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【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅲ期)】

今日は新規参加の方2人を含め6人参加でした。新しくいらして下さった方には専門知識をお持ちの方もおられ、いろいろと勉強になった。驚いたのは、カトリックのなかには、世俗と区別された信仰に固有の領域などない、なぜならこの世界に住む人々はすべて救済の可能性の対象であり、その意味で信仰に関係ない領域など定義上存在しないから、という考えや、別の宗教の信者であっても(本人にはその自覚がなくとも)潜在的なキリスト者として終末において救われるよう神が定めている、という考えなどがあるらしいということ。普遍宗教ならではの責任感がそのような教義を産むのだろうか、と思った。また、カルヴァンの予定説は、少なくとも信者に対しては「もう救いが予定されているから大丈夫だよ」という慰めのために用いられたのであり、ウェーバーのように予定説がもたらした不安の側面を強調して資本主義の精神に結びつける議論は間違っているという説も聞けた。その他、前回に引き続きbelieve とbelieve in 、種子の比喩、回心体験、宗教体験と恋愛、信仰の有無とは何ぞ、聖霊と自由意志、遠藤周作、親鸞、鈴木大拙、臨済禅と曹洞禅、エリート凡夫など、話題は多岐に及ぶ。古代語に詳しい面子もそろってきて、京アカ聖書読書会はなかなか盛り上がって参りました。あと1回か2回ぐらいでルターは終わりそうです。次回は6月25日(土)10:00~@京大本部時計台下サロン。

ハンナ・アーレント×ハンス・ヨーナス講座@GACCOH レポート

百木です。GACCOHのアーレント×ヨーナス講座第4回が無事終了しました。昨日は多くの方に参加いただけて、議論も盛り上がったので良かったです。締めくくりにふさわしい感じでした。今回は「責任」がテーマだったのですが、アーレントとヨーナスの思想の違いがよく出て、面白い議論になったのではと思います。

特に昨日は、ヨーナスの「弱い神」、神が人間を助けるのではなく、人間が神を助けるというアイデアが面白くて印象的でした。アウシュビッツ後にどのような道徳・倫理・責任を語るか、というのが昨日のテーマでしたが、アーレントが決して神に頼ろうとしなかったのに対して、ヨーナスは最後までユダヤの神への信仰を捨てず、それを救い出すための哲学を構想したのだなと。

4回の講座を通してヨーナス哲学の概要を知ることができ、アーレントとヨーナスの共通した問題意識と、それに対するそれぞれの応答の違いを知ることができて、僕自身も大変勉強になりました。一緒に講師を務めてくれた戸谷洋志さんに感謝です。
今後、戸谷さんと一緒に学術的にも何らか成果を出していければいいねという話もしています。アーレントとヨーナスの比較研究は海外ではいくつか先行研究があるらしいのですが、日本ではまだ本格的に研究されていないと思うので、そこを切り開いていけたらいいなと。

こういう場を設けていただいたGACCOHさんにも感謝です。また次も何かやりましょう。


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第6回京都アカデメイア読書会(『失敗の本質』)を開催しました。

百木です。
4月24日(日)にGACCOHさんを借りて第6回京都アカデメイア読書会を開催しました。
課題本は『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』。太平洋戦争における日本軍の組織的構造の問題点を詳しく研究した一冊です。経営学の分野での必読書としても知られています。

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参加者は6名とやや少なめでしたが、若手研究者、非常勤講師、大学院生、社会人、大学生(学部生)といろんなメンツが揃って議論は盛り上がりました。
あいまいな戦略目的、主観的で帰納的な戦略策定、空気の支配、進化のない戦略オプション、アンバランスな戦略技術体系など、現在の日本組織の構造にも通ずる問題が次々と列挙されていて、あの戦争のときと今とでは根本的なところは何も変わっていないよね、という感想がしきりに聞かれました。とくに会社や大学などの組織で働いたことがある人間にとっては、どれもこれも「あるある」なことばかりだったようです。某先生が大学のゼミでこの本を読ませたところ、学生たちから「これほんとバイトの現場で起こってることそのままっす」みたいな感想がたくさん出てきたとか。

