哲学とは? その8(最終回):希望の哲学へ


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大窪善人


 

哲学とは? フィロソフィ(philosophy)を”哲学”に翻訳したとき、あえて切り落とされた部分。”希(philein)”を哲学に取り戻すこと。それが、この連載のねらいです。

 
この惑星は紅蓮の炎に包まれている

1943〜44年にかけてフライブルク大学で行われた講義の中で、ハイデガーは、唐突に次のように語っています。「この惑星は炎の内に包まれている」と。
時は第二次世界大戦。1940年のナチス・ドイツによるパリ占領の翌年、日本の真珠湾奇襲をきっかけに、米国が全面参戦します。

しかし、その言葉は、当時の戦争の災禍への嘆きといった単純なものではありません。ハイデガーは、物事をつねに哲学的に考える人間です。
「いまや、無機質なテクノロジーを動員したアメリカ=西洋文明が、哲学的文化の故郷たるドイツを灰燼に帰そうとしている」、彼の目にはそう見えたのでしょう。

では、そうした絶望的な状況において、どこに”希望”を見出したのでしょうか。
ですが、結局、彼は、ヘルダーリンの詩の中にだけ存在する「幻想のドイツ」に耽溺していってしまうのです。

ところで、ハイデガー哲学の核心は、「存在」と「存在者」の区別(存在論的差異)にあるといってよいでしょう(詳しくは連載 第三回を参照)。

ジョン・マクウォーリーによれば、この存在論的差異は、神学では”神”と”被造物”に対応するといいます。
もちろん、ハイデガー自身は「存在は神ではない」、「自らの探求はあくまでも世俗的な哲学である」と繰り返し主張しています。それにもかかわらず、「存在」は”神”の代替物である、というのがマクウォーリーの見方です。

なぜハイデガーの哲学は苦しくなってしまったのか。

後年、彼はよく口癖のように、「ただ神のごときものが我々を救うことができる」と言っていたといいます。
ここで重要なのは、救済の主体が「神」ではなく「神の”ごときもの”」になっていることです。それは、世俗哲学が決して踏み越えてはならない、ギリギリのラインだからです。

しかし、本当は、その宗教的な神を呼び出せないということが、苦しさの原因ではないでしょうか
 

無知な指導者

であるならば、いっそのこと、神学のほうに話を振ってみたらどうでしょう。

2014年公開の映画『エクソダス』(リドリー・スコット監督)は、『旧約聖書』の「出エジプト」を題材にした作品です。
神の啓示を受けた預言者モーセが、虐げられたヘブライの民を率いて、エジプトを脱出し、約束の地をめざす物語。神の奇跡が海を割る場面はあまりにも有名です。




(1970年01月01日)

 
この物語が非常に興味深いのは、指導者であるモーセ自身、どこへ向かったらよいか、行く先を知らないということです。
実際に、モーセ一行は40年ものあいだ砂漠をさまよい、ときに、乾きに飢えた仲間に殺されかけたりします。

神にとっての〈知〉は、人間・モーセにとっては〈信〉として現れます。映画でも、仲間に行く先を尋ねられ、ひとり神に祈る人間モーセの苦悩が描かれています。

Ex-odus

「いまここ」から「ここではないどこか」へ。「脱出」を意味する「エクソダス」。
その語源は、”エクス(Ex, 外部へ)”と”ホドス(hodos, 道)”を複合させたもので、”道を踏み外す“という意味にもとれます。

ですが、そうした危険を冒した先にこそ”救済の約束”がある、というのが、宗教的物語が与えるインスピレーションでしょう。
もちろん、それは、キリスト教の信仰をもたない人でも、示唆されるところがあります。

結論的に言えば、宗教的な信仰を〈希望〉の源泉として汲みだし、哲学に命(=philein)を吹き込むこと、これです。そのときに哲学は、〈希望の哲学〉,philosophy として、本来の姿を取り戻すことができるのです。

 

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お盆なので宗教について考えてみた
 

 

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