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京アカ 批評鍋 #12坂爪真吾 『男子の貞操』録画を公開中!


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第12回批評鍋を放送しました。
テーマ本は、坂爪真吾氏の『男子の貞操―僕らの性は、僕らが語る』です。

これまで意外と語られてこなかった「男性の性」の問題について書かれた本です。
ゲストにサークルクラッシュ同好会のホリィ・セン氏を迎えて徹底的に語りました。

【出演者】
浅野直樹
岡室悠介
ホリィ・セン
大窪善人

【内容】
・男性の視点から性を語る
・男性の性の目的は「処理」?「ケア」?
・”エゴ”な性欲と”エコ”な性欲
・「性の公共」って何?
・性とタブー
・なぜ風俗と恋愛の両極しかないのか
・男女の性の非対称性
・性は自然か文化か?
・記号からリアルへ論
・タブー破り型と積み重ね型
・恋愛するにはコミュニティへの参加が重要?
・夜這い文化に学ぶ
・結婚後の理想の性生活とは
・片思いは記号的恋愛?
・性を禁止しているのは誰なのか?
・神の見えざる手からお上の見えざる手へ
・キラキラの恋愛とストイックな結婚
・結婚と恋愛は別のゲーム
・性愛抜きの結婚の持続可能性問題
・性体験と宗教体験の類縁性
・「男子の貞操」を守るには?

セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱 (小学館101新書)

セックス・ヘルパーの尋常ならざる情熱 (小学館101新書)

批評鍋リスト

【まとめ】第10回 批評鍋 『世界が土曜の夜の夢なら』,『ヤンキー化する日本』

批評鍋 第10回の今回は「ヤンキー論」をテーマに、斎藤環、『世界が土曜の夜の夢なら』『ヤンキー化する日本』について話し合いました。

参加者:
浅野直樹
岡室
大窪善人
浮網
百木漠

議論の内容はyoutubeに上げているので、ここでは議論を経て私(大窪)個人の考えたことを書き留めておこうと思います。


批評鍋録音(高音質版)

▼なぜ今ヤンキー(論)なのか

最近、「ヤンキー」が批評業界のキャッチ・ワードの一つになっている。今回取り上げた斎藤環、『世界が土曜の夜の夢なら』『ヤンキー化する日本』(いずれも角川書店)の他、原田曜平、『ヤンキー経済』(幻冬舎)、難波功士、『ヤンキー進化論』(光文社)など、ヤンキーについて論じた書籍が相次いで刊行されている。もちろん、それぞれの書物のアプローチや観点は異なるが、いずれもヤンキーを主題としている点では共通している。

ところで、ここで、関心を惹かれるのは、論壇のいくぶん総体的状況としてヤンキーに関心が集まっているという現象がどうして現れてきているのか、ということの方にある。というのは、ヤンキーは別に昨日今日現れてきた新しい現象ではないからである。日本のヤンキー≒不良文化は、遅くとも1980年代には確認されている。だから、そのような特段新しくもない「ヤンキー」という現象が、新しい装いでもって”再注目”されるのはどうしてなのか、ということが問われなければならないだろう。

▼ヤンキー=反知性主義?

そもそも「ヤンキー」とは何を指して呼ばれるのだろうか。斎藤環氏は著書の中でヤンキーの定義を行っている。それによれば、ヤンキーを特徴づける要素として、バットセンス(悪趣味)、コミュニケーション強者、気合主義、道徳性、反知性主義、ホンネ主義、ポエム・感情主義、今ここ主義、保守主義などが矢継ぎ早に列挙されている。

サブカルチャーの文脈では、矢沢永吉やX JAPAN、EXILEなどが代表的なアイコンとして挙げられる。他方、そうした傾向は、特定の階層・サブカルチャーに限定されるのではなく、ある意味で日本文化ないし日本人の意識構造の基層を規定している、というのが斎藤氏の観点である。

たとえば、戦中において今や悪名高い「インパール作戦」を指揮した陸軍中将の牟田口廉也は、兵站を度外視して、食料がなくても、弾薬がなくても、銃剣がなくても、最後には”大和魂”があると言って下士官を鼓舞し、その結果7万人もの飢餓・病死者を出した無能な軍人として歴史に記された(だがそれが当時通用したという事実の方が重要である)。また、戦後自民党政治を代表する政治家 田中角栄は利益誘導や金権政治のような「ムラ社会的」文化を体現してみせた。一見無関連に見えるこれらの人物だが、斎藤氏によると、彼らに共通するのは、論理や知性とは相容れないような、ヤンキー的要素を持っていることだという。加えてここに、問答無用に郵政改革賛成か反対かの決断を迫った小泉純一郎、あるいは大阪市市長 橋下徹なども加えられるという。

