まずはこちらの絵をご覧ください。
中央に描かれているのは若い男女。テーブルには瓶や果物。男性の右手は女性の顎に添えられ、彼女の手には花束のようなものが見える。なんとなく色っぽいシーンです。
これは、19世紀ドイツの、いわゆる「だまし絵」です。
じつはこの絵には、もう一つ、「骸骨」の絵が隠されています。
もう一度、絵をご覧ください。いかがでしょうか?
男女の姿が消えて、背景の白い部分が浮かび上がります。
このように、部分をつなぎ合わせて全体をイメーシする働きを、心理学ではゲシュタルトと言います。
逆に、もしゲシュタルトを持っていなければ、例えば、骸骨というものの形を知らなければ、ただ男女が戯れている絵にしか見えません。
概念は役に立つ虚構
ゲシュタルトとは、ようは、認識の抽象的なフレームのことです。
これを、社会学や哲学に置き変えると「概念的な思考」ということになります。
概念とは、想像のための翼です。
ひとつ具体的な例をあげましょう。
古市憲寿さんの『絶望の国の幸福な若者たち』という好著があります。現代の若者について社会学的に分析したものです。
この本が面白いのは、若者について書いているにもかかわらず、「若者」というカテゴリーが、じつは一種のフィクションだという”種明かし”をしているところです。
しかし、ポイントは、「若者」はたしかにフィクションだが、でも、それを軸にすることで色々な社会現象の分析に役立つということ。いわば、機能的(ファンクショナル)な虚構(フィクション)として使えると。これが概念的な思考です。
精神としての骨
概念的な思考を徹底的に究めた哲学者に、ヘーゲルがいます。
19世紀はじめに書かれた主著『精神現象学』は、”意識”から始まって法や倫理などの社会関係に発展し、最終的には”絶対知”に至る、かなり抽象的な内容です。
ところで、ヘーゲルは、「骨相学」なるものについてかなり詳しく書いていて、その中で「精神は骨である」という不思議なことを言っています。
骨相学とは、頭蓋骨の形で人の性格がわかるという説で、18世紀ヨーロッパで大流行しました。今風にいえば、血液型占いのようなもので、かなりオカルト的なものです。なぜ、ヘーゲルはそんなものを熱心に取り上げたのでしょうか?
よく考えてみると「精神は骨である」というのは変です。
具体的な個物である「骨」と、目に見えない抽象概念である「精神」は、カテゴリーの水準が違います。
たとえば「哺乳類は犬である」「自動車は軽自動車である」という文が成り立たないのと同じです。
この一見矛盾した命題を、ヘーゲルは「無限判断」という言葉で説明するのですが、この命題「A・抽象概念 = B・具体的個物」をひっくり返して「B=A」にすると、ちょっとおもしろいことになります。
モノ以上のモノ
「精神は骨である」を「骨は精神である」と置き換えてみます。
すると、具体的個物である「骨」は、じつは単なるモノではなく、抽象的な概念「精神」でもある、ということになります。〈骨はたんなる骨ではなく、骨以上のモノである〉と。
さて、ここまでだと単なる思弁的なおしゃべりみたいですが、これを現実の社会に当てはめて考えてみましょう。
仏教には「仏舎利信仰」というものがあります。
仏舎利(ぶっしゃり)とは、ブッダの遺骨のことで、インドの釈迦入滅後、これを塔(舎利塔・ストゥーパ)に収めて信仰する運動が広まりました。
日本にある五重塔もこの流れを汲みますが、そこに収められているモノは、骨であって骨ではない。ブッダという普遍的存在者の身体の一部として、信仰の対象となって、経験されているわけです。
これを一般化すると、お墓になります。
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ヘーゲルは骨相学という、今から見れば間違った知識をもとに考えました。しかし、ある意味でそれは、”意味のある間違い“だったのではないでしょうか。一種のフィクションが真理を開示することがある、という。
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