そのうえで僕が個人的に気になったのは、このような日本組織の構造的欠陥が、日本が西洋近代に「遅れ」ていることから来るものなのか、あるいはそもそも日本が西洋近代とは根本的に異なった文化・価値観を抱えていることから来るものなのか、という問題です。前者は丸山眞男に代表される考え方で、この本の筆者たちも基本的にそのような考え方に立っているものと思われますが、しかしそのような図式でもはや不十分なのではないか、と最近は感じています。この本を読んでいると、戦後70年間のあいだの日本組織のあまりの変わらなさぶりに、むしろ西洋文明と日本文化は相当に異なった基盤のうえに立っていて、その違いは容易には埋まらない(少なくとも百年や二百年レベルでは埋まらない)と捉えておいたほうがよいのではないかと。こうした捉え方は、一歩間違えると、日本特殊論、あるいは歪んだ日本礼賛論になりかねないので気をつけねばならないのですが、150年程度の近代化の歴史(来年でちょうど明治維新150年ですね)では簡単に埋まらない西洋文明と日本文化の間の溝とは何なのか、それぞれの文明・文化がどのような基盤のうえに立脚しているのかを考えてみるというのも、なかなか面白い課題ではないでしょうか。

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ちょうど読書会の日の日経新聞に、『失敗の本質』で書かれているのとほぼおなじ内容の記事が掲載されていました。
検証なき国は廃れる 2016/4/24付日本経済新聞 朝刊
会員限定の記事なのですが、無料登録で読めるので関心ある方にはおすすめです。

この記事では、2003年以降のイラク戦争を米英日各国がどのように検証・総括したかが書かれています。この戦争は、イラクが大量破壊兵器を保有しているとして米国が中心となって攻撃を始めたものですが、結果的にそのような大量破壊兵器は見つからず、「大義なき戦争」であることが明らかになってしまった。当時のブッシュ大統領は、フセイン独裁体制の打倒と民主化の実現に戦争の目的をスライドさせようとしましたが、このような「大義なき戦争」に対して世界中から非難が集まりました。
これに対して、米政府はイラク戦争のみならずアフガニスタン戦争なども含めて911テロ後の対応について検証した600ページにもわたる報告書を約10年前に提出しています。また米政府に追従した英国でも、09年に設けた独立調査委員会が8年越しの検証を行い、今年6月にも結果を公表する予定とのこと。この検証作業ではブレア氏をはじめ、当時の要人や軍幹部など百数十人にのぼる関係者にインタビューが行われたということです。
それに比べて、日本ではどうか。英政府と同じく、当時の小泉政権も米国のイラク戦争を支持し、イラク特措法を成立させて、後方支援という名の兵站業務に自衛隊を派兵しました。しかしこれに対する本格的な検証作業はいまだ行われていない。支持を決めた経緯について、民主党政権の指示を受けた外務省が調査し、2012年12月に結果をまとめたそうですが、発表されたのはたった4ページの要約だけ。これではまともな「失敗の検証」作業になっていないのは明らかです。

これについてこの記事では次のようにまとめられています。

 日本はなぜか、失敗を深く分析し、次につなげるのが苦手だ。「小切手外交」とやゆされた1991年の湾岸戦争、安保理常任理事国入りに失敗した05年の国連外交、小泉純一郎首相による2度の北朝鮮訪問。外交だけでも、検証すべきできごとはたくさんある。
 だが、元幹部を含めた複数の外務省関係者によると、これらを正式に調べ、総括したことはないという。多くの人が原因にあげるのが次の2点だ。

 *日本人の性格上、失敗の責任者を特定し、批判するのを好まない。
 *これからも同じ組織で働く上司や同僚の責任を追及し、恨まれたくないという心理がみなに働く。

 同省にかぎらない。日本の組織には多かれ少なかれ、こうした「ムラ的」な風土がある。ならば、ときには第三者が必要な検証をしていくしかない。国家の場合、その役割をになうべきなのは立法府である。

