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いま、京大で起こっていること。 part3 -国際高等教育院問題

 

百木です。前回からに引き続いて、国際高等教育院問題について私的にコメントを頂いたことへの僕なりのレスポンスです。

3,意地悪な見方をすれば,この問題はこれまで「教養とは何か」という根本的な問いを避けてきたことのツケがまわってきたことを意味しているのではないか。

これは重要な指摘だと思います。実際に、これまで教養教育を担ってきた総合人間学部や人間・環境学研究科でも、「教養とは何か」「京大の教養教育の現状にどのような問題があり、どのようにそれを変えていくべきなのか」といった議論がなされてきたのかと言えば、否、と答えざるをえません。もちろんそれぞれの先生方の内では自分なりに考えるところがあったのかもしれません。しかし、そういった議論が異分野の先生方や院生・学生の間どうしで行われる機会はおそらくほとんどありませんでした。総人・人環は「異分野どうしの学際的交流」「人文科学、社会科学、自然科学を総合した人間学」を目指すという理念を掲げていますが、実際にはその実現はなかなかに難しかったと言わねばなりません。

これは他学部からよく批判されることですが、結局のところ総人・人環は、マニアックな研究をしている人たちがタコツボ的に寄せ集められた組織になっている、特定の分野を専門的に突き詰めることができず中途半端な研究・勉強にとどまってしまっている、正当な学問研究(アカデミズム)から逸れた異端なことばかりやっている、という状況が存在することは確かです。僕自身が総人を卒業して人環に所属している大学院生なのですが、そのような批判は甘んじて受け入れねばなりません(もちろん、そのような状況ばかりではなく、様々に生産的な研究や教育が行われていることもまた確かなのですが)。

もちろん、「異分野どうしの学際的交流」「人文・社会・自然科学の総合」「教養の統一的定義の設定」など簡単に実現できるものではありません。少しずつ、地道で迂遠な対話を積み重ねながら、じっくりと時間をかけて実現していくしかないものです。そういった壮大なテーマについての成果を短期間で出せといってもどだい無理というものです。しかし他方で、そのような努力をこれまでの総人・人環が少しずつでも積み重ねてこられたかといえば、胸をはって「Yes」と答えるのも難しいというのが本音のところです。京都アカデメイアもそういった部分を補うことができればと思って、これまで様々な活動をしてきましたが、やはり畑違いの人間が集まって何かを生み出そうとすることは本当に難しい。稀にいくつか上手くいったこともありますが、失敗も多々あります。

先ほどの先生は「総人が立ち上がった当初は、理系の先生と文系の先生で一緒に議論して何かやろうという企画もあったのだけれど、結局、お互いにうまく話が噛み合わず、数年でその企画も流れてしまった。それ以後は、ほとんどそういった試みは有効的になされてこなかった」とも仰っておられました。外の学部から見れば、そういった総人・人環の状況がいかにも中途半端で非効率的なものに見え、今回の国際高等教育院構想を良い機会として、総人・人環を実質的に解体させ、新しい組織でリスタートさせよう、という意見が生まれてくるのも無理はないな、という気もします。

そして大変皮肉なことに、総人・人環の教員と学生はこの危機に際して初めて、異分野の者どうしが一箇所に集まって同じテーマについて議論をし、それぞれの見地から積極的に意見を交わすという理想的状況が出現しています(笑)国際高等教育院構想のどこが間違っているのか、教養教育とはどのようなものであるべきなのか、京都大学の「自由な学風」の良さとは何なのか、といった論点について、物理学の先生や社会学の先生や化学の先生や哲学の先生などが一箇所に集まって熱く語るという光景を、僕は京都大学に入学して以来、初めて目にしました。国際高等教育院構想に反対する先生方の演説は、いつもの講義のときの話しぶりよりもずっと熱がこもっていて、聞いていて大変に面白いものでした。こういった議論をもっと早くに先生方から聞ければ良かったのになぁ、と思いました。


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今やもう時すでに遅し、ということなのかもしれません。(昨日12月18日の部局長会議において国際高等教育院構想が正式に承認されたとのことです。)しかし、折角こうして始まった「教養」をめぐる活発な議論が、このまま消えていってしまうのでは寂しいなと思います。また、このまま再び専門分野を横断した議論が沈静化していってしまうのならば、所詮、総人・人環とはその程度の学部であったのだし、実質的に解体されていったとしても仕方がないのかなという気もします。(とはいえ、来年からいきなり総人・人環という学部が消えてなくなるということはないそうです。「来年度からも表面上は何も変わらない」という言葉をいろんな先生の口から散々聞きました。)動画のなかで多賀先生が仰っているように、来年度からも表面上は何事も変わらないように見えながら、少しずつ「自由」や「寛容」の空気が蝕まれていき、十年も経つと京大の雰囲気がすっかり変わってしまっている、というのは大いにありそうなことです。

なんだか総人・人環の話ばかりになってしまいましたが、この状況はおそらく今の京都大学全体に当てはまる問題ではないかと僕は思うのです。やや大げさに言えば、これは日本の現在の大学やアカデミズムが抱える病を象徴する問題ではないかとさえ思います。残念ながら病がすぐに治癒する特効薬はありません。病の進行はすでに身体の相当広い範囲にまで及んでいるように見えます。この瀕死の病人を助けることができるのかどうかはわかりませんが、微かな期待を込めて、「教養」や「大学」についての議論を僕たちがこれからもいろんな場所で続けていく以外に、この病人のためにしてやれることはほとんどないのではないか

僕自身も日々の生活のなかでそれなりに色々とやらなければならないことがあり、この問題にばかりに時間を割いていくわけにもいきません。これからもささやかながら、無理のない範囲で自分にできることをやっていくつもりです。日本の政治状況や社会状況についてもそうですが、あまり過剰に希望を持ちすぎても絶望しすぎても仕方ないのだと思います。京都アカデメイアでも、これまでにやってきた活動の蓄積を活かしながら、「教養」や「大学」について議論をする場を用意するぐらいのことならできるのかなと考えています。そのような場を用意できた際には、いろんな人たちと「教養」や「大学」についての議論を交わすことができれば幸いです。それこそがまさにこの大学の「教養」の一部となるでしょうから。

「教育院」設置決まる 京大 異例、評議会で多数決
京都新聞の記事です。教育研究評議会の決定が多数決でなされるのは異例の事態とのこと。実際の教育活動が始まるのは2014年度からだそうです。

※京都アカデメイアの掲示板に「教養ってなんだろう」というスレッドを立てました。すでに複数人の方にそれぞれの「教養」観について書き込んでもらっています。ぜひ皆さんも「教養」についての議論に参加してみてください。仮名OKです。
http://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/index.cgi?rm=mode4&menu=bbs&id=956

※いくつかのブログでもこのブログと同趣旨の意見を見つけました。
京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その2)-enomoton2011の日記
こちらの記事では、文科省-総長側は曲がりなりにも教養について具体的な定義を与えているにもかかわらず、人環教員有志ではそのような定義を与えていないではないか、手続き面で反論するのはわかるが、大きな理念の面では「京大の自由な学風」といった従来的な漠然とした概念を持ち出すにとどまり、積極的な反論ができていないのではないか、という指摘がなされています。

国際高等教育院問題に関する個人的要望のまとめ-仄暗い夢の底
こちらの記事でも基本的には総長の説明責任不足などを批判しつつ、同時に人環の先生方もまた「教養」や「自由の学風」についてどのように考えているのかを説明できていないのではないか、という指摘がなされています。

人環の先生方がこういった疑問に対してこれからどのように答えていかれるのか、あるいは何も答えないのか、動向を見守ってきたいです。それにしてもどちらのブログも相当な力作ですね。

※最後に、参考として人環に所属しておられる佐伯啓思先生が古典と大学改革について書かれたエッセイのリンクを貼っておきます。今回の大学改革問題に深く関わる良い文章だと感じましたので。関心ある方はどうぞ。

【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 古典軽視 大学改革の弊害
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121119/edc12111903290000-n1.htm

