西尾維新『暦物語』の書評です。
暦(阿良々木暦)が暦(カレンダー)に従って伏線を回収していく物語です。
小説、特に推理小説においては、物語上の重要なファクターとして『伏線』という概念がありまして、乱暴に説明すると要するにこれは『ああ、あのときのあれはこういうことだったんだ!』という読み味を齎す描写ということになるんですけれど、これはまあ現実でもままあるように思えます。あとから思えばあれはこういうことだったのかとか、今から思えばあれはこういうことだったのかとか、今更ながらあれはこういうことだったのかとか、過去を振り返ってそう思い出すことは、誰しも体験済みでしょう。それはなんというか、大抵の場合は後悔と共に思い出す体験となりそうですけれど――あのときそうだと気付いていればこんなことにはならなかったのに、みたいな? 『あのとき気付くこともできたはすだ』、『気付く人ならあそこで気付いていたんだ』という感想を抱かせるものが伏線なのだとしたら、そこに後悔が伴うのは一種当たり前なのですが、しかしどうでしょう、そういう後悔みたいな感情を受け取らざるを得ない回想がすべて伏線かと言えば、決してそんなことはないようで。『あとから思えば伏線だった出来事』が本当に伏線だったかどうかは、小説だったら作者に聞けば、作者が正直者だった場合は教えてくそうなものですけれど、現実的には判断のしようがないことですし。人間は関係ないものからでも自由に関係性を見出せてしまう生き物なので、解釈次第によっては何もかもが『伏線』ということになりかねません。(p.446)
このあとがきからしても、多元的な世界が想定されていることは明らかです。本書の第十話までは推理小説の色合いが強いのですが、一つの絶対的な真理が解明されるというよりも、解釈例が示されるだけのように思われます。
恋愛アドベンチャーゲームなどでフラグと呼ばれるものも、伏線だと言ってよいでしょう。階段から落ちてくる戦場ヶ原ひたぎを受け止めるというのは典型的な恋愛フラグです。主人公が一人であればフラグ(伏線)をすべて回収することが可能ですが、主人公だと思われた人が実は他の人のストーリー中のフラグであったという第十話「こよみシード」も示唆的です。