ひとまず、こうした斎藤氏の見立てを前提に置くとすれば、ヤンキー(性)にとって重要な要素の一つは「反知性主義」ということになるだろう。ここでいう反知性主義とは、平たく言えば、一般に知性や知識を信頼しない心性ないし傾向性のことである。ところで、何かを否定するということは同時に別の何かを肯定することでもある。それではヤンキーないしヤンキー性に親和的なかれらは知性を否定する代わりに一体何に対して信頼を置くのだろうか。それは、意志、すなわち「気合い」である。

▼「オタク」から「ヤンキー」へ―普遍的なものへの別のかたちでの挫折

1980年代から2000年代にかけて、日本の若者文化において最も注目を浴びた存在は、おそらく「オタク」だろう。オタクに対する一般に膾炙したイメージを再確認しておくと、マンガやアニメ、ゲームといったサブカルチャーに耽溺する若者たちのことである。オタクほどヤンキーから遠い(と思われている)存在も他にないだろう。しかしながら、逆に、ある種の共通性も見いだせるようにも思われる。では、その共通性とは一体何なのか。

たとえば、オタク趣味のひとつに鉄道というジャンルがある。一般には彼らは「鉄道オタク」と呼ばれるが、その志向は、車両を対象にしたものから、写真、切符、時刻表収集、汽笛や車内アナウンス、鉄道設備の研究・収集など多様である。

また、別の例としては、90年代にオタクを中心に一大ブームとなり、現在も続編が制作中であるアニメーション『新世紀 エヴァンゲリオン』を挙げることができる。もちろん、メインキャラクターやヒロインたちの人気にも牽引されているということは言うまでもないが、ここで注目すべきは、作中で描かれる「電線」や「高圧鉄塔」などに対するフェティッシュなまでの描写である。あるいは、物語の舞台となる「第3新東京市」が敵の襲来を迎え撃つ際に、武装したビル群が地面からせり上がる様子の細密な描写である。

こうした例から引き出すことができる含意は、オタク文化には「現在」、「今この場所」を相対化するような強烈なモメントを見出すことができるということだ。交通手段としての鉄道は「現在」を空間的に相対化し、経済成長を連想させる鉄塔やビル群の屹立は「現在」を時間的に相対化する。そして、それらは、煎じ詰めて言えば、ある意味で普遍的なものを先取りするようなかたちで行われる。

しかし、他方で、オタクに対する典型的なイメージの重要な要素として、オタクが極めて限定された趣味空間の範囲でしか関心を持たない、というものがある。その直感をそのままベタに受け取るならば、つまり、オタクの趣味空間における情報の蓄積や利用といったものは、その上位の水準における意味的な保障を全く必要としないということになるだろう。言い換えると、オタクたちの趣味は、ある種の普遍的なものへの回路が開かれている、あるいは、それを志向する要素と結びついているにもかかわらず、しかし、それは達成されることなく、結局のところ個別の趣味の領域において閉じていってしまうのである。

▼「土曜の夜の夢」から「月曜の朝の憂鬱と希望」へ

では、他方でヤンキーの方はどうだろうか。ヤンキーにも「今ここ」を相対化する要素はある。というよりも、むしろそのような傾向こそが一方でヤンキーのヤンキー性を規定していると言っても過言ではない。それを理解するには、なぜヤンキーが「バッドセンス」(古い言い方では「つっぱり」)に拘るのかを考えればよい。その理由は「今ここ」つまり現状に対する不満であろう。マンガやアニメなどにおいてたびたびヤンキー的なキャラクターが主人公に選ばれる理由もそこに求めることができる。なぜなら、「今ここ」を相対化する視座こそが物語の進行を動機づけうるからである。あるいはそこにヤンキーと「伝統」文化との強い結びつきを付け加えてもいいかもしれない。

しかし、そうした性格を持つと同時にヤンキーは保守的な傾向を持つとも定義される。それは具体的には、現に存在する家族や仲間、土地、あるいは絆に対する固執に端的に現れている。つまり、ヤンキーもまた、「今ここ」を相対化する志向を持ちながらも、ある意味でそれに挫折するのである。