失敗の責任を特定の個人に帰することを嫌い、「一億総懺悔」といった風に責任の所在を曖昧にしてしまう傾向、誰が最終決断をしたのか不明確なままに「空気の支配」によって重大な決断がなされてしまい、後からそれに対して誰も責任を取ろうとしない事態、こうした状況はどうやら容易に改まることはなさそうです。東日本大震災にともなう福島原発事故や、最近の原発再稼動においても、そのような問題の構造は引き継がれたままです。こうした組織的欠陥を改めていく地道な努力を続けると同時に、こうした体質が容易に変化することはないことを前提としてどのような社会・組織をデザインしていくのが望ましいのか、西洋文明と日本文化の根本的な差異を探りつつ、考えていく必要があるのかなといったことを、帰りの電車のなかでつらつらと考えていました。

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京都アカデメイア読書会では、今後も「(1)これまで読もうと思いつつなかなか読めていなかった古典・重要テキストを読む」「(2)課題本を通じて、現在の日本社会が置かれている状況を考える」という二つをテーマにして、月一ペースでいろんな本を読んでいければと考えています。皆様もご関心とご都合のあうタイミングがあれば、ぜひ読書会にご参加ください。よろしくお願いします。

4月29日 第15回 批評鍋 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を開催します。 

 
第15回 「批評鍋」開催決定!
今回は國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を取り上げます。

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京アカ「批評鍋」とは、鍋を囲みながら毎回一冊の本を取り上げてその感想などを言い合うスタイルのイベントです。
食事をしながらリラックスした雰囲気で輪読してみませんか。

今回はGACCOHさんのスペースで開催する予定です!
『暇と退屈の倫理学』、はじめての人も、もう一度読みたい人も、5月病を先取りしたいあなたも、ぜひこの機会に!

開催日時:4月29日(金、祝日)午後7時スタート
会場:京都出町柳GACCOH
(京阪出町柳駅から徒歩5分)
※参加費無料。事前予約不要ですが、参加希望の方は、人数の把握のため kyotoacademeia@gmail.com までご連絡いただけますとありがたいです。

過去の批評鍋イベントはこちらからご覧いただけます。
http://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/blog/?cat=20

これまでに取り上げた本一覧
http://www.kyoto-academeia.sakura.ne.jp/index.cgi?rm=mode2&menu=nabe

 

第6回京都アカデメイア読書会のお知らせ

百木です。
久しぶりに京都アカデメイア読書会を開催します。
今回の課題本は『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』です。

ノモンハン事件、ミッドウェー作戦、ガダルカナル作戦、インパール作戦、レイテ沖海戦、沖縄戦などにおける日本軍の失敗事例の研究を通じて、日本の組織が抱える構造的問題点をあぶりだした組織論の名著とされています。この本をつうじて、日本の組織や社会がいまだに抱えている問題点や、日本文化の特質などを議論できればと考えています。
現在では経営論などの分野でも広く読まれ、参考にされているようです。戦史研究というジャンルにとどまらず、現在の日本が抱える社会問題などとも絡めて幅広く議論できればと思っています。ネット上にまとめサイトなども多数あるようですし、お時間ない方は2・3章だけ読んできていただくのでも大丈夫です。
ご関心ある方はどなたでもお気軽に参加ください。

第6回京都アカデメイア読書会
課題本:『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』
日時:4月24日(日)14~17時
場所:GACCOH(京阪出町柳駅から徒歩5分)
※参加費は無料ですが、会場代を数百円程度カンパしていただく予定です。

当日の飛び込み参加も可能ですが、事前におおよその人数を把握するため、参加希望の方はkyotoacademeia@gmail.comあるいは百木までご連絡をいただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いします。

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GACCOHイベント ハンナ・アーレント×ハンス・ヨーナス~「テクノロジー」をめぐる対話

百木です。
今回は京都アカデメイアのイベントではないのですが、GACCOHさんでのイベントのお知らせです。

やっぱり知りたい!対話編 ハンナ・アーレント × ハンス・ヨーナス 「テクノロジー」をめぐる対話
日時:2月27日(土)18時~
場所:GACCOH(京阪出町柳駅から徒歩5分)
参加費:1000円
ナビゲーター:百木漠×戸谷洋志
http://www.gaccoh.jp/?page_id=6955

