百木です。前回からに引き続いて、国際高等教育院問題について私的にコメントを頂いたことへの僕なりのレスポンスです。
3,意地悪な見方をすれば,この問題はこれまで「教養とは何か」という根本的な問いを避けてきたことのツケがまわってきたことを意味しているのではないか。
これは重要な指摘だと思います。実際に、これまで教養教育を担ってきた総合人間学部や人間・環境学研究科でも、「教養とは何か」「京大の教養教育の現状にどのような問題があり、どのようにそれを変えていくべきなのか」といった議論がなされてきたのかと言えば、否、と答えざるをえません。もちろんそれぞれの先生方の内では自分なりに考えるところがあったのかもしれません。しかし、そういった議論が異分野の先生方や院生・学生の間どうしで行われる機会はおそらくほとんどありませんでした。総人・人環は「異分野どうしの学際的交流」「人文科学、社会科学、自然科学を総合した人間学」を目指すという理念を掲げていますが、実際にはその実現はなかなかに難しかったと言わねばなりません。
これは他学部からよく批判されることですが、結局のところ総人・人環は、マニアックな研究をしている人たちがタコツボ的に寄せ集められた組織になっている、特定の分野を専門的に突き詰めることができず中途半端な研究・勉強にとどまってしまっている、正当な学問研究(アカデミズム)から逸れた異端なことばかりやっている、という状況が存在することは確かです。僕自身が総人を卒業して人環に所属している大学院生なのですが、そのような批判は甘んじて受け入れねばなりません(もちろん、そのような状況ばかりではなく、様々に生産的な研究や教育が行われていることもまた確かなのですが)。
もちろん、「異分野どうしの学際的交流」「人文・社会・自然科学の総合」「教養の統一的定義の設定」など簡単に実現できるものではありません。少しずつ、地道で迂遠な対話を積み重ねながら、じっくりと時間をかけて実現していくしかないものです。そういった壮大なテーマについての成果を短期間で出せといってもどだい無理というものです。しかし他方で、そのような努力をこれまでの総人・人環が少しずつでも積み重ねてこられたかといえば、胸をはって「Yes」と答えるのも難しいというのが本音のところです。京都アカデメイアもそういった部分を補うことができればと思って、これまで様々な活動をしてきましたが、やはり畑違いの人間が集まって何かを生み出そうとすることは本当に難しい。稀にいくつか上手くいったこともありますが、失敗も多々あります。
先ほどの先生は「総人が立ち上がった当初は、理系の先生と文系の先生で一緒に議論して何かやろうという企画もあったのだけれど、結局、お互いにうまく話が噛み合わず、数年でその企画も流れてしまった。それ以後は、ほとんどそういった試みは有効的になされてこなかった」とも仰っておられました。外の学部から見れば、そういった総人・人環の状況がいかにも中途半端で非効率的なものに見え、今回の国際高等教育院構想を良い機会として、総人・人環を実質的に解体させ、新しい組織でリスタートさせよう、という意見が生まれてくるのも無理はないな、という気もします。
そして大変皮肉なことに、総人・人環の教員と学生はこの危機に際して初めて、異分野の者どうしが一箇所に集まって同じテーマについて議論をし、それぞれの見地から積極的に意見を交わすという理想的状況が出現しています(笑)国際高等教育院構想のどこが間違っているのか、教養教育とはどのようなものであるべきなのか、京都大学の「自由な学風」の良さとは何なのか、といった論点について、物理学の先生や社会学の先生や化学の先生や哲学の先生などが一箇所に集まって熱く語るという光景を、僕は京都大学に入学して以来、初めて目にしました。国際高等教育院構想に反対する先生方の演説は、いつもの講義のときの話しぶりよりもずっと熱がこもっていて、聞いていて大変に面白いものでした。こういった議論をもっと早くに先生方から聞ければ良かったのになぁ、と思いました。