いま、京大で起こっていること。part2 -国際高等教育院問題-

 先週,「国際高等教育院」問題(以下、教育院問題と省略)について書いた記事に対して,私的なものも含め,いくつかのコメントをいただきましたので,それに応答したいと思います。今回の記事も、百木の個人的な見解・解釈を含んでおり、これが京都アカデメイア全体の見解ではないことをあらかじめ断っておきます。
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1)経緯についてはよくわかったが,この問題は「教養とは何か」「大学の役割とは何か」といった理念論で語る前に,大学で新しい組織を立ち上げる際の正当な手続きを踏んでいないという手続き論で批判すべき問題ではないか。

正論です。実際に,この構想に反対している人環の先生方もそのような手続き論に則って,総長サイドに対して反対しています。具体的には,この計画の手続き上の不備をめぐる監査請求が行われています。その手続き上の不備については,人環教員有志のサイトに簡潔にまとめられています。念のため,以下に引用しておきます。

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「国際高等教育院」構想推進に関する問題点

1.大学規程違反
規程に定めのない総長裁定委員会の乱用
既存委員会と任務が重複する委員会を設置して既存委員会の権限を蔑ろに

2.共通教育検討段階での責任部局の排除
全学共通教育を担う総合人間学部と4学部(経済・農・教育・薬)を抜きにした構想推進

3.委員会議論の恣意的な解釈
委員会に提案された2案のうち支持の多かった案を説明も無く撤回
強い反対があっても了承と主張(反対意見が多く出た案を修正もせずに部局長会議に提案)

4.教養教育の中身の議論の欠如
人員確保と組織図作りに終始
教育院の中身とは関係ない資料(総長参考資料1、2、3、4)を示して、中身を十分議論したと偽装

5.欺瞞に満ちたメッセージ発信
構想の一部だけを強調したメール送信で学内世論を誤誘導

6.拙速・杜撰な構想推進
次年度4月に発足させる組織を前年末に強行決定することを画策
「専任教員」「再配当定員」等の定義不明ポストで構成された粗雑な組織設計

7.部局の人事権の強引な剥奪
法的根拠もなく教員を部局から移籍させて実質的な管理下に置く(1913年澤栁事件・1933年滝川事件以上の前代未聞の)暴挙

8.社会不安の誘引
未確定な構想内容の報道を許し、人間・環境学研究科・総合人間学部大幅縮小との誤解を社会(とりわけ受験生)に与えたこれらの問題は、以下の点で京都大学の基本理念に反している:

「高い倫理性」の欠如
「多様かつ調和のとれた教育体系」の破壊
「対話」の拒絶
「開かれた大学」の否定
「自由と調和に基づく知」の破壊
「学問の自由な発展」の阻害
「教育研究組織の自治」の破壊
「全学的な調和」の軽視
「社会的な説明責任」の放棄
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以上の指摘はいずれも的確なものだと思いますが,実際に監事側がどのような判断を下すのか,そしてその判断がどの程度,総長の方針に対して拘束力をもつのか,というのは今のところよく分かりません。おそらく,こういう風に総長の方針に対して教員から監査請求が行われるということが異例の事態なので(上記の指摘では,これは「1913年澤栁事件・1933年滝川事件以上の前代未聞の暴挙」だとされていますが),どのような判断が下されるのか,注視したいと思います。

また,このような手続き論でもって反対するのが正攻法だとして,それだけで本当にこの計画に待ったをかけられるのか?という疑問も残ります。なぜなら12月4日に開かれた部局長会議において,総長サイドは教員・学生から反対の声があがっていることを知りつつも,元の計画を修正することなく,それを強行採決しようとしたそうだからです。11月26日時点で全教員にたいして送られた総長メールと,全学生にたいして送られた副学長メールでは,いったん譲歩の構えを見せておきながら,12月4日の会議では,そのメールと全く異なる内容(つまり,元のままの計画)で採決を行おうとしたと聞いています。これに対してはさすがに,人環以外の研究科長からも反対の声があがり,その会議での結論は持ち越しということになったそうです。

つまり,総長サイドとしては,教員・学生から反対の声があがろうが(11月末時点で1255名の反対署名が集まってる),手続き上の監査請求がなされようが,そういった反対の声には構わず,また京大の教員や学生に対して正式な説明を行わないままに,この計画を元のままの案で通そうとしているということです。これを総長の権限を超えた横暴だとして批判することはもちろん真っ当なのですが,他方で,そうまでして強引にこの計画を通そうとする総長サイドの意図は何なのだろう?ということも気になります。学内で多少の反対意見があがろうとも,大学の正式な手続きを踏み越えてでも,この計画を今年度中に通して,来年度から実際に新組織を立ち上げようとする総長サイドには,何らかの後ろ盾なり,これを強引に突破しても大丈夫だという論理なりが存在するのでは,と勘繰りたくなってしまいます。

今後の予定としては,今週18日(火)の臨時部局長会議にてこの計画について何らかの決定が下される予定だということです。この会議においても,総長サイドは元の案を修正することなく強行突破の予定だ,という噂を聞いておりますので,もはやどんな反対があろうとこの計画は可決されることが決められているのかもしれません。この点についても,ひとまず18日の決定がどのようなものになるかを見守りたいと思います。

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2,今年3月に文科省から出された「予測困難な時代について~」という文書,および6月に発表された「グローバル人材育成について~」という文書にも言及してほしい。

前回の記事でも書いたように,この教育院計画は松本総長が単独で立案し,実行しようとしているものではありません。その背景には,文科省が推進している「大学改革実行プラン」があります(今年6月発表)。さらにこのプラン策定のための方針を示す答申として3月中教審から「予測困難な時代において生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ」という文書が発表されています。この大学改革実行プランとは「生涯学び続け主体的に考える力をもつ人材の育成、グローバルに活躍する人材の育成」などを目標とした大学改革プランです。そして今年度が「改革始動期」,来年度と再来年度が「改革実行期」と定められており,おそらくその計画に沿って今回の教育院構想も立ち上がったのであろう,ということです。注目すべきは,このプランが発表されたのと同じ6月に「グローバル人材育成推進会議の中間まとめ」が発表されているということです。この文書では,「グローバル化の加速する社会において活躍できる人材の育成の重要性が増していることは論を俟たない」とされています。おそらくこの二つの文書は互いに関連しあっており,「大学改革実行プラン」の具体的な実行路線が「グローバル人材育成」にあることは既定のもので,その既定路線に沿ったうえで教育院が構想されています。ちなみに京都大学が国際高等教育院構想についての基本方針が初めて示されたのが翌月の7月でした。また8月には中教審からこれらを総合した「新たな未来を築くための大学教育の質的転換に向けて~生涯学び続け、主体的に考える力を育成する大学へ~(答申)」という文書が示されています。

先ほど,総長サイドが反対の声があるにもかかわらず、強引にこの計画を進めようとしている背景には何か後ろ盾があるのでは…、と書いたのはこのことです。といっても,「裏で文科省役人がすべてを操っている!」という陰謀論的な話をしたいわけではありません。また「グローバル人材の育成」自体に反対しているのでもありません。ただ、個々の大学の教育現場の現状や特質を理解しないままに「グローバル人材の育成」だけが至上命題として掲げられ、総長が予算や権限を獲得するために文科省の定めたプログラムをそのまま受け入れて、これを教員と学生への説明なしに強引に実行しようとしていることに反対したいのです。せめて総長はこの計画について京都大学の教員と学生にその意図を正式に説明する場を設け、教員と学生の概ねの賛同を得たうえで、これを実行していく義務を負っているでしょう。

この教育院構想には今のところほとんど具体的な中身がありません。グローバル人材を育成するためにネイティヴスピーカーを多く雇い、英語授業を増やすという程度の情報が漏れ伝わってくる程度です。しかし、英語の授業を増やせばグローバルに活躍できる人材が育成される、というほど単純なものではないはずです。京大生ならば英語力は自力でもそれなりに身につけられるはずです。問題は、英語を使った授業の中でどのような内容の講義や議論がなされるかということです。そういった話を抜きにして、ただネイティヴスピーカーの講師を大量に雇えばいい、といった表面的な計画だけで教養教育改革が進もうとしているのであれば、これはかなり危険なことなのではないかと思います。