以前にGACCOHさんでアーレント講座を担当した百木と、ヨーナス講座を担当した戸谷洋志さんとのコラボイベントです。
第2回にあたる今回は、アーレントとヨーナスがそれぞれ「テクノロジー(科学文明)」をめぐってどのような思索を展開していたのかを探ります。原発問題、医療技術、宇宙開発など、われわれの生活にも深い関係のあるテクノロジーをめぐる哲学的対話が行われるはずです。同時代を生きたアーレントとヨーナスは、当時の最新テクノロジーに対してどのような発言をしていたのか。両者の技術論にどのような共通性と差異性があるのか、戸谷さんとの対話を通じて明らかにしていければと考えています。
予備知識不要なので、関心ある方はどなたでもお気軽にご参加ください。参加希望の方はリンク先の申し込みフォームからご予約ください。よろしくお願いします。

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小林哲也『ベンヤミンにおける純化の思考』出版記念放送を行いました

 
12月13日(日)、ニコニコ生放送にて小林哲也氏の『ベンヤミンにおける純化の思考』の出版を記念して特別番組を放送しました。

出演:
小林哲也氏
大窪善人(司会)

『ベンヤミンにおける「純化」の思考』は、「純粋さ」と「純化」をキーワードにしてベ­ンヤミンの新たな解釈を分厚い記述によって呈示する思想史研究です。

放送では、まず小林さんがこの本を書くきっかけを、個人的/社会的な出来事とをクロスさせて語っていただきました。小林さんがベンヤミンに関心を持った1990年代には、フランシス・フクヤマの「歴史の終わり」論に象徴されるような「もはや大きな社会の転換はない」、「あとはそこそこの改良がなされるだけだ」といったポストモダン的雰囲気があった。一方、小林さんは、ベンヤミンの思想に、むしろその「外部」へと突き抜ける不思議な魅力を感じたといいます。

思想史研究とは何かということも伺いました。その特徴を一言で表すと「過去に戻る」ことにあります。思想史研究は、単にある思想家の作品を解釈するだけではなく、当時の時代背景や議論の参加者たちとの関係を踏まえることが重要になるからです。たとえば、本書第1部では、ベンヤミンの第一次世界大戦に対する見方を、彼の論争相手であるマルティン・ブーバーというユダヤ系神学者・哲学者や、「生の哲学」という生き生きとした体験を重視する思想潮流と対比しながら明らかにします。

ブーバーとの対比から現れるキーワードは、シンボルとアレゴリーだと言います。個人や共同体にとっての重要な体験の意味(とりわけ戦争や災害などの深刻な出来事)を具体的なモノとして残したいという傾向に対して、一方のブーバーは体験を言語に置き換え、そして戦争をユダヤ民族の体験として肯定します。他方、ベンヤミンは、多義的に解釈しうる寓意や暗喩にあえて留まって、戦争を拒絶します。ベンヤミンにとって重要なのはシンボルや言葉で表されたものではなく、むしろ、「言葉で表現されえなかったもの」の方にあると。

放送の後半では、ハイデガーやシュミットといった決断主義の思想家との対決について伺いました。ハイデガーらが決断を重視するとすれば、他方のベンヤミンは決断の前で躊躇すること、「不決断」の意義を訴えようとしているようにも見えます。しかし、小林さんが強調するのは、ベンヤミンが、神と人間とを対比することで、人間が決断を下すとしても、それはつねに有限なものであることを指摘する点です。

さて、こうしたベンヤミンの、つねに今ここではないどこかへと逃れ、突き抜けようとする志向は、一方ではある宗教性を伴いながらも、他方で、社会の中で一種の希望を求める声に応答しようとするものであるのかもしれません。

(文・大窪)

 

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ゲスト・プロフィール:こばやし てつや 1981年、北海道札幌市に生まれる。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程­修了。専攻、ドイツ文学・思想。現在、京都大学非常勤講師

 

読書会:井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』レポート(2)

 
会員の岡室です。本日は、宇都宮共和大学専任講師の吉良貴之さんをゲストにお招きして、井上達夫著『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』の読書会を開催しました。