さて、ここでようやく、最初に立てた問い—なぜ今ヤンキー(論)なのか—に対する暫定的な答を得ることができる。ひとまずは、オタク論とヤンキー論の時系列的な関係注目したい。つまり、オタクが注目された後にヤンキーに対する注目度が高まってきたという順番がポイントである(ところで、斎藤環氏もかつてオタクについて盛んに論じていた)。人々がヤンキー論に注目するのは、それがもしかすると「今ここ」を相対化してくれるかもしれない、と期待した、少なくとも、そうした欲求が背景にあったからではないだろうか。だが、もちろん、そうした見通しは現時点においては過大な要求に思えるのだが。

大窪善人

 

批評鍋 放送しました

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4月26日(土)、第9回批評鍋を放送しました。
テーマ本は北条かや、『キャバ嬢の社会学』
キャバクラの社会調査ってどうやって行ったのか、プロであり素人でもあるキャバ嬢の魅力のヒミツから、キャバ嬢の観察から見えてくる現代日本の社会像まで、著者の北条かやさんに電話をお繋ぎしてこちらからの疑問質問にもお答えいただきました。

本番では放送機材のトラブルもあり、お聞き苦しい場面がございました。
近日中に当日の録画とテキストを公開する予定です。当ブログでもご案内しますので、ぜひご覧ください。

大窪善人

批評鍋 第9回 『キャバ嬢の社会学』 

大窪です。
4月26日(土)午後8時から批評鍋の放送が決定しました!
今回取り上げるのは、北条かやさんの 『キャバ嬢の社会学』です。

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著者の北条かやさんは、京都大学大学院 文学研究科出身で、本書は修士論文を書籍化した作品です。それまでキャバクラにはまったく縁がなかった著者が、自らキャバクラ嬢に扮し参与観察によって、キャバクラ嬢と彼女たちをとりまく世界の実態を独自の視点から明らかにするフィールド・ワークの記録です。

放送時間:2014年4月26日(土)午後8時~
ustアドレス 
http://www.ustream.tv/channel/kyoaca

今回は著者の北条さんがスカイプで特別出演します!

北条かや氏プロフィール: 著述家。1986年、石川県金沢市生まれ。「BLOGOS」はじめ複数のメディアに、社会系・経済系の記事を寄稿する。19歳の時、大澤真幸『身体の比較社会学〈1〉・〈2〉』を読み衝撃を受け、以後社会学に没頭。同志社大学社会学部を出たのち、京都大学大学院文学研究科修士課程修了。キャバ嬢のことを「女を売りにする人たちであり、自分とは違う」と考えていたが、「差別してるだけなんじゃない?」という先輩の一言に心打たれ、一念発起。自らキャバクラで働き、調査を行った。同時期に始めたブログ「コスプレで女やってますけど」は、月間10万PVの人気を誇る。(http://ji-sedai.jp/ より)
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いつもどおりustreamでコメントも受付けます。
ぜひご覧ください。

【まとめ】第8回批評鍋『学力幻想』


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2014年最初の批評鍋では小玉重夫,『学力幻想』を取り上げました。
世間は入試シーズン真っ只中。教育にかかわるニュースや議論も多く聞かれます。他方、教育制度に関しては、グローバル化に対応することをめざして小学校での外国語教育が必修化されました。また、近年のいじめ問題を契機として、道徳や日本史の必修化が政府の方で議論されるなど、教育制度の改革の動きが高まっています。
ところで、教育とはそもそも何のために行なわれるのでしょうか。この疑問に対する最も単純な答えは「子どものため」というものでしょう。たしかに、学校教育は、読み書き計算など、社会生活で必要なの能力を学習する場です。しかし、それだけではなく、教育には社会の再生産や社会の革新などの複数の重要な機能があります。
では、なぜそこには光が当たりにくいのでしょう。著者は、いまの教育がある種の幻想(学力幻想)に包まれていると主張します。教育が子どものためにあるという発想もその一つだといいます。本書では学力幻想が作り出された歴史的な過程と思想的な背景を踏まえながら、その問題点と解決策を探っています。今回は、教育や教育支援の実践に関わっている船越と百木、浅野、大窪の4人で議論しました。

出演者:
船越克真
浅野直樹
百木 漠
大窪善人

話題一覧:
◯「ゆとり教育」とは何だったのか?
・戦後の教育論争。上から派(題解決型学習)vs下から派(体系型学習)
・そもそも「ゆとり教育」って何?
・ゆとり教育の狙いと誤解
・週休2日制は子どものためではなかった
・学力低下論背後には役所間の縄張り争いがあった
・脱ゆとり教育へ
・ゆとり/脱ゆとり教育に共通する前提
・ゆとり教育と教育格差
・教育における左翼的な傾向へのアレルギー
・教育にある複数の機能。社会の再生産と革新

