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哲学者の加藤尚武氏によれば、社会の転換期において活躍するのは、”それまでの自分の思想を変えなかった人”です。
明治の思想をリードした福沢諭吉、戦後の政治学者 丸山真男、厳しい取り調べにも耐え抜いた共産党員たち… かれらは己の信念を貫いて尊敬を集めたわけです。
とすれば、その例外にあたる人物とは吉本隆明でしょう。
なぜ吉本はあの決定的な「転向」にもかかわらず、戦後を代表する思想家たりえたのでしょうか? 彼の「関係の絶対性」なる概念がヒントです。
原体験としての敗戦
吉本は1924年、東京生まれ。純朴な「皇国少年」だった彼にとって敗戦は非常にショッキングな出来事でした。学徒動員で働いていた魚津の工場で終戦の日を迎えます。
工場の広場に全員が集められて、「終戦の詔勅」のラジオ放送を聞きました。[…]これは天皇が戦争を止めると言っているんだなと[…]もちろん僕は納得しませんでした。[…]工場の広場をひとりで後にし、寮に帰って来たんです。もうこれで終わりだ。万事休すだ。そう思ったら、涙が出てきました。
「マタイ伝を読んだ頃」『はじめて読む聖書』新潮社、2014年
この鮮烈な敗戦体験が、彼の思想を方向づけることになります。
「神」から「人」へ。「鬼畜米英」から「アメリカさん ありがとう」へ。自分が本気で信じていた価値があっさりと崩れ去るという経験。これまで信じてきたものは一体何だったのか…。しばらくして彼は聖書を手にとります。
そして書かれたのが「マチウ書試論」。新約聖書のマタイ伝を扱ったこの一説において「関係の絶対性」が示されます。
マチウの作者は、律法学者とパリサイ派への攻撃という形で、現実の秩序のなかで生きねばならない人間が、どんな相対性と絶対性との矛盾のなかで生きつづけているか、について語る。思想などは、決して人間の生の意味づけを保証しやしないと言っているのだ。
人間は、狡猾に秩序をぬってあるきながら、革命思想を信ずることもできるし、貧困と不合理な立法をまもることを強いられながら、革命思想を嫌悪することも出来る。自由な意志は選択するからだ。しかし、人間の状況を決定するのは関係の絶対性だけである。
「マチウ書試論」『マチウ書試論 転向論』講談社学芸文庫、1990年
思想の絶対性なき日本
「関係の絶対性」とは何なのか。
その前に、吉本と真逆の知識人、丸山真男について少し触れておきましょう。
丸山はある座談会でこんなことを言っています。多くの人は戦争に負けることはわかっても、その後どうなるのかはわからなかった。しかし、自分は逆に、負けた後のことはよくわかったが、どうやって負けるのかはわからなかった、と。
こうした態度を、吉本は痛烈に批判します。
丸山が敗戦までのイメージがよくわからなかったのは、ほとんどその思想が大衆の生活思想に、ひと鍬も打ちいれる働きをもっていなかったことを意味している
「丸山真男論」『柳田国男論・丸山真男論』筑摩書房、2001年
丸山は知識人層であるがゆえに天皇主義ではなかった。むしろ大衆から遊離して、日本社会に根をはっていない外来の言葉で考え話す、悪しき知識人の典型であると。
西洋、キリスト教文化と日本との違い。それは、絶対的な存在や考えに帰依するという伝統をもたないこと。たとえ「天皇」とか「マルクス主義」とか、思想のようなものを語っていても、それは上手く生きるためにあえてする”ふり”ではないのか。
だから、「共にいる」という人間どうしのヨコのつながりが絶対的なものになる。ふわふわと浮遊する「思想の相対性」に対して「関係の絶対性」が現れる理由です。
知識人と大衆のゆくえ、あるいは日々の余白(extra)で
鷲田清一氏が吉本隆明の全集刊行によせて、彼を「二十五時間目の人」だと書いています。
吉本は大学には属さず在野の評論家、そして生活者でした。食事や育児など生活の場と時のとなりで、そこから少しだけ跳び越える。
いまでは評判のよくない彼の「大衆の原像」論も、そうした具体的な生活の匂いと共にきっとあったのでしょう。
人間はパンだけで生きるものではなく、と言ったとき、原始キリスト教は、人間が生きてゆくために欠くことのできない現実的な条件のほかに、より高次な生の意味が存在していることをほのめかしたのではない。実は、逆に、人間が生きるためにぜひとも必要な現実的な条件が、奪うことのできないものであることを認めたのである。
「マチウ書試論」
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