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もっとも、同書で提示されている論点は、日本のいわゆるリベラル派と称される人々の問題点、憲法9条削除論から、ロールズやサンデルの正義論に対する批判にいたるまで、非常に多岐にわたるものです。

そうした点を踏まえ、はじめに、吉良さんの手書きレジュメによって、論点整理と井上説への疑問点を提示していただき、会場では同レジュメによる問題提起を中心に、活発な質疑応答が展開されました。

また、吉良さんには、井上氏が、この本を書かれた背景などについても詳細にご説明いただきました。

その他、当日に議論された内容としては、まず、井上氏が提示する「正義概念」の構想に関して、そうした主張が、イスラムによるテロなどと、いかに対峙できるのかといった批判や、そもそも、普遍的な正義概念は存在しうるのかといった根本的な疑問が提起されました。

また、9条削除論に関しても、リベラル派の原理主義的護憲派による「大人の知恵」としての9条擁護論では駄目なのか、といった反論や、憲法解釈論のあり方にも立ち入った深い議論がなされました。

加えて、徴兵制の是非に関する議論なども活発に展開され、読書会として大変な盛り上がりを見せた会であったと思います。

当日はご参加いただいた皆様、ありがとうございました。
 

読書会:井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』レポート

百木です。12月6日(日)に開かれた読書会、井上達夫『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください』のご報告です。今回は、若手法哲学者の吉良貴之さんをお招きしてのイベントになりました。約15名ほどの方にご参加いただき、予定時間を超えて熱く盛り上がりました。京都アカデメイア会員である岡室さん・大窪さんからの充実したまとめ報告や、吉良さんからの手書きレジュメによる報告もあり、参加者からも活発に意見や質問が出て、良い雰囲気の読書会になったのではないかと自負しています。

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課題本は、タイトルこそ挑発的ですが、中身はこれまでの井上達夫氏の思考を総括するような、なかなかに濃厚で硬派な内容になっています。第1部では今日における「リベラル」の弱体化の理由が探られると同時に、リベラリズムの本義や正義論についての原理的な解説がなされるいっぽうで、今年大きな話題になった安保法制の問題やその他さまざまな社会問題(天皇制、戦後責任、歴史認識、外交問題など)へのアクチュアルな言及がなされています。また第2部では井上達夫氏の学生時代から現在に至るまでの思考変遷を振り返りながら、正義論の高層が詳しく語られています。

今回、この読書会を企画したのは、この本を細かく検討しながら読むというよりも、いわばこの本で語られていることをたたき台として、今年大きな話題になった安保法制や「立憲主義」や「法の支配」の問題について、今年のうちに皆でわいわいと(しかし真剣に)議論しておきたいなという思いがあったからです。

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周知のとおり、今年の国会では、参考人に呼ばれた憲法学者三名ともが「この安法法案は違憲である」と宣言したにもかかわらず、その「違憲」な安保法制が可決されてしまいました。これに対して世論調査などでは国民の7割がこの安保法制成立に疑問をもっていることが明らかにされています。しかし、いっぽうでこの法案を強硬に可決した安倍政権の支持率はほとんど下がらず、相変わらず4割以上の支持率を維持しています。

この奇妙な事態は一体何を意味しているのか。この問題を受けて、今年は「立憲主義」というワードが日本中に膾炙しましたし、安保法制反対のデモ運動を盛り上げたSEALDsの活動なども大きな話題になりました。「安保法制」や「憲法」や「立憲主義」について解説した本もたくさん出版され、それに関するシンポジウムや勉強会なども各地で開催されました。このような動きが起こってきたことは、現在日本が置かれている危機的な状況をよく示していると同時に、「リベラル」側の新たな展望を示すものでもあったと言えるでしょう。

しかし一方で、個人的には、結局のところこの国にはいつまでたっても「立憲主義」や「法の支配」などというものは根づかないのではないか、という気もしてしまうところがあります。今回の安保法制が「違憲」であり「解釈改憲」であるのと同時に、そもそも憲法9条下における自衛隊もまた厳密には「違憲」的な存在であり「解釈改憲」のもとに成り立っているのではないか、という議論も最近では聞かれるようになりました。こうした事柄は、いずれも日本における「立憲主義」や「法の支配」、あるいは「リベラリズム」や「正義」の成立困難さを物語っているように思えます。