また、松本総長が今回の計画を焦って実現させようとする背景には、来年度に文科省から京都大学へ国立大学法人評価が入り、その結果いかんでは国からの予算が大幅に減らされてしまうかもしれない、という危機感があるそうです。聞くところによれば、数年前にある国立大学がこの評価査定の結果、約5億円の予算を減らされたとか。松本総長はそのことを非常に気にしており、文科省から良い評価を獲得するために、わかりやすい大型プロジェクトとして今回の国際高等教育院構想および思修館構想入試改革などを進めようとしているのでないか、との推測があるらしいです。この思修館構想や入試改革の内容も相当に問題含みなものですが、問題の本質は、文科省から予算を取ることが大学当局にとっての至上目的となり、根幹の研究現場や教育現場での意見や、教員・学生の意志がおざなりにされているということです。この問題は、そもそも2004年の大学独立行政法人化以降、大学に競争原理を持ち込んだ文科省の方針にその根源があると言わねばなりません。この問題も是々非々で議論すべき論点が多数存在しますが、ひとり総長の暴走を問題とするのではなく(それだけでも相当に問題はあるのですが)、文科省が90年代以降に進めてきた大学改革のあり方が正しいものであったのか、という大きなレベルで問題を考える必要があるのではないでしょうか。(続く)

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いま、京大で起こっていること。 -「国際高等教育院」問題について

百木です。いま、京都大学でちょっとした騒動になっている「国際高等教育院」問題についてまとめてみました。できるだけ客観的に・事実に基いて書いたつもりですが、いろいろと僕個人の意見が反映されている部分もあると思います。この記事はあくまで百木個人の意見であり、京都アカデメイア全体の見解ではないことをお断りしておきます(この問題についてはいろいろな意見・立場の人がいるので)。もし何かお気づきの点、反対意見、補足情報などあればコメント欄にお願いします。

1.現状のまとめ

最近の京大は、「国際高等教育院」問題で揺れています。
初耳だという方も多いでしょうが、朝日毎日などの大手新聞でも記事になっていたのでそちらをご覧になった方もいるかもしれません。いくつかリンクを貼っておきます。

朝日新聞: 京都大、教養教育を一元化へ 13年4月に新部門検討(2012年11月15日9時58分)

毎日新聞: 京都大:教養教育一元化へ 学力低下ストップ狙い、来年度にも新組織(2012年11月17日)

また京都大学新聞の特集記事にも詳しい経緯がまとめられています。なかなか良い記事です。
京都大学新聞:緊急特集 「教養共通教育再編」を考える(2012.10.16)

大まかにどういう事態になっているかを説明しますと、

1)来年度から一般教養科目(いわゆるパンキョー)の制度を大きく変えるという計画が浮上。
2)それに合わせて、一般教養科目担う「国際高等教育院」なる組織を設立する計画が浮上。
3)ところがこの「国際高等教育院」計画に対して教員・学生から異論が続出。
4)教員・学生有志による反対の署名活動集めや抗議書の提出監査請求の要請が行われる。
5)総長サイドは当初の計画案で強行突破を図る。 ←今ここ

という感じです。

特にこの計画に反発しているのは、これまで一般教養科目を主に担ってきた総合人間学部および人間・環境学研究科(総合人間学部の大学院に当たる組織)の教員や学生たちです。ちなみに人間・環境学研究科棟の入り口は現在こんな風になっています。(笑)

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夜間ライトアップまで。(笑)
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こちらは先生方による反対決起集会の様子。
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動画もあります。お二人の先生方が話されていますが、どちらもなかなか心に染みます。

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こちらは人環・総人の教員による説明会の様子。詳しい経緯を知りたい方はどうぞ。

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また人環教員有志による反対表明サイト学生有志による反対活動wikiなども立ち上がっています。とくに人環教員有志による反対サイトにはこれまでの経緯も詳しく書いてありますし、随時情報が更新されていますので、関心ある方はチェックなさってみてください。コメント書き込みも可能になっていて、それぞれのコメントにきちんと返答してくださる印象を持っています。web反対署名もできます。ちなみに11月末時点で集まった反対署名は1255件だったそうです。人環で学ぶ留学生からも抗議書が提出されています。

その他ネット上のまとめなど。
京都大の「国際高等教育院」構想に対する反応 – Togetter
京大【総人・人環】「国際高等教育院」構想反対決起会(11/12)
京大総長の「国際高等教育院」構想が、骨抜き過ぎて笑える件
「国際高等教育院(仮称)の設置について」というメールについて

2.これまでの経緯とか

ではどうしてこうした反対運動が(一部で)盛り上がっているのでしょうか。
まず、そもそもどのような教養教育改革がなされようとしているのか、を大学の公式資料を参照しながら確認してみます。

こちらの資料を見ると、「グローバルな知識基盤型社会において、我が国の学士課程教育が、未来の社会を支える優れた人材を育成するという公共的使命を果たし、社会からの信頼に応えていくために…改革を推し進めなければならない」という文言から始って、近年の京都大学では「研究活動や専門教育を重視する一方、教養・共通教育を軽んじる傾向も否めない」ために、抜本的な教養教育制度改革が必要だ、という結論になっています。具体的な改革内容としては、a.開講科目の精選と体系化、b.各学部による履修モデルの提示、c.初年次への専門基礎科目配当の見直し、d.ポケゼミの正規授業化、e.英語授業の強化、などが挙げられています。

さらにこちらの資料では、「各学部のニーズに合った共通・教養教育にかかる科目提供の在り方やその実施を、10 学部と全学共通教育実施責任部局および協力部局が対等に議論することが、本学の共通・教養教育の改善に向けた全うな道筋であろう」としたうえで、「全学共通教育の負担問題を、本学基本理念に部局自治の尊重と並んで謳われる「全学的な調和」的運営によって解決することが求められるが、そのような調和的な合意が不可能な場合には、旧教養部から総合人間学部への移行の際の議論に立ち返って、教員定員の配置の在り方から再度の抜本的な議論を行なうことも必要となるであろう」として、教養科目の学部ごとの負担割合をどうするか、という点に話が進みます。

ここから「本学の全学共通教育の一層の適正化を図るため」現行の組織体制を抜本的に見直し、「各研究科等の協力を得て、全学共通教育の企画、調整及び実施等を一元的に所掌する全学責任組織「国際高等教育院(仮称)」を設置する。」という組織案が浮上してきます。この組織では「全学共通教育をはじめとした国際高等教育院(仮称)の業務を主務とする専任教員を配置する」とされ、その「教員原資」に関しては人間・環境学研究科から90~135ポスト、理学研究科から27ポストなどを当てる、という人事異動の話が出てきます。

これに対して、人環の先生方から反対表明が出されています。この計画があまりに性急に進められていること、松本紘総長から教員・学生にたいしてほとんど何の説明もなく、一方的に総長のトップダウンで計画が構想されていること、どのような理念のもとに教養教育改革がなされるのかが不明瞭であること、計画されている人事異動案が到底了承できるものではないこと、などがその主な理由です。

大きくまとめると反対の理由は以下の三つに分けられそうです。
1)京都大学の教養教育が損なわれてしまうのではないかという危惧。
2)松本総長によるあまりに性急な計画の進め方への反発。
3)人環・総人が実質的に解体されてしまうのではないかという危惧。

こんな感じで、現在、京都大学では「国際高等教育院」計画をめぐって、これを来年度から実施しようとする総長サイドと、これに反発する教員・学生有志サイドで対立が起こっており、ちょっとした「例外状態」が出現しております。

ちなみに僕も人環に属する大学院生のひとりなので、ささやかながら反対署名をしたり、いろいろ情報を収集・整理などしているのですが、根があまり真面目な性格ではないもので、個人的には今回の騒動をある種の「非日常的体験」として楽しんでしまっているところがあります。僕は京都大学に在籍して通算でもう10年以上になりますが、こんな状況は初めてですから。こんなことを書くと、真面目に反対活動をしている先生や学生の皆さん、あるいは真剣にこの計画でもって「教養改革」をしようとしているお偉い先生方に怒られてしまいそうですが。もう少し真面目に書くと、僕は今回の騒動が、京都大学のこれからのあり方や、教養教育の意義、総人・人環という組織の立ち位置、大学自治の行く末、などについて先生と学生が一緒になって考え直す良い機会なのではないかと考えています。

