西尾維新『恋物語』の書評です。
客観的で絶対唯一の真実など存在しないがそれでも考えて考え抜け、というのが本書の主張だと読みました。
客観的で絶対唯一の真実など存在しないという相対主義的な立場は〈物語〉シリーズの随所で見受けられます。本作では後期クイーン的問題との関わりが濃厚です。
後期クイーン的問題とは、Wikipediaの記述を借りると「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」です。「探偵が操られていたり騙されていたりしないとは限らないこと」と言いかえてもよいでしょう。
本作の探偵は語り部でもある貝木泥舟です。尾行や謎の手紙、本件から手を引けというメッセージなどは探偵小説風です。
「手を引け」という謎の手紙は、戦場ヶ原ひたぎが「手を引け」と言われると手を引きたくなくなってしまう貝木泥舟の性格を見通して書いたものであると説明されます(p.273)。斧乃木余接を通じた臥煙伊豆湖からの「手を引け」というメッセージも同様だと解釈できます。
しかしそれならば貝木泥舟が最初から戦場ヶ原ひたぎや臥煙伊豆湖の意図に気づいた可能性もあれば、上記p.273の解釈が間違っている可能性もあり、何が真実なのかを確定することはできません。「手を引け」というメッセージを送れば性格的に手を引きたくなくなるだろうと思って「手を引け」というメッセージが送られたのだから裏の裏でメッセージ通りに手を引く、といった考え方がいくらでもできてしまいます。
こうした後期クイーン的問題に関しては、『きみとぼくの壊れた世界』で病院坂黒猫が「そんなもん、操られる奴が悪いのだ」と一蹴したことにならうなら、騙される奴が悪いだけなのかもしれません。
そうだとすると、貝木泥舟が実践しているように、騙されないように考え続けるという態度に導かれます。
もっとも、人を信じないために騙されない千石撫子よりも、私情がからむと簡単に騙されてしまいそうな貝木泥舟のほうが、本作の主人公として好意的に描かれているようにも思われますので、そうは簡単に割り切れないものかもしれません。