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井上氏はこの本のなかで真のリベラリズムを成立させるためには、単に「自由」(とりわけ消極的自由=○○からの自由)を考えるだけではなくて、「正義」について考えなければならない、ということを繰り返し説いています。それは言いかえれば、真のリベラリズムを実現するためには、「消極的自由」(○○からの自由)のみならず「積極的自由」(○○への自由)をわれわれは実践していくことが必要だということです。そのためには、われわれが「政治」や「権力」を政府や統治者に任せてしまうのではなく、われわれ自身が「政治」や「権力」の担い手にならなければなりません。

これはいわゆる共和主義的な伝統を汲む立場ですが、さらにそこに普遍的な「正義」への志向が加わっているところが、井上達夫氏の法哲学の肝です。つまり普遍的な正義論と共和主義的な自治の伝統をかけあわせたところに(ロールズ的なリベラリズムとサンデル的なコミュニタリアニズムをかけあわせたところに、と言ってもいいのかもしれませんが)、井上達夫流の法哲学の特徴がある。この場合の「正義」は、もしかするとわれわれ人間には、少なくとも今のところ、認識不可能・到達不可能なものであるかもしれないが、しかしそのような客観的で普遍的な「正義」(=X)が存在すると想定するところにのみ、真のリベラリズムは実現されうる。

一見、奇をてらったかのように見える「憲法9条削除論」や「徴兵制賛成論」などの現状憲法に対する彼の提案も、そのようなリベラリズム×正義論という理論のうえに出てきたものであることを理解しておく必要があります。しかし結果的にはそのような彼の提案が、まさに安倍政権が現在進めようとしている政策を後押しするものになっているのは皮肉なことです。井上氏が「偽善的でエリート主義的なリベラル」を上から目線(=別種のエリート主義)で叩くことによって、結果的にはこの本が現在の政権を手助けする御用本のような役割を果たしていることは興味深い現象だなぁと感じました。

と、ここまで好き勝手に書かせてもらいましたが、以上は今回の読書会でなされた忠実な議論のまとめというよりも、私百木個人の感想・印象を書かせてもらったものです。実際にはこれ以外にもいろいろたくさんの意見が活発に出されていたのですが(そもそも普遍的な正義などというものは成立するのか?井上氏のリベラル批判は妥当なものか?憲法9条下における自衛隊の存在は違憲なのかどうか?正義論の核をなす入れ替え可能性とはどういうことか?正当性と正統性の違いについて、などなど)、それらの議論をすべてまとめきる力量はとてもありませんので、こういったかたちで勘弁していただければと思います。

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ちなみにこの本のタイトルの元ネタである「私のことを嫌いになっても、AKBのことは嫌いにならないでください」という元AKBの前田敦子さんの発言は、この本のタイトルである「リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください」とは全く逆の趣旨のことを言っていますね。つまり前田敦子さんの発言は、自分のことを嫌いになっても、自分が所属するAKBというグループのことは嫌いにならないでくれ、と言っているわけですが、この本のタイトルは、自分以外の馬鹿なことを言っているリベラル派のことは嫌いになってもいいけれども、自分が主張するリベラリズムのことは嫌いにならないでほしい、と言っているわけで完全にベクトルが逆だなと。そのあたりにもこの本の「上から目線のエリート主義」的な特徴がよく表れているのではないかと感じたりしました。もし前田敦子さんの発言に倣うならば、『井上達夫のことは嫌いでも、法哲学のことは嫌いにならないでください』が正しいタイトルだったのではないでしょうか。

明日放送です。

 
12月13日(日)16:00から、ニコニコ生放送で「小林哲也『ベンヤミンにおける「純化」の思考』から考える」を放送します。

ベンヤミンチラシ

会場はこちらから
詳細は以前アップしたお知らせをご覧ください。
http://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/blog/?p=4350

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小林さんとの打ち合わせの風景。
かなり大部な本ですが、がんばって紹介したいと思います。
ぜひご覧ください!