◯幻想1 教育は子どものためにある
・教育の目的とは何か
・子供中心主義教育vs社会中心主義教育
・公教育の起源
・アーレントの教育論
・複数性と権威。アーレント思想の両義性
・日本社会での公教育の位置づけ―教育の公的支出の国際比較

◯幻想2 みんな頑張ればできる
・親が頑張れば子どもが育つ?
・メリトクラシーからペアレントクラシーへ
・教育格差論。文化資本論
・フランスや北欧で学校の宿題が出ない理由

◯教育と政治との関係
・学校に対する親や社会の過剰な期待とその背景
・公教育が直面する困難な問題
・学校外での社会の中での教育の可能性
・教育における「権威」の衰退と必要性
・「公共性」の意味の日本/西洋での捉え方の違い

【今回の鍋】
鱈と鰆の味噌鍋
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【参考資料】
公財政教育支出の対GDP比
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/siryo/__icsFiles/afieldfile/2012/11/07/1327455_5.pdf
(文部科学省,2012年)

【まとめ】第7回批評鍋『ゆかいな仏教』

第7回今年最後の批評鍋では、橋爪大三郎,大澤真幸,『ゆかいな仏教』を取り上げました。


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ゲスト
舟木徹男/宗教学
中森弘樹/社会学
レギュラー
浅野直樹
百木 漠/放送コメント担当
大窪善人/司会

話題一覧
10分で本の内容を紹介
・他の仏教本との違い
・仏教への挑発
・本書の主張

参加者からのコメント、論点
・仏教で肉食はOK?
・仏教界への不満(浅野)
・仏教の核心についての物足りなさ(百木)
・悟りの内容がXとして伏せられている(舟木)
・本書の信仰に対する態度について(中森)
・本書の特徴は教義中心に語っているところ(大窪)

信仰と知をめぐって
・社会学者は宗教の信仰の内容に関心を持つのか(中森)
・信仰と知の対立と学問的アプローチ(大窪)
・論理的・合理的に仏教を語ることの功罪(百木、中森、舟木)
・仏教の定義と信仰と知(大窪)

仏教と社会活動との関係
・大澤氏の「まえがき」の前提は半分外れ、だが、半分は当たっている(大窪)
・仏教が現状の日本で積極的な社会的役割を果たしていない?
・仏教の教義に内在する難点(大窪)
・仏教の社会活動はキリスト教など他の宗教の後追い?(舟木)
・仏教と特定秘密保護法問題
・「慈悲」と社会活動との対立(舟木)
・仏教にとって社会活動は逸脱的か?(中森)
・仏教の社会活動のアスペクト 「正法論」(大窪)

そもそも「仏教」とは何なのか
・「仏教にはドグマがない」という主張について
・「輪廻」は仏教のオリジナルではない(大窪)
・何十億年も先に一人程度しか覚れない、と言われて仏教徒は絶望しないのか?
「慈悲」「回向」はオマケ?
・3章以降は仏教の「オタク道」(舟木)
・日本人は仏教を拒絶的に受容してきた(大窪)

仏教は人間を救うか?
・本書は信仰、実存についての要素が弱い(百木)
・人間には「スイッチの切れない欲望」がある(中森)
・「悟り」に魅力を感じるか?(舟木)
・他宗教でも社会学でも悟りは開ける!?(大窪)
・僧伽(サンガ)と大学とのメタフォリカルな類縁性(大窪)
・現代の日本仏教への批判(浅野)
・仏教徒は自己チュー? 利他の問題について
・資本主義と仏教、仏閣ライトアップ問題
・日本仏教の不幸な歴史的経緯

まとめと告知
・課題としての日本仏教論(舟木)
・悟りのアウトソースという発想はできないか(中森)
・対称性の宗教としての仏教(百木)
・やはり仏教界に対する不満はある(浅野)
・幹と枝葉を見分けて原理に立ち戻ることが大事(大窪)

放送では言いきれなかったこと

宗教の話題はタブー?