今回の計画に賛成するか反対するかはともかくとして(僕個人は反対の立場ですが)、この計画について双方の議論を詰めていくならば、最終的には「大学の役割とは何か」「教養の意義とは何か」といった大きな話に行き着くはずで す。実際に、先日開かれた教員と学生の対話集会でもそのような議論が、教員と学生・OBの間で闘わされていました(先生方の認識は甘いのではないか、教養 とは何か?という本質的な議論・定義を避けて、今回の計画に本当の意味で反対など出来るのか、など)。この問いを突き詰めていくと、これまでの人環や総人 は本当に理想的な教養教育を行なってきたのか、そもそも人環の先生方はあるべき教養教育のあり方をどのように考えているのか、というツッコミがブーメランのように人環・総人の側に返ってくるはずです。この点については、教養部廃止から人環・総人の設立に至る経緯、人環・総人の理念と現実の差なども含めていろいろ言いたいことがあるのですが、長くなりそうなのでここでは割愛します。

3.背景にあるもの

そもそも今回の問題は、近年、「学生の基礎教養の低下が課題となっている」「教養・共通教育を軽んじる傾向がある」「学生を採用する企業側から学生の基礎教養の底上げを求める声が高まっている」「グローバルに活躍できる人材を育てることが求められている」という松本総長(大学当局)の認識から起こったものです。

またその背景には、日本の高等教育全体を取り巻く「改革圧力」があります(京都大学新聞)。今年6月に文科省が発表した「大学改革実行プラン」 によれば、「生涯学び続け主体的に考える力をもつ人材の育成、グローバルに活躍する人材の育成、我が国や地球規模の課題を解決する大学・研究拠点の形成、 地域課題の解決の中核となる大学の形成など、社会を変革するエンジンとしての大学の役割が国民に実感できること」を目指した大学改革を行うとされていま す。その具体的内容としては、「大学入試の改革」「産業構造の変化や新たな学修ニーズに対応した社会人の学び直しの推進」「グローバル化に対応した人材育成」などが挙げられています。

つまり、グローバル社会や経済界か らの要請にあわせて大学制度・教養教育の中身を「改革」していこうという大きな流れがあり、その流れのもとに松本総長が今回の「教養教育制度の改編」およ び「国際高等教育院計画」を構想したということのようです。今回の計画の進め方が性急にすぎる、教員・学生への説明がない、人員異動のやり方に問題があ る、といった点にももちろん問題はあるのですが、問題の本質は文科省・経済界・大学当局がスクラムを組んで進めようとしている上記のような「大学改革」の流れが本当に正しいものなのか、われわれは「大学の教養教育」に何を望むのか、という点にあるのではないかと思います。

「自由な校風」 によって知られ、「1人の天才と99人の馬鹿を生み出す」と言われてきた京都大学の教育のあり方を今後どのようなものにしていくべきなのか。そもそも「大 学」や「教養」の意義をどのようにとらえていくのか。今回の騒動が、大学人にとって根本的なこういった問題について、改めて考えなおす機会になればと思い ます。

「マジカル・プランツ」から考える――「備え」としての学びへ

みなさんは「マジカル・プランツ」という言葉をご存知でしょうか。この聞きなれない言葉は、「食虫植物」、「多肉植物」、「ティランジア」といったユニークな観葉植物の総称です。食虫植物愛好家兼ライターである星野映里さんの『大好き、食虫植物。―育て方・楽しみ方』が火付け役となって、とくに若い女性の間でトレンドになってきているそうです。今年、新たに『マジカルプランツ―食虫植物・多肉植物・ティランジアをおしゃれに楽しむ』(こちらは木谷美咲名義) が出版され、さらに話題を呼んでいます。

食虫植物といえば、「ハエトリソウ」や「ウツボカズラ」、「モウセンゴケ」などがポピュラーな植物ですが、これまでは高価で入手が難しかったり、栽培方法が十分に確立されていなかったりして、一般には手を出しにくい状況がありました。しかし、最近では、ホームセンターでも取り扱っているケースも増えてきているみたいです。今回は、この「マジカル・プランツ」から、学びへのヒントを引き出してみようと思います。

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Kunstformen der Natur“, Nepenthes

まず、食虫植物とは文字通り「虫を食べる植物」のことです。このように言うとグロテスクなイメージがありますが、よく観察してみると、その独特で精妙な生態に驚かされます。エコロジー思想のルーツであるエルンスト・ヘッケル(生態学,Ökologieyという言葉を造語)の『自然の芸術学的形態』,Kunstformen der Natur の中には、ウツボカズラの図が収録されていますが、外形だけではなく、その生態的メカニズムも驚異的なものがあります。また、もしかしたらそれが、虫たちだけではなく、人をも惹き寄せる魅力なのかもしれません。

『食虫植物の世界』(田辺直樹,以下の食虫植物についての記述の多くは本書に依っています)によれば、食虫植物=マジカル・プランツが他の一般の植物と異なっている点は、第一に、虫を捕まえる器官を備えていることです。そして、もう一つは、捕らえた虫から養分を吸収する仕組みを持っていることです。分布地域は世界中で、主に温帯地域に自生する。たとえば、ウツボカズラはマレーシア、インドネシア、タイ、フィリピン、ラオスなどの東南アジアからマダガスカルまで100種類以上が確認されています。大きさは様々で、大型のものではネズミを捕食した例もあります。

さらに、その捕虫器(ピッチャー)は巧妙な仕組みを備えています。ウツボカズラの場合、葉の先が袋状になっていて、中に液体が溜まっています。そして、入り口や蓋の部分からは蜜を分泌して虫を誘引します。そこに誘き出されて穴に落ちて溺れ死んだ虫から、養分を吸収して栄養を得ます。袋の内壁は、虫が這い上がれないように滑りやすい構造になってて、さらにロウ質が分泌されています。袋の中の液体は、根や茎を通じて常に一定量になるように調節されています。

ハエトリソウについても見ておきましょう。こちらは、口のように開いた葉が捕虫器で、この内側から虫を誘き寄せる蜜が分泌されています。葉の内側にはそれぞれ感覚毛が上下3本ずつあり、それに虫が2回触れると、素早く閉じて虫を捕らえるようになっています。なぜ2回かというと、虫が十分に捕虫器に進入してから捉えるためです。0.5秒ほどで葉は閉じられます。ちなみに、ハエトリソウは初夏に白い花を咲かせます。

以上、食虫植物の生態について詳しく見てきましたが、これらは、われわれに対してどのような学びのヒントを与えてくれるのでしょうか。ところで、ここで興味深いことは、じつは食虫植物にとって「捕食はオマケのようなものである」という事実です。どういうことか、説明しましょう。食虫植物の生息地は、熱帯のジャングルの中のように日当たりの悪い場所だったり、土壌から十分な栄養を吸収しにくい環境だったりします。そこで足りない分の栄養を食虫によって補うのですが、じつはほんの僅かでよく、虫を食べ過ぎると逆に栄養過剰で弱ってしまい、ひどい場合には枯れてしまいます。また、とくにハエトリソウの場合には、仕掛けを動かすのに大きなエネルギーを消費するため、何度も開閉させるとそれだけでも枯れてしまう原因になるのです。

つまり、食虫植物は、あれだけの周到で大掛かりな仕掛けを準備していながら、しかし、実際には、ほんの少しの栄養を補う程度の役目しか与えられていないのです。むしろ、そうでなければ自分自身の生存さえ危うくしてしまいかねません。ここには、目的のための過剰とも思えるような備えと、その結果として得られる成果との間の、奇妙とも思えるようなアンバランスさがあります。

さて、このマジカル・プランツのもつアンバランスさに、「学び」というものの性格との類似点を見出すことはできないでしょうか。といっても、ここで「学び」とはどのようなものかを明らかにしなければ抽象的な話に終始してしまいます。ここでは、物ごとをより深く考えるということと結びつけて見たいと思います。周知のように、西洋の知的伝統には「リベラル・アーツ」という考え方があります。リベラル・アーツとは、文学・論理学、修辞学の三科、それに算術、幾何学、天文学、音楽の四科からなる学問分野の体系のことです。そして、これらを修得することが教養、すなわち、普遍的な学知を探究することによって、人間として自由になるということだと考えられていました。

それは、すでにある問題をいかに早く解決できるかといったようなタイプの学びとは、あるいは、いわゆる学問における効率性や有用性とは別の方向性を示していると思われます。むしろ、必ずしも最終的な答えは出せないかもしれないけれども、考えるべき重要な問いがある、ということを含意しているのではないでしょうか。もちろん、実際に直面する問いというのは、おそらく局所的で小さなものに過ぎません。が、しかし、そうした小さな問いを解くためにこそ、非常に広範でかつ深い教養を要請するのが、リベラル・アーツの基礎にある考え方ではないでしょうか。

