昨年度、三回にわたって憲法思想勉強会「立憲主義の(不)可能性を考える」を開催してきました。今年に入ってからはまだやれていませんが、今秋のうちにいちど開くことができればと考えています(その際はまたMLで告知します)。
そのための準備も兼ねて、ここでこれまでの勉強会の内容をもとに、論点を箇条書きで簡単にまとめておきたいと思います。今回は第1回と第3回の分を掲載します。
■ 第一回 2015年6月9日@佛教大学二条キャンパス
課題図書:
(1) 樋口陽一『いま、憲法は「時代遅れ」か』(平凡社)
(2) 木村草太『憲法の想像力』(NHK出版新書)
(3) 大澤真幸・木村草太『憲法の条件』(NHK出版新書)
- 個別の条文解釈を専門的に検討するというより、いったい憲法とは何なのか、立憲主義はそもそも可能なのか、といった原理的な水準で憲法問題を考えていく。そこで、この勉強会では、法律の専門書ではなくて憲法に関する一般書や思想・哲学系の書籍を主な素材としてとりあげる。
- 憲法の何たるかを知らぬ政治家や国民への啓蒙活動という次元に憲法論議を閉じるのではなく、そもそも立憲主義という思想はどのようにして正当化されうるのか、という根本問題を掘り下げて議論する。
- 立憲主義の背景にある重要な思想のひとつが「社会契約説」。立憲主義では、憲法を「国民」と「政府(国家)」のあいだの契約として考える。当時の法学では、私法・家族法・公法(国制法)という三区分のうちの三番目の領域に該当する問題。自然法学者のプーフェンドルフなどは、私法上の契約(現代人がふつう考えるところの「契約」)も、公法上の契約=統治契約を待ってはじめて実効性をあたえられると考える。対するに、ロックは身体の自己所有をベースとする所有権論によって、公法上の契約とは独立に私法上の契約が基本的には基礎づけられると考える(ただし実際上の所有の不安定性は払拭されないが)。
- 原理的に、もっとも徹底して考えたのがルソー『社会契約論』。ルソーはそもそもプーフェンドルフやグロティウスに見られる統治契約の観念を批判している。個人と国家(共和国)とのあいだの社会契約と、共和国民と政府のあいだの(疑似的な)契約というふたつの位相を区別!
- 自由主義的立憲主義との緊張関係。国家(政府)と国民とのあいだの契約関係という前提じたいが説明されるべきもの。ルソーにあっては、政府は国民から創出されるが、主権的な国家に先だって統一された国民共同体が存在するとは想定できない。むしろ主権なき国民はマルチチュード(有象無象の群衆)であって、契約主体ではありえない。ホッブズの自然状態論からの影響。
- 自由主義と民主主義、あるいは人権思想と民主主義との緊張関係は念頭におかれるべき。歴史的・段階論的には、市民的法治国家/社会国家という区別にもかかわる。有益な参考文献として、ウォルドロン『立法の復権(尊厳)』。
■ 第二回 2015年7月4日@佛教大学二条キャンパス
課題図書:
(4) 宮台真司、奥平康弘『憲法対論』
(5) 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』
⇒ 後日レジュメないしまとめを別途アップ。
■ 第三回 2015年9月29日@佛教大学二条キャンパス
課題図書:
(6) 石川健治(編)『学問/政治/憲法』
- 「たたかう民主制」論(同書所収の渡辺康行論文)は、今日のヘイト・スピーチ問題との関連で興味深い。言論の自由を徹底して重視しようとするアメリカ的伝統と、言論の自由とマイノリティの市民としての尊厳の保護とのあいだでバランスをとろうとするヨーロッパ的伝統。ウォルドロン『ヘイト・スピーチという危害』が参考文献。
- 反ヘイト・スピーチの言説の理論的な脆弱さ。アドホックな善意の主張ではなく、少なくとも言論の自由とヘイト・スピーチ規制のあいだの原理的な緊張関係にはまず目をむける必要がある(cf. 市民的法治国家/社会国家)。そう簡単に「おいしいとこどり」はできない。
- シャルリ・エブド事件のケースはひとつの試金石。言論の自由の優越性を擁護するならば、簡単にヘイト・スピーチ規制をいうことはできない。
- 前々回から問題となっている民主主義と(保守的)自由主義とのあいだの緊張関係が、ここでも重要論点。次回はこの点をもう少し突っ込んでみるというのもあり。