告をば。
(以下わたしの記憶を元に書いておりますので、誤りやニュアンスの違いがあればご訂正ください>会議参加者各位)
ぼんやりとした方向性としては、「マネタイズ」といっても今すぐに京アカを営利化するとかいうわけでなく、それも中長期的目標として視野にいれつつも現時点では少しカンパを募れる機会くらい持てればいいかな、というところで話はひとまず落ち着きました。(ついったーでこの話が出たのもそもそもは、「みんなそれぞれ忙しく生活もラクではない中、このまま収益ゼロで京アカの活動を続けられるものかなあ、ちょっとはお金が入る仕組みができるといいなあ」という話でしたし。)
しかし、この件に関しては会議参加者の意見はバラバラでして、一応の結論は上記のようなところに落ち着いたものの、本格的な「マネタイズ」を考えてもよいのでは?という意見もあり、いや「京アカ」でそれはするべきでないorしたくないという意見もあり、カンパを募ることすら良くない、お金をもらうということにはリスクがある、という意見もあり。
で、これは結局、「京アカは最終的にどうなりたいのか?」というところに関わるぎろんやなあと思ったわけです。
この点に関しては、発起人である(も)くんたちには一定のビジョンがあるでしょうし。それぞれのメンバーにはそれぞれのかかわり方に応じて希望があるでしょうし。(ちなみに私自身は、そのときどきで参加できそうな企画があれば参加する、という程度のかかわり方でかかわっております。希望については後で述べます。) なんとなくの方向性はあるものの(そしてそれに拠ってその都度物事を決めてはいる)、かっちりした最終目標を全員が共有している、という団体ではないのです。だいたいの方向性の中で、なんとなくの役割分担に従って、それぞれ得意なorやりたいことをする、という方針でこれまで進んできています。

このゆるさが京アカのいいところでもあり、「学生団体」といえば何かに向ってばりばりやるイメージが強い中、下手なりに不器用にやっていくのんも(利益や誰かへのサービスを目的とするのでない限りは)いいんではないかな、と個人的には思うわけですが、「京アカとは?」と問われたとき、対外的に(「外」とはどこからかというのもまた問題なわけですが)どういう団体かを説明するときに困るところでもあります。

私はこのように「京アカスタッフブログ」でブログを書いておるわけなのですが(ちなみに私村田がブログをよく書いておるのも、別に皆の代表というわけでなく、なんとなくの役割分担の結果です、あと暇人だから…)、このブログでどれだけ好き勝手勝いてよいのかな? どれだけ自分の色を出してよいのかな? というところはしばしば悩むところであります(これでも)。
つまり、京アカが明確な目的をもつ団体であれば、その団体の利益やイメージに反するようなことは書かない!という自制ラインがはっきり作られるでしょうが、そうではないですしね。
もちろん、一人ひとりが好き勝手に暴れながらもなんとなく皆が同じ方向を向いているようなチームが、理想のチームのあり方だとは思うのです。全員めちゃくちゃやりながらもなんかかっこいいパンクバンド、みたいなイメージね。が、京アカはそういうチームともまた違うのですね。
基本的には何でもアリなのですが(かいぎで相談をしてみたところ(も)くんや(あ)さんも「基本的にそれぞれ書きたいことを書いて削除はしない方針、それで揉めたとしても何も書かないよりはいい」とのことでした)、それでも「そうは言ってもそこは避けたい」というところはなんとなくあるわけで。また、収益化を最終目標とするかしないかによって、そのラインも変わりうるでしょう。

それと少し関連してですが、次回アカデメイアカフェの話です。
かいぎでは、この話も中心ぎだいのひとつでした。
次回アカデメイアカフェは、「ハシズムを考える」というテーマででぃすかっしょんする予定です。
私は政治的なテーマを取り上げることにまつわる懸念(のようなもの)を少し話しました。むろん、別に政治の話だけが政治的な話ではないですが、しかしやはり、こうした極めて今日的な話題を取り上げるときは、これまでの「教育」「大学」といったテーマとは違う種類の懸念ができてしまうのではないかな、と思ったのです。それは単に、所謂「色つき」の団体になってしまうのでないか、という懸念とは少し違いまして。
アカデメイアカフェは、誰が参加してぎろんがどう転がるかはまったく分からんまま、とにかくみんなで話してみる、というイヴェントです。
その結果、話が「反ハシモト」的な方向に流れれば