それでは議論をまとめましょう。ポイントは、ある種の学びや教養は、食虫植物のアンバランスな生態との類推として捉えられるのではないかということでした。いずれも、ほんの僅かな結果のために、莫大な備えを必要としています。一方は、虫を、そして他方は学びという獲物を待つために。もしも両者に「マジカルな」魅力があるとするなら、それは、じつはそうした「備え」の方にあるのかもしれません。

大窪善人

 

[批評]映画『トータル・リコール』から考える――あなたが感じる現実は本当に「現実」か

大窪善人です。

百木氏から、大窪も何か投稿してはどうかとリクエストをいただいたので、文章を寄せます。

今回は、8月10日より放映されている映画『トータル・リコール』についてお話ししようと思います。すでご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、まだ見ていない方はネタバレにご注意を。

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原作は、SF作家、フィリップ・K・ディック、「追憶売ります」(1966年)で、1990年に映画化され大ヒットした。今作は、そのリメイクバージョンで、監督は『ダイ・ハード4.0』を撮ったレン・ワイズマンである。もちろん、全編に渡って展開するキレのあるアクションも大きな見どころの一つだが、ここでは作品のコンセプトに注目して、思考を走らせてみたい。

リメイクによる大きな違いはまず舞台設定にある。前作は火星を中心にした物語だったが、今作では地球が舞台だ。だが、その舞台装置がちょっとおもしろい。近未来の地球は化学戦争によって、ほとんどの地域は人類が住めない場所になってしまっていた。やがて世界は再編され、ブリテン連邦/UFBと地球の反対側のオーストラリア大陸のコロニーと呼ばれる場所に二分される。コロニーの市民はUFBのための労働力として、「フォール」とよばれる巨大地底エレベータを使って二つの場所を行き来する。そして、コロニーでは自由と独立を求めてレジスタンス活動が行われている。これに対して、UFBはロボット警官(シンセティック)の配備を進めていく。

主人公のダグことダグラス・クエイド(コリン・ファレル)はコロニーの住人であり、退屈な毎日を過ごす労働者である(彼の職場はシンセティック製造工場である!)。だが、一方で、愛する妻(ローリー/ケイト・ベッキンセール)とともに、それなりの生活を送ってもいる。しかし、彼は繰り返し見る悪夢に悩まされている。そんなある日、クエイドはリコール社を訪れる。そこに行けば、自分のなりたい自分になれる夢を見ることができると聞いたからだ。そこで彼はUBFに立ち向かうレジスタンスという記憶を購入する。だが、記憶を注入しようとしたまさにそのとき、完全武装したUFBの警官隊が彼を包囲してしまう。

今作の基本設定は前作、あるいは原作とも異なるオリジナルのアイデアである。UFBとコロニーという隔絶した二つの地域が現代の格差社会の暗喩であることはほとんど明らかだろう。ここには現在のアメリカ社会の状況の反映が刻印されているとみることができるかもしれない。UFBとコロニーとを隔てる圧倒的な空間的距離は、二つの地域に住む市民同士の、ほとんど流動化不可能な階層的落差の象徴であるように思われた。さらに、そうした各自のポジションは能力ではなく、むしろ変更不可能な属性(UFB/コロニー市民)において定められているのである。

ところで、ハリウッド映画の成功にはある法則があるという。それはアメリカ人の夢、アメリカン・ドリームを描いた作品であることだ。ここでいうアメリカ人の夢とは、1.社会のはしごを上ること、2.平等な機会が与えられていること、3.新天地で成功すること、4.そうした結果として自分の家をもち幸せな家庭を築くことである(『ハリウッドはなぜ強いか』、赤木昭夫、筑摩書房、2003年より)。ハリウッド映画はアメリカン・ドリームを描き、売ることに力を入れてきた(同掲)。一方、この映画は、さしあたっては、そうしたアメリカ人の理想が現実化されることに対する圧倒的な困難を基礎においている、ということができる。

しかしながら、この映画において、ここで問題にしたい点は次のようなことだ。それは、「なぜ人は、現実を、現実それ自体のみによって肯定することができないのか」といういささか観念めいた問いについてである。以下ではこの問題に立ち入ってみたい。

クエイドは退屈な毎日を過ごす労働者である。彼はある日、自分がレジスタンスであるという夢を買う。しかし、彼が現実だと思っていた記憶は埋め込まれた偽の記憶であり、レジスタンスである記憶の方が本当の記憶だということが、しだいに明かされる。彼は、もとはUFBの幹部であったが、反逆し、レジスタンスに寝返っていたのである。しかし、その後、捕らえられ、偽の記憶を植えつけ生活させられていた。時折見る悪夢は、抑圧された過去の記憶がフラッシュバックしたものだったのだ。

ここで重要な役割を果たしているのは「夢」である。映画の中では、クエイドが見るレジスタンスであるという夢が、真実を媒介する糸口になっているのだ。しかし、どうして「夢」がそのような作用を果たすことができるのだろうか。この問いに答えるためには、いささか遠回りに見えるかもしれないが、ニーチェの夢についての考察が糸口になろう。通常、われわれは現実と夢とを比較した場合、前者の方により重要性があると考えている。たしかに「夢想」や「夢見がち」といった言葉はむしろ否定的なニュアンスを含んでいる。あるいは、より根本的にいえば、生きるということは、目覚めている状態の、この現実を生きることにほかならないといわれる。しかし、ニーチェはこの見方に対してまったく逆の考えを示しているのである。ニーチェは、仮像に対する(われわれの)熱烈なあこがれ、憧憬から、次のような命題を提示している。

「真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快楽にみちた仮像を必要とするという仮説である。仮像のうちに完全にとらえられており、また仮像から成り立っているわれわれ人間は、この根源的一者のつくり出した仮像を、真実には存在しないもの、すなわち、時間・空間・因果律のうちにおける持続的な生成として、ことばをかえていえば、経験的な現実として感じざるを得ない仕組みになっている。」(『悲劇の誕生』、岩波書店、1966年、50頁より)

ニーチェが言うように、仮に人間を根源的一者(=神)の被造物として捉えるとするならば、人間は神にとっての仮像ということになるだろう。あくまでも実在は神の方にあるからだ。しかし、人間の方から見れば、今度は逆に、神の方こそが幻影、あるいは仮像に感ぜられてくる。ここでは先の考えとは真逆の転倒がある。この考察を再度、夢と現実との関係として構成しなおすならば、「現実」につ
いての認識は同時に、「夢」に依存してもいるということである。そして、「夢」は仮像としての「現実」の仮像という限りで、いわば、「仮像の仮像」(同掲)なのだ。このような前提をおいて考えると、このようにいうことができる。つまり、「夢」が、「真実」、あるいは「現実」を媒介する糸口になっているのは、「夢」が「現実」のもう一つの側面をあらわしているからだと。

最後にクエイドと彼の同士であるメリーナ(ジェシカ・ビール)の二人がキスを交わす(正確には交わそうとする直前の)シーンで映画は終わる。しかし、その直前に、カメラは一瞬、リコール社の広告看板を映し出す。観客としての私は、ここで再びあの疑念へと引き戻されることになる。つまり、本当はレジスタンスであるというこの現実もまた夢なのではないのか、という。

「たとえどんなに説得力があったとしても、所詮、幻想は幻想でしかない。すくなくとも、客観的には。しかし、主観的には――まったく正反対だ。」(『トータル・リコール』、大森望編、ハヤカワ文庫、13頁)

大窪善人

タマキサユリ問題

百木です。先日、久しぶりに大学の後輩の玉置沙由里さんとスカイプで話をしました。ご存知の方も多いかと思いますが、玉置沙由里さんはいわゆるノマドブロガーとして有名な方で、ブログ「女。MGの日記」MG(X)プロジェクトなどを主宰し、ノマドとして新しい生き方を実践しておられます。僕は彼女が京都大学の総合人間学部にいた頃からの知り合いで今でも仲良くさせてもらっており、彼女には一昨年の11月祭で京都アカデメイアが主催した公開討論<大学と学問のこれから>にもパネリストの一人として参加してもらいました。