先月に引き続き、批評鍋を開催しました。今回は批評鍋初の宗教ジャンルの本ということで、私にとっても、とても楽しい回でした。日本では「政治」、「野球」、「宗教」についての話題を公的な場に持ち出すことはタブーだと言われることがあります。その理由は、これらの話題には意見や信条の対立がつきものだからでしょう。もちろん、誰でも対立よりも調和や宥和が成り立つ状態の方がいいにきまっています。しかし、たとえ対立を引き起こしてでも、対話や議論を行なわなければならない場面があることも確かです(たとえば年金制度、遺伝子工学技術の導入の是非、憲法の問題)。また、日常的なコミュニケーションと公共的なコミュニケーションとがその結びつきを見失うとしたら、それは問題だと言われるかもしれません。以前京アカで、普段はなかなかできない、道徳、倫理、宗教について話せる場所を作れたらいいね、という話をしたことがあります。今回はそのはじめの一歩になったかなと思います。

■『ゆかいな仏教』に対する激烈な批判の理由

日本に仏教が伝わったのは今から千数百年も昔だといいます。今日、仏教は日本社会や日本人の精神に広く深く染みわたっているようにみえます。たとえば「縁起」、「四苦八苦」、「挨拶」のように仏教由来の日常語がたくさんあります。また、仏教についての本で広い支持を受けている作家も数多くいます。それから、NHKの「ゆく年くる年」は年末年始の風物詩になっています。その意味では、日本人の多くは仏教についてよく知っている、少なくとも仏教的な考え方に親しんでいると感じているようにみえます。
『ゆかいな仏教』は、出版されるやいなやインターネットに批判まとめサイトが立ち上がるなど激烈な批判に曝されています。これほど批判が集中する書籍も稀でしょう。そうした反応を引き起こした理由のひとつは、そこで語られている仏教観や解釈が、私たちの常識とあまりに違っていたからではないでしょうか。

■「思想の不法侵入」

大澤氏はある誌上で「思想の不法侵入」ということについて書いています。「不法侵入」とは何か? この言葉はもともと思想家 G.ドゥルーズから引かれたもので、人間は、通常の状態では物事を深く考えたりすることを欲しないという直感を前提としています。人間がほんとうに思想的に深く思考するのは、どうしても考えざるを得なくなるような、外的なショックが与えられたときだけだといいます。それを「不法侵入」という言葉で表しています。「不法侵入」は、より深い思考を(拒絶反応を引き起こしながら?)インスパイアする、いわば媒体なのです。
『ゆかいな仏教』は社会学の立場から、基本的な仏教の歴史

【告知】批評鍋12月号

今月もやります、第7回 批評鍋。
批評鍋は毎回一冊の本を決めて、その本についての感想を実際に鍋をつつきながら、京アカ・メンバーが話し合い、それをust放送するというものです。

今回の課題本は橋爪大三郎さん、大澤真幸さんの『ゆかいな仏教』を取り上げます。

ゆかいな仏教 (サンガ新書)

ゆかいな仏教 (サンガ新書)

<仏教よ、お前は何者なのか? […] 葬式仏教と揶揄されたり、「禅問答」のように、やたら難解なイメージがつきまとったりの、日本の仏教。もともとの仏教はでも、自分の頭で考え、行動し、道を切り拓いていく、合理的で、前向きで、とても自由な宗教だった! 日本を代表する二人の社会学者が、ジャズさながらに、 抜群のコンビネーションで縦横に論じ合う、仏教の真実の姿。日本人の精神に多大な影響を与えてきた仏教を知れば、混迷のいまを生きるわれわれの、有力な道しるべが手に入る!>(Amazon.com 内容紹介より)

仏教とは? 宗教とは? 市民社会と宗教との関係とは? 京アカ批評鍋初の宗教本に挑戦します!

<第7回批評鍋>
日時:12月22日(日)20時~21時半
課題本:『ゆかいな仏教』、橋爪大三郎、大澤真幸、サンガ新書
ustアドレス: http://www.ustream.tv/channel/kyoaca
(今回からustreamチャットでもコメントを受付けます。ぜひご参加ください。)

【まとめ】第6回批評鍋 『来るべき民主主義』

第6回目の批評鍋では國分功一郎『来るべき民主主義』を取り上げました。


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参加者:百木漠、浅野直樹、村田智子、大窪善人

話題一覧
○ 10分で本の紹介を紹介
・テーマは学問と社会的実践の架橋

○ 参加者からのコメント、論点
・論壇情報。『社会の抜け道』について(百木)
・参加型民主主義と新しい社会運動(百木)
・行政の肥大化の弊害

○ 社会運動の現在
・SNS、ネットメディアの有効性と限界(浅野)
・「敵をつらない運動」、しかし、旧来の社会運動には批判的?(浅野)
・現状批判/理想像追求タイプの社会運動(大窪)
・現状批判の社会運動は昔からそんなに多かったのか?(浅野)
・社会参加の敷居は下がってきたのか?(浅野)
・中間集団と社会参加の関係(浅野、百木)
・階級闘争的運動から生活形式をめぐる運動への歴史的展開(大窪)
・住民投票のハードルの高さと行政の拒絶性(百木)
・住民投票とは何か(浅野)