今やもう時すでに遅し、ということなのかもしれません。(昨日12月18日の部局長会議において国際高等教育院構想が正式に承認されたとのことです。)しかし、折角こうして始まった「教養」をめぐる活発な議論が、このまま消えていってしまうのでは寂しいなと思います。また、このまま再び専門分野を横断した議論が沈静化していってしまうのならば、所詮、総人・人環とはその程度の学部であったのだし、実質的に解体されていったとしても仕方がないのかなという気もします。(とはいえ、来年からいきなり総人・人環という学部が消えてなくなるということはないそうです。「来年度からも表面上は何も変わらない」という言葉をいろんな先生の口から散々聞きました。)動画のなかで多賀先生が仰っているように、来年度からも表面上は何事も変わらないように見えながら、少しずつ「自由」や「寛容」の空気が蝕まれていき、十年も経つと京大の雰囲気がすっかり変わってしまっている、というのは大いにありそうなことです。
なんだか総人・人環の話ばかりになってしまいましたが、この状況はおそらく今の京都大学全体に当てはまる問題ではないかと僕は思うのです。やや大げさに言えば、これは日本の現在の大学やアカデミズムが抱える病を象徴する問題ではないかとさえ思います。残念ながら病がすぐに治癒する特効薬はありません。病の進行はすでに身体の相当広い範囲にまで及んでいるように見えます。この瀕死の病人を助けることができるのかどうかはわかりませんが、微かな期待を込めて、「教養」や「大学」についての議論を僕たちがこれからもいろんな場所で続けていく以外に、この病人のためにしてやれることはほとんどないのではないか。
僕自身も日々の生活のなかでそれなりに色々とやらなければならないことがあり、この問題にばかりに時間を割いていくわけにもいきません。これからもささやかながら、無理のない範囲で自分にできることをやっていくつもりです。日本の政治状況や社会状況についてもそうですが、あまり過剰に希望を持ちすぎても絶望しすぎても仕方ないのだと思います。京都アカデメイアでも、これまでにやってきた活動の蓄積を活かしながら、「教養」や「大学」について議論をする場を用意するぐらいのことならできるのかなと考えています。そのような場を用意できた際には、いろんな人たちと「教養」や「大学」についての議論を交わすことができれば幸いです。それこそがまさにこの大学の「教養」の一部となるでしょうから。
※「教育院」設置決まる 京大 異例、評議会で多数決
京都新聞の記事です。教育研究評議会の決定が多数決でなされるのは異例の事態とのこと。実際の教育活動が始まるのは2014年度からだそうです。
※京都アカデメイアの掲示板に「教養ってなんだろう」というスレッドを立てました。すでに複数人の方にそれぞれの「教養」観について書き込んでもらっています。ぜひ皆さんも「教養」についての議論に参加してみてください。仮名OKです。
http://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/index.cgi?rm=mode4&menu=bbs&id=956
※いくつかのブログでもこのブログと同趣旨の意見を見つけました。
京都大学における「国際高等教育院」構想、反対側への疑問(その2)-enomoton2011の日記
こちらの記事では、文科省-総長側は曲がりなりにも教養について具体的な定義を与えているにもかかわらず、人環教員有志ではそのような定義を与えていないではないか、手続き面で反論するのはわかるが、大きな理念の面では「京大の自由な学風」といった従来的な漠然とした概念を持ち出すにとどまり、積極的な反論ができていないのではないか、という指摘がなされています。
国際高等教育院問題に関する個人的要望のまとめ-仄暗い夢の底
こちらの記事でも基本的には総長の説明責任不足などを批判しつつ、同時に人環の先生方もまた「教養」や「自由の学風」についてどのように考えているのかを説明できていないのではないか、という指摘がなされています。
人環の先生方がこういった疑問に対してこれからどのように答えていかれるのか、あるいは何も答えないのか、動向を見守ってきたいです。それにしてもどちらのブログも相当な力作ですね。
※最後に、参考として人環に所属しておられる佐伯啓思先生が古典と大学改革について書かれたエッセイのリンクを貼っておきます。今回の大学改革問題に深く関わる良い文章だと感じましたので。関心ある方はどうぞ。
【日の蔭りの中で】京都大学教授・佐伯啓思 古典軽視 大学改革の弊害
http://sankei.jp.msn.com/life/news/121119/edc12111903290000-n1.htm