スカイプで議論した内容は「ノマドという生き方は誰にでも実践できるものなのか?」ということでした。これは以前から僕が気になっていたテーマだったので、最近のノマドブームに一役買い、自らがノマド的な生き方を実践してきた玉置さんがその点についてどう考えているのかを聞いてみたかったのです。すると彼女自身、この点についていろいろ思うところがあったらしく、なかなか話は盛り上がりました。そこで議論した内容と、その議論から僕なりに考えたことを簡単にまとめておきます。

そもそも「ノマド」という用語に馴染みのない人もいるかもしれません。ノマドとはもともと遊牧民を意味する英単語ですが、最近では「いつも決まった場所ではなく、カフェや公園、お客さんのオフィスなどでノートパソコン、スマートフォンなどを駆使しネットを介して場所を問わずに働くスタイル」が「ノマドワーキング」として知られるようになりました。その背景にはソーシャルメディアやクラウドなどのネットサービスの発達があります。最近では、ノマドワーカーの一人として人気のある安藤美冬さんが情熱大陸に取り上げられたり、日経新聞で連載特集記事が組まれるなど、ネット界隈やビジネス界を中心にしてその認知度が高まっています。

玉置沙由里さんは自身のブログで「露出社会」「創職時代」「パトロン制度」「合脳主義」「第八大陸」「没落エリート」など、様々にキャッチーな造語を作りながら、プロブロガーとしての生き方を実践してこられました。ノマドについては2年前の2010年時点で「都市ノマド」という概念を提唱し、こんなブログ記事を書いています。もともとはITジャーナリストの佐々木俊尚さんが2009年に『仕事するのにオフィスはいらない』という本の中で「ノマドワーキング」を提唱したのがきっかけだったと思います。

しかし、佐々木俊尚さんと80年代生まれの若者4人が対談したこの記事でも、佐々木さんが冒頭で述べておられますが、ノマドとは本当に誰でも実践できる生き方なのか?ノマドはノマドで結構厳しい生き方なのではないか?という疑問や批判も最近ではなされるようになってきているようです。数ヶ月前に、浅野さんが岡田斗司夫さんの講演会内容をまとめたブログ記事で彼の提唱する「3万円ビジネス」や「評価経済社会」について書いておられましたが、その記事を読んだ僕の正直な感想は「うーん、それって会社勤めよりも大変な生き方なのでは??」でした。(同じ疑問は「就活」をテーマに議論した第2回アカデメイアカフェでも出ていました)

例えば岡田さんは「就職のオワコン化」にたいして「3万円の仕事を10個、1万円の仕事を10個、無償の仕事を20個、マイナスの仕事を10個の計50個くらいの仕事をする」という3万円ビジネス的生き方を提案しておられるわけですが、はっきり言って3万円ぶんのビジネスを50個やるって相当なブラック企業並みの働きっぷりになるのではないでしょうか。浅野さんも自分自身それに近い生計の立て方をしていると言いつつ「50個というのは体力的にも時間的にも無理」と書いておられます。僕も同じ意見です。もちろん岡田さんが言いたいのは、すべての人に50個分の仕事をしろということではなく、それぞれの能力や希望所得に応じてできる範囲のことをやればいよい、ということなのでしょう。ただしそのことを考慮したとしても、やはり3万円ビジネスや評価経済社会的なワークスタイルで生計をずっと維持していける人はさほど多くないのが現状であると思います。(岡田さんが提案する50個の半分=25個の仕事→月収20万円を毎月継続的にこなしていくだけでも結構大変なのでは)

では、「ノマド的生き方がすべての人間に実践できるわけではない」とすると、それを実践できる人と実践できない人を分ける境界線は何でしょうか。ひとまず思いつくままに列挙すると、「コミュニケーション能力」「社交能力」「露出耐久力」「流動性への耐久性」といった能力・性格ではないでしょうか。

例えば玉置さんのユニークな造語のひとつに「露出社会」がありますが、ソーシャルメディアやスマートフォンを活用してノマド的生き方を実践していくためには、かなりの程度まで自分がどういった人間であり、普段何を考えている人間であるのかという個人情報をネット上に晒していくことが必要になります(ほとんど素性が知れないような人間にたいしては、ネット上でも仕事や寝る場所を提供しようという人は現れないでしょうから)。このような「露出耐久力」がある人にとっては、それはむしろ楽しいことなのかもしれませんが、そういった「露出」に抵抗を感じる人も多いはずです。「ダダ漏れ女子」で有名になったそらのさんがある日の放送をきっかけに叩かれまくった例などを見れば、露出への恐怖を感じる人も多いのではないでしょうか。

また「これからの時代は企業や組織に属さなくても、ソーシャルメディアなどの繋がりから仕事や居場所をGetできる!」という場合にも、見知らぬ人と積極的にネット上でやり取りをしたり、積極的に人脈を広げたり、人に会いに行ったりする社交性やフットワークの軽さが必要になります。企業や組織に属していれば、自由度は制限されるけれども、安定した人間関係のなかで仕事ができる(さほど社交能力がなくても仕事ができる)というメリットがあります。このあたりは人によってどちらを働きよいと感じるかが分かれるところでしょう。流動的な環境が好きか、固定化された環境が好きか、という違いかもしれません。

こういった「コミュニケーション能力」「社交能力」「露出耐久力」「流動性への耐久性」などの能力・性格を持っている人にとっては「ノマドワーキング」や「ノマド的生き方」は新しい可能性を切り開く希望に満ちた働き方・生き方かもしれませんが、そのような能力・性格を持たない人にとってはそれは今以上にしんどい・辛い働き方・生き方になるかもしれません。つまりは、「ノマドはごく一部の能力や性格をもつ特殊な人たちにしか実践できない生き方である」にもかかわらず、「これからの時代はノマド的な生き方が新しい!そうしないと生き残っていけないよ!」という規範意識(言説)が形成されてしまう現状があるのではないでしょうか。仮にこれを「タマキサユリ問題」と名づけておきます(笑)

僕はべつにノマド的-評価経済的な生き方を批判したいわけではありません。閉塞感ばかりが高まる昨今の日本社会において、そういった新しい自由な生き方が可能になったこと自体は良いことだと思いますし、そうした新しい生き方を実践する人たちがたくさん出てくることで、日本社会を良い・面白い方向に変えていってくれるのであればそれは歓迎すべきことだと考えています。ただし、僕が警戒的なのは「いまや会社や組織に依存した生き方はもう古い。そんなやり方ではもう生き残っていけない。これからはノマドの時代で、みんなノマド的な生き方・働き方を実践していくべきだ」という言説に対してです。あえて戦略的にやっておられるのかもしれませんが、例えばネットジャーナリストの佐々木俊尚さんや梅田望夫さんなどの発言からは、端々にそういった「べき論」を感じ取ってしまいます。最近はややスタンスを変えているようですが、少し前までの玉置さんの発言からも僕はそのような主張を読み取っていました。

そこで先日のスカイプではそのあたりの疑問をいろいろ玉置さんにぶつけて訊いていたのですが、予想以上に話が盛り上がったので、これは京都アカデメイア×玉置沙由里でust中継でラジオをしようよ!という話になりました。先日の記事でも書いたとおりですが、6月2日(土)の20時~ust中継をすることになりましたので、関心ある方はぜひご視聴ください。当日のコメント参加や事前の質問受付なども募集しております。よろしくお願いします。

<京都アカデメイア×玉置沙由里 ustream中継>
テーマ:ノマドと知のこれから~ブロガー玉置沙由里に聞く
日時:6月2日(土)20時~

URL:http://www.ustream.tv/channel/kyoaca
参考:玉置さんのブログtwitterfaceboook現代ビジネスでの連載プロフィール

大学は出たけれど

はじめまして。(ふ)です。
震災読書会で『「フクシマ」論』(開沼博)を読もうと企画したものです。
今回から僕もここに文章を書かせてもらう予定です。

僕は近畿大学文芸学部で日本文学を学んでいました。もともと近大付属高校の出身で高校時代によく高野文子などの漫画を読んでいて、大学に入ったら「文学を読むぞ!」と意気込んで文芸学部を選択したのでした。

それはまさに幸運な出会いでした。近畿大学文芸学部という場所はとても恵まれた教授陣、授業が盛りだくさんでまさか偶然入った学部でこのような体験ができるとは!と喜んでいました。