○ 政治哲学的な論点
・行政の肥大化問題(浅野)
・伝統的な政治哲学の問題点。行政を適切に扱えない(百木)
・行政の肥大化の日本特有の問題点。許認可行政など(大窪)
・制度と法(by G.ドゥルーズ)の議論(大窪)
・近親相姦と禁止のアナロジー(浅野)
・制度は、いろいろな居場所があること(浅野)
・運動を具体的な成果に結びつけるのは(百木)
・パブリック・コメント制度をより有効にするには

○ ポピュリズム問題と知識人の役割
・ポピュリズムをどう防ぐのか(大窪)
・なぜ民主主義を推すのか(浅野)
・熟議を通じた学びがポピュリズムを抑止する(百木)
・知識人の役割について(大窪)
・知、真理の擁護と自己決定の手助け(浅野)
・政治の専門家が実践に参加する意義(百木)
・國分さん、古市さんのスタンスの違い(浅野)
・京大問題。自治に対するアレルギーがある(百木)
・ある特定の実践への参加の公共的意義はどう評価するのか(大窪)
・それぞれの人が得意分野で働けばいいのでは(百木)
・当事者性とコミュニケーション(浅野)
・偶発的な出会いがきっかけになる(浅野)

今回は3ヶ月ぶりの批評鍋でした。本のテーマである小平市都道の問題は京都からははるか遠い話のようにもみえますが、ある普遍的な問題が含まれているようにも感じました。本書のなかで「政治文化」という言葉が出てきます。政治は、国会や役所や裁判所などの国家機関がきちんと働いてさえいれば問題がない、というわけではありません。政治を支える文化の充実が政治の成熟度合いを条件づける、ということです。著者がかかわった小平市の運動は、まさにこの点を重視した運動でもありました。ところで、政治や民主主義といえば、たびたび、どこかとても縁遠く、日常の暮らしとは関係がないことのように考えられています。たしかに、政治参加の機会は基本的には議会や首長の選挙のときに限られています(人びとが自由なのは投票のときだけで、それ以外は奴隷である、と看破したのはルソーでした)。しかし、政治文化の涵養ということまで視野を広げるなら、さまざまな社会運動や市民的な議論への参加もひとつの政治的参加であると呼ぶことができるでしょう。民主主義について考えるということは、べつに、なにか見たこともないような遠い問題について考えるというのではなく、日常の中にあるごく身近な問題について考えることでもあるのです。今回の読書会を通じてそんなふうに感じました。

【おまけ】

今回の鍋はアンコウ鍋でした。

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批評鍋で取り上げてほしい本があれば、kyotoacademeia@gmail.com までご連絡ください。
次回もお楽しみに。

大窪善人

【関連書籍】

暇と退屈の倫理学

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社会の抜け道

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熟議が壊れるとき: 民主政と憲法解釈の統治理論

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【告知】今週批評鍋を開催します

大窪です。今月はもう1本イベントを開催します。第6回 批評鍋を開催します。

批評鍋は毎回一冊の本を決めて、その本についての感想を実際に鍋をつつきながら、京アカ・メンバーが話し合い、それをust放送するというものです。

今回の課題本は國分功一郎さんの『来るべき民主主義』を取り上げます。
小平市都道328号線をめぐって2013年5月に行なわれた東京都初の住民直接請求による住民投票。著者は住民運動の参加を通して、現在の日本の民主主義の根本的な問題に直面しました。住民の声はなぜ政治に届かないのか。これまでの政治の考え方には決定的な欠陥があったのか。これからの新しい民主主義はどのようにあるべきなのか。いまもっとも注目される若手哲学者の提言です。
批評鍋では論壇の最新事情から、民主主義、哲学・思想と実践の架橋、社会運動のあり方、知識人の役割などについて自由に話し合います。いつもどおり京アカ・アカウントのust、twitterにてコメントも受付けます。

<第6回批評鍋>
日時:11月17日(日)19時~20時半
課題本:『来るべき民主主義』、國分功一郎、幻冬舎新書
ustアドレス: http://www.ustream.tv/channel/kyoaca