カール・シュミット『パルチザンの理論』:「正しい戦争」はあるのか?

大窪善人
 


パルチザンの理論

筑摩書房(1996年03月27日)

 

人類の歴史は、戦争の歴史であるとも言われます。では、「戦争」とは何なのか。どんな戦争もそれ自体”悪”なのか。それとも、戦争には”正しい戦争”と”間違った戦争”とがあるのか…。

本書は、ドイツの憲法学者・政治学者であるシュミットの書(1963年)です。パルチザンという新しい戦闘形態の考察を通じて、戦争観の歴史的な変遷が浮かび上がってきます。

戦争観の変遷 「ゲーム」から「絶滅」へ

この本の中で、シュミットはまず、パルチザンの考察を「スペイン反乱(1808-14年)」からはじめます。スペイン反乱では、ナポレオン率いるフランス軍に対してスペインのパルチザン(民衆の非正規ゲリラ部隊)が戦い、フランス軍を大いに苦しめました。

この正規軍と非正規部隊の衝突を、シュミットは「戦争の新しい空間(Raum,ラウム)が開かれた」として、歴史的な画期に位置づけます。

ところで、正規の軍隊が登場するのは、歴史的には古いものではありません。近世ヨーロッパの戦争は、各領邦の君主が、互いに相手を「敵」として”承認し合い”、騎士道に従ってたたかい、そして最後にはほどほどのところで手打ちにするという制限戦争でした。日本でいえば、織田信長が登場する以前の大名同士の争いのイメージでしょうか。

それが近代になると戦争の形態が大きく転換します。武器や軍事技術の発展はもちろんですが、より重要なのは、国民国家による常備軍の設立、そして、国土や民族意識と結びついたナショナリズムの高揚です。

それにともなって、戦争は国家の専権事項となり、かつてなかったような果てしのない絶対的な戦争へと移行します。そして、その帰結が、人類史上最悪の災禍である二度の世界大戦だったのです。

さて、シュミットは近世から現代までの戦争観の変化を、”相互承認的な”「在来的な敵」概念から、”まさに絶滅されなければならない”「絶対的な敵」への移行とパラレルに見なしているように思います。

シュミットの議論では、「絶対的な敵」概念の担い手となるのは、レーニンやスターリン、毛沢東といった20世紀の革命的パルチザンの理論家たちでした。なぜなら、彼らの目標は社会主義革命であって、そこには、資本家階級や資本主義体制との、宥和できない絶対的な対立が待ち構えているからです。

レーニンのような職業革命家の戦争理論が戦争におけるすべての伝来的な枠づけを盲目的に破壊した時、戦争は絶対的な戦争になり、パルチザンは絶対的な敵に対する絶対的な敵対関係のにない手になったのである。(p.186)

「地獄」としての戦争

なぜ近代、現在では「絶対的な敵」概念が優位になっていくのか。別の角度から傍証を考えてみましょう。

米国の政治学者マイケル・ウォルツァーによれば、戦争とは「際限のない地獄」であると言います。


正しい戦争と不正な戦争

風行社(2020年01月15日)

 
長谷部恭男さんの整理によればこうです。そもそも1928年のパリ不戦条約以来戦争は違法だから、もし戦争が起こるとすれば、それは違法な侵略戦争とそれに対抗する自衛戦争以外にはありえない。

だから、その責任は「地獄」を開始した侵略国が負うべきであり、正しい国が戦争を終わらせるには(相手国が国際法のルールを侵犯している以上)いかなる手段も正当化されるのだ、と。

さしあたりここで強調しておきたいポイントは、「際限のない地獄」という戦争観から見れば、一見もっともに思える、平和を実現するための「正しい戦争(法的手続きに従っているかどうか)」が枠づけられたとたん、逆に、その枠を踏み越える敵対者は、絶対的な悪、つまり、シュミット的な意味で、根絶しなければならない「絶対的な敵」として際立って現れうる、ということです。

人権理念の逆説

さて、こうして近・現代の際限のない暴力と敵の根絶は、近世的な「制限戦争」とは全く違っているわけです。シュミットは論じていませんが、この現代の状況は、ある意味で、中世ヨーロッパの宗教戦争と非常に似ている部分があるのではないでしょうか。

歴史的には、16世紀中頃から 17世紀にかけて、ヨーロッパ各地では、異なる信仰をめぐって血で血を洗う宗教戦争が断続的に行われ、ヨーロッパはぼろぼろになってしまいました。しかし、この宗教戦争こそ、シュミットのいう「絶対的な敵」の元型ではないのでしょうか? 

そして、そうした反省から作られたのが、ご存知のように、西欧における宗教的・普遍的な支配秩序を断念して、世俗的諸国の主権と内政を認める、近世のヴェストファーレン体制でした。

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ミュンスター条約(ヴェストファーレン条約の一部)の締結の図

ところで、中世と現代の類似という点で思い出されるのが、ドイツにおけるコソボ空爆をめぐる議論です。

アルバニア人とセルビア人が混在するコソボで、セルビア軍によるアルバニア系住民への虐殺が行われたことを受けて、1999年3月、NATOは人道的介入を理由にコソボ空爆を開始します。ドイツにとってはこれが戦後初の軍事行動でした。

空爆の確たる正当性が得られない中、ドイツの社会学者ユルゲン・ハーバーマスは空爆支持の論陣を張ります。ちなみに、この意見表明は(もちろん手放しで、というわけでは決してありませんが)、これまで彼が”非暴力的な対話と討議の社会理論”を訴えてきただけに、少なからず人びとに衝撃を与えるものでした。

ハーバーマスは根拠として、人権が、国家をこえて妥当する”強制法”であると主張します。言いかえれば、たとえ法的に正当性を欠いた実力を行使してでも(!)、他国内で行われている人権蹂躙を止めさせる義務がわれわれにはあるのだと。

全体として彼の議論はかなり複雑なのですが、要は、”人びとの人権を守る”という普遍的な理念の前では、むしろ、国境を超えた内戦への介入、つまり、戦争は正当化されうる、ということです。

しかし、ここには人権理念をめぐる奇妙な顛倒があるようにも思えます。つまり、思い切って言えば、普遍的な”人権”や”人道的介入”という理念とは、あの宗教戦争の世俗的な表現ではありはしないだろうか、そして、人道に対する侵犯者とは、つまり、シュミットのいう「絶対的な敵」なのではないか、と。
 
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