柄谷さんをよく知る先生から、昔は浅田さんが京大の学生を連れてきて近大生と京大生でよく議論をしたものだったと聞いたことがあります。それを聞いて僕はそんなことをぜひしてみたいなぁと思ったのですが“京大”と言う名前に怯えるばかりで(笑)実際に自分からそれを試してみようと動くことはありませんでした。

そして僕は大学をでた。普通に社会人となって一年目はミスばかりで怒られてばかりで辛い日々をおくっていた。しかしそれよりなにより、生きていてはりあいがない。
大学時代は読んだ本の感想を議論したり、小説家の講演会に行ったり、劇をみたりで毎日が刺激に溢れていた。いまは本の感想をだれかと話すにもそういった機会をなかなかもてない。どこかの読書会に参加させてもらいたいなぁとため息がでる毎日をおくっていたら、ネットで京都アカデメイアの存在を知りました。

どきどきする中、メールを送ると早速(も)さんと(む)さんからお返事がありとても嬉しくおもったのを記憶しています。

大西巨人は『神聖喜劇』のなかで(みつけられなかった)……
「学士様ならお嫁にやろうか」と呼ばれた時代から、「大学を出たけれど」(小津安二郎)という社会になりつつある(大意)
と書いていたとおもう。『神聖喜劇』の世界は、まだまだそれでも「大学出」は珍しくて軍隊独特の空気感に従わない主人公東堂などを指して「大学出はこれだから困る」ばりによく馬鹿にする言葉として使われていた。

「大学は出たけれど」この言葉は僕のなかでとても響きました。
いまだに大学時代に学んだ学問に興味があるが、1人ではモチベーションを維持して行くのが難しい。誰かとの議論の中に何かを発見することもある。どこかで「大学」と繋がっていたいという気持ちが依然として残っていました。

京アカの門を叩いてみて、本当によかったとおもっています。
まだまだしゃべったことない方もいるので、そのうちにぜひお話ができれば幸いです。
僕みたいな奴はきっとまだ沢山いるとおもうので、ぜひ京アカに連絡を。。。

唐突ですが、仙台の学生たちが中心になって行っている復興支援UST番組「IF I AM」がおもしろいです。京アカのUST放送の参考にもなるかもしれませんので、ぜひチェックを!個人的にはやっぱりしゃべっているひとにカメラが向けられた方が臨場感が出るのではないかとおもっています。

http://flat.kahoku.co.jp/u/volunteer16/Up2gJjldCKxbWnAu3vHP

最後に京都アカデメイアのイベントに興味はあるが遠方の方もいるとおもいます。
いつかSKYPEなどを使って座談会や読書会ができれば制約を突破できるのではないでしょか。雑談にも使えるとおもいます。もちろん新たな制約が出てきてしまうかもしれませんが。そんなわけで筆をおきます。これからもよろしくお願いします。

(ふ)

鬼と踊れ!蕎麦を食え!ぷにょ玉をすくえ!せつぶん! の巻

ヘヘイ(む)です。
ここのとこ(あ)氏の力作が続き、他スタッフがブログ書くのに気後れしている、との説を聞いたので、ハードルを下げるべくログインしました。

さてさて厳寒の日々が続く京都。
チャリに跨って市内を走行すると、冬の粒子のよーなものがぴしぴしと顔面に突き刺さり曲がり角を過ぎた皮膚を更に皹割るのでありますが、その京都の冬もモウ終わりだ! 節分が過ぎれば春なのや。
そして節分といえば、吉田神社節分祭。
吉田神社節分祭期間は、一年で最も京大(の周辺)が荒ぶる季節なのである。
東一条通りから吉田参道へずらーっと夜店が並んで、人がいっぱい出て、火が焚かれて、鬼がでるのだよ!
子どものころは鬼がこわくて泣いたもんだよ。

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節分祭に並ぶ屋台は毎年トレンドがあるようで、今年はご当地B級グルメブームを反映してか、「シロコロ」が大人気やった。シロコロばっかり10軒くらい見た気がする。去年現れた衝撃の「ラーメンバーガー」は消えていた…。代わりに「神戸生まれ チャイナバーガー」が登場しておりました。

あと今年突然流行り始めていたのが「ぷにょだますくい」。なんやそれ。

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文字通り、ぷにょぷにょした玉をすくうもののようでした。時代はつねに新たなものを生み出してよる。
ぷにょぷにょした玉をすくいたかったけど、3時間後くらいにはもうぷにょぷにょしたものを持て余し後悔するのであろうことが目に見えたのでやめた。
代わりに不健康そーなチョコバナナを買うた。

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さてさて参道を登ってゆくと、本殿のあたりはえらい数の人が、福豆を売る福娘の前に列を成し、豆を求めています。この豆、抽選券つきなんやけど、毎年当たったためしがない。

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境内のまんなかにはお焚き上げられ予定のお札の山。

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拝所には拝みたい人々がぎうぎう詰めで、賽銭を投げても賽銭箱に入ったのかあらぬ方向へ飛んでいったのか確認できぬほど。一応わたくしも賽銭(1円)を投げ、もちろん京アカの発展を祈……るのは忘れてた。

さて本殿まで登ってきたがここからが本番で、更に登ると菓祖神社がありまして、お菓子の神様を祀る素敵なこの神社では、素敵なことに豆茶とお菓子が振舞われております。更にその上が、斎場所大元宮。なんと八百万の神々が此処に集っているという、「ここに祈っといたら他の神社いらんやん!」的な反則神社。なのだが、なんと今年は大元宮の前に長蛇の列ができていて境内に入れないという有様! 毎年節分祭に通ってますがこんなのは初めてだ。やはり暗い世相の昨今、皆神頼みしかないのかなあ…と思うがいや単に金曜の夜だからであろう。不埒なわれわれはといえば、列に並ばず「遥拝」で済ませたのであった。

で、ここで折り返して下山するわけですが、われわれの本当の本番はこの下山であって、下山がてら、参道で売られている吉田日本酒を飲むのが定番なのであります。わたしは下戸なのだが、ここで売られている日本酒は下戸でもスイスイ飲めるほどおいしい。なんや澄んだお味がするのです。おかげで悲劇が起ったこともあります。(悲劇とは具体的には嘔吐のこと。) 山の寒さにぷるぷる震えながらも、日本酒を飲み米沢牛(と書かれて売られているがほんまは何牛か知らない)を食べ、河道屋の年越しそばを食べる。そう、旧暦の年越しやからね。だから今日から新春ぢゃよ!!
皆様、今年もよろしくお願いいたします。

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これがその蕎麦。

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……というようなことをしていたため、この後に予定されていた京アカスタッフ会議に大幅遅刻した。というか、今日は会議のことを書く予定だったのですが、ここまでで力尽きたので、誰かよろしくです。
ほな!皆さんお達者で!!

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ちなみに一夜明けて本日の吉田神社。嗚呼祭りの後。

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橋下徹×山口二郎討論(報道ステーションSUNDAY)を学問的に検討してみる

浅野です。

報道ステーションSUNDAYでの橋下徹×山口二郎討論の動画を学問的に検討してみます。以下は浅野個人の意見です。

「ほとんど中身のあることが話されていない」というのが動画を見た直後の感想であり、それからしばらく吟味してもその結論は変わりません。ですのでいかに中身がないかを示し、少しでも中身のある議論をしようというのがこの記事の目的です。

この記事を書き始める前にインターネット上でのその動画の分析をいくつか読んだのですが、私の結論とは大きく異なるものばかりでした。私は普段はまったくテレビを見ない生活をしているため、テレビリテラシー(テレビの特性や暗黙のルールを踏まえて視聴する能力)が足りないのかもしれません。

さて本題に入りましょう。

心理学的な検討

中身はさておき、橋下徹さんはしゃべりが達者だなぁと感じずにはいられません。その達者さの一部は社会心理学で分析できます。最初に過大な要求をしてから条件を引き下げると相手はお得な気分になって同意しやすくなるというlow-ballテクニックなどです。詳しくは「橋下徹の言論テクニックを解剖する」中島岳志‐マガジン9をご参照ください。

この社会心理学的な文脈で単純接触効果をはずすことはできません。人間には頻繁に見たりしたものを好む傾向があり、単に繰り返し接触するだけで好意が高まるのです。ということはこのようにテレビに出演して非常に多くの人に接触した橋下さんへの好意はそれだけでも高まるはずです。放送された時間の大部分は橋下さんがしゃべっている姿を映していたのですから。

この記事でも橋下さんに数多く言及し、動画にリンクを貼っているのだから、微々たるものとはいえ単純接触効果に寄与しているのではないかという見方もできますが、単純接触効果とよばれる現象があるということを周知すれば、その効果も緩和されると私は考えています。

政治学的な検討

橋下さんは山口さんよりも圧倒的に長い時間テレビに映っていただけでなく、そもそも画面上で真ん中に座っていました。あのような討論の場では司会者が真ん中に座るのが普通です。それをあえて橋下さんを真ん中に据えたテレビ局の方針には疑問が残ります。

テレビを始めとするメディアは第四の権力と呼ばれるほど大きな力を持っています。その力は他の三権(立法、行政、司法)のような何かを強制する力というよりもむしろ議題を設定し、世論を誘導する力です。橋下さんを取り上げるというだけでも一つの大きな決定であるのに、彼を画面の真ん中に配置するというのはかなりの優遇に思われます。

ここからは議論の中身に入ります。橋下さんは民主主義を多数決だと規定した上で、民主主義が最善の政体であると想定しているようです。しかし、民主主義のよさは多数決に至るまでに議論を尽くすことであるという考え方も有力ですし、どの制度が最善かという議論は昔からあって今も決着していません。せいぜいのところが「民主主義は最もマシな政体である」といったところでしょうし、その民主主義にしても直接民主制なのか間接民主制なのかなどいくつも議論はあります。

教育学的な検討

教育(education)の語源となったラテン語のeducereから考えて、教育には「能力を引き出す」という側面と「(無理やりにでも)導く」という側面があると言われます。今回の動画では子どもたちが先生の良し悪しを判断できると主張していた橋下さんですが、別のところでは「教育は2万%強制」だと述べていたそうです。仮にしつけに厳しい先生がいて、生徒たちがその先生をやめさせてほしいと言った場合は、橋下さんはどう判断するのでしょうか。教育には「引き出す」という側面と「強制する」という側面の両方があるのですから、それをいかに調整するかというのが腕の見せ所です。都合に合わせて両極端の立場を使い分けるのはまずいでしょう。

哲学・倫理学的な検討

先ほど教育のところで述べたことを哲学的な考えるなら、「自己決定は可能か」という問いになります。子どもたちが自分で受ける教育を決めるのか、それとも子どもたちの意に反してでも教育をされる必要があるのかという問いです。この問いに簡単に答えることはできませんが、人間は自分で決定して生まれてくるわけではないということを指摘しておきましょう。

「決定」は他者にも影響を及ぼすことがあります。子どもたちがある先生の授業を受けたくないと決定すれば、その先生は職を失います。それでも多数の子どもと保護者が求めればその先生を辞めさせるべきだというのが橋下さんの主張です。しかしこのような決定を安易に多数決で行ってよいものでしょうか。

この状況を極端な形で示したのが「眼球くじ」と呼ばれる例です。目のまったく見えない2人の人と両目が健全な1人の人がいるとして、その1人の目を一つずつ移植すれば2人の視力を回復することができるという例です。眼球に限らず一人の健康な人を殺せばたくさんの健全な臓器が手に入り、複数の人の命を救うことができるという考え方です。

この考え方には多くの人が直感的に反対するでしょう。もちろんこれは極端な例ですが、多数決によって教員を辞めさせる話にせよ、公務員の待遇を引き下げることにせよ、この構図が当てはまることは確かです。

自分の頭で考えた検討

率直に告白しますと、上の学問的な検討は自分の頭で考えたことに学問的な装いをもたせた記述です。そして私はどの学問の専門家でもありません。ここからは言い残したことを素朴に書きます。

教育基本条例の詳しい中身は結局わかりませんでした。何があっても教員を辞めさせることができないというのは変ですが、かといって子どもや保護者の多数決で安易に辞めさせられるのも問題です。学校現場で何か問題があればよく話し合い、場合によっては担当を交代するなどしてうまく調整できればよいと思います。

あの動画では教育の問題から話がそれて学者が役に立たないという話になっていました。これは本来の論点ではない上に、橋下さんの偏見が目立ちました。本を読むことの意義をあれほどはっきりと否定するのはあまりに乱暴です。本には誰かが経験したことが書いてあるのですから、本を読めば間接的ではあれ何らかの経験を知ることができます。また、複数の経験
に通じるような法則や説明なども本には書いてあります。それもまた有用なのではないでしょうか。

そして仮にも山口さんが教育基本条例を考えるための有益な知見を出せなかったとしても、それをもって学者が役に立たないと決めつけるのは早計です。一つの自治体の例で物を言うことをとがめていた橋下さんが、一人の例で物を言うのはおかしいです。

さらに、もし橋下さんにとって山口さんが無能に見えたとしたら、それは橋下さんの対応にもその原因があると思います。こんなことも知らないのかと挑発するなど、彼の姿勢は相手から何か有益なことを聞こうとする姿勢ではなく、相手をやっつけようとする姿勢でした。相手の知らないことがあれば簡単に説明すればいいだけの話ですし、そうして共によい解決を探ればいいだけの話です。

勝敗をつけるようなディベートをするのは勝手ですが、それをテレビという影響力を用いて大阪の人たちの生活がかかっている場で行うのはひどいです。政治討論が盛り上がっているということで興味をもって動画を見たのですが、建設的で実質的な議論はほとんどなされておらず残念でした。

吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだ

浅野です。

明日は京都アカデメイアの新企画アカデメイア・カフェで、「最近の大学ってどーなん!?」というテーマで議論します。

<新企画> アカデメイア・カフェ 第1回

その下準備として吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読みました。ごく簡単に内容を紹介します。

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

「大学とは何か」という書名にも表れていますように、大きな視野で大学について考えようというのが著者のスタンスです。

大学の歴史を簡単に図式化するなら、中世ヨーロッパでの大学の誕生(12~13世紀)→近代的な大学の普及(16世紀~)となります。中世的な大学は印刷術の普及などのために一度没落し、それに代わって国民国家に支えられた近代的な大学がヨーロッパから世界各地に広がったというのが大きな流れです。中世的な大学はキリスト教会と、近代的な大学は国民国家との緊張関係の中で独自の発達を遂げたと著者は分析します。

近代的な大学の普及の流れの中で、日本では明治時代に最初の大学ができました。日本の大学の特徴は、分野ごとにアメリカやドイツなど微妙に異なる各国のモデルを取り入れたことに加え、私塾や官立専門学校など多様な組織が大学の基盤となった点にあると著者は述べます。そしてそれを天皇のまなざしのもとで統一したのが戦前の大学であるとするなら、国民国家の影響力を残しつつも企業経営のもとに統一したのが戦後の大学だとまとめることができます(私立大学と国立大学とで趣きが異なったり、戦後といっても年代によって揺れ動いているという点も興味深いのですが、ここでは割愛します)。

新しい印刷革命とも言うべきインターネットの発展や国民国家の衰退を受けて、現在は大学にとって二度目の大きな転換点であり、エクセレンス(卓越性)を目指して英語という国際語を用いて各大学が結びつく新しい時代が来るだろうとの予言でこの本は締めくくられます。

多様な資料に基づき綿密に書かれていながら読みやすく、非常に有益な本だと思います。しかしながら、今後の展望に関しては違和感が残ります。

まずこの本自体が大学の先生によって岩波書店から出されたという確固たる事実があります。インターネットが大きな可能性を秘めていることに疑いはありませんが、既存の出版社や大学の権威もまだしばらくは続きそうです。

そして大学が変化するとして、その行き先がエクセレンス(卓越性)とは限りません。大学が緊張関係にある相手が教会→国民国家→資本主義と移ろいゆくのだという著者の主張には確かに説得力がありますが、教会や国民国家がそうしてきたように大学に一定の自由を与えることが、果たして資本主義にできるのでしょうか。そのような寛大さは資本主義にはないと私は思います。

それよりもむしろ、これまでは一握りのエリートのための組織であった大学が、広く一般の人々に開かれることを期待します。その点で1970年代や80年代から見られた自主講座が興味深いです。京都アカデメイアもその流れにあると言えます。

というわけで明日のアカデメイア・カフェをよろしくお願いします。