[批評]映画『トータル・リコール』から考える――あなたが感じる現実は本当に「現実」か

大窪善人です。

百木氏から、大窪も何か投稿してはどうかとリクエストをいただいたので、文章を寄せます。

今回は、8月10日より放映されている映画『トータル・リコール』についてお話ししようと思います。すでご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、まだ見ていない方はネタバレにご注意を。

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原作は、SF作家、フィリップ・K・ディック、「追憶売ります」(1966年)で、1990年に映画化され大ヒットした。今作は、そのリメイクバージョンで、監督は『ダイ・ハード4.0』を撮ったレン・ワイズマンである。もちろん、全編に渡って展開するキレのあるアクションも大きな見どころの一つだが、ここでは作品のコンセプトに注目して、思考を走らせてみたい。

リメイクによる大きな違いはまず舞台設定にある。前作は火星を中心にした物語だったが、今作では地球が舞台だ。だが、その舞台装置がちょっとおもしろい。近未来の地球は化学戦争によって、ほとんどの地域は人類が住めない場所になってしまっていた。やがて世界は再編され、ブリテン連邦/UFBと地球の反対側のオーストラリア大陸のコロニーと呼ばれる場所に二分される。コロニーの市民はUFBのための労働力として、「フォール」とよばれる巨大地底エレベータを使って二つの場所を行き来する。そして、コロニーでは自由と独立を求めてレジスタンス活動が行われている。これに対して、UFBはロボット警官(シンセティック)の配備を進めていく。

主人公のダグことダグラス・クエイド(コリン・ファレル)はコロニーの住人であり、退屈な毎日を過ごす労働者である(彼の職場はシンセティック製造工場である!)。だが、一方で、愛する妻(ローリー/ケイト・ベッキンセール)とともに、それなりの生活を送ってもいる。しかし、彼は繰り返し見る悪夢に悩まされている。そんなある日、クエイドはリコール社を訪れる。そこに行けば、自分のなりたい自分になれる夢を見ることができると聞いたからだ。そこで彼はUBFに立ち向かうレジスタンスという記憶を購入する。だが、記憶を注入しようとしたまさにそのとき、完全武装したUFBの警官隊が彼を包囲してしまう。

今作の基本設定は前作、あるいは原作とも異なるオリジナルのアイデアである。UFBとコロニーという隔絶した二つの地域が現代の格差社会の暗喩であることはほとんど明らかだろう。ここには現在のアメリカ社会の状況の反映が刻印されているとみることができるかもしれない。UFBとコロニーとを隔てる圧倒的な空間的距離は、二つの地域に住む市民同士の、ほとんど流動化不可能な階層的落差の象徴であるように思われた。さらに、そうした各自のポジションは能力ではなく、むしろ変更不可能な属性(UFB/コロニー市民)において定められているのである。

ところで、ハリウッド映画の成功にはある法則があるという。それはアメリカ人の夢、アメリカン・ドリームを描いた作品であることだ。ここでいうアメリカ人の夢とは、1.社会のはしごを上ること、2.平等な機会が与えられていること、3.新天地で成功すること、4.そうした結果として自分の家をもち幸せな家庭を築くことである(『ハリウッドはなぜ強いか』、赤木昭夫、筑摩書房、2003年より)。ハリウッド映画はアメリカン・ドリームを描き、売ることに力を入れてきた(同掲)。一方、この映画は、さしあたっては、そうしたアメリカ人の理想が現実化されることに対する圧倒的な困難を基礎においている、ということができる。

しかしながら、この映画において、ここで問題にしたい点は次のようなことだ。それは、「なぜ人は、現実を、現実それ自体のみによって肯定することができないのか」といういささか観念めいた問いについてである。以下ではこの問題に立ち入ってみたい。

クエイドは退屈な毎日を過ごす労働者である。彼はある日、自分がレジスタンスであるという夢を買う。しかし、彼が現実だと思っていた記憶は埋め込まれた偽の記憶であり、レジスタンスである記憶の方が本当の記憶だということが、しだいに明かされる。彼は、もとはUFBの幹部であったが、反逆し、レジスタンスに寝返っていたのである。しかし、その後、捕らえられ、偽の記憶を植えつけ生活させられていた。時折見る悪夢は、抑圧された過去の記憶がフラッシュバックしたものだったのだ。

ここで重要な役割を果たしているのは「夢」である。映画の中では、クエイドが見るレジスタンスであるという夢が、真実を媒介する糸口になっているのだ。しかし、どうして「夢」がそのような作用を果たすことができるのだろうか。この問いに答えるためには、いささか遠回りに見えるかもしれないが、ニーチェの夢についての考察が糸口になろう。通常、われわれは現実と夢とを比較した場合、前者の方により重要性があると考えている。たしかに「夢想」や「夢見がち」といった言葉はむしろ否定的なニュアンスを含んでいる。あるいは、より根本的にいえば、生きるということは、目覚めている状態の、この現実を生きることにほかならないといわれる。しかし、ニーチェはこの見方に対してまったく逆の考えを示しているのである。ニーチェは、仮像に対する(われわれの)熱烈なあこがれ、憧憬から、次のような命題を提示している。

「真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快楽にみちた仮像を必要とするという仮説である。仮像のうちに完全にとらえられており、また仮像から成り立っているわれわれ人間は、この根源的一者のつくり出した仮像を、真実には存在しないもの、すなわち、時間・空間・因果律のうちにおける持続的な生成として、ことばをかえていえば、経験的な現実として感じざるを得ない仕組みになっている。」(『悲劇の誕生』、岩波書店、1966年、50頁より)

ニーチェが言うように、仮に人間を根源的一者(=神)の被造物として捉えるとするならば、人間は神にとっての仮像ということになるだろう。あくまでも実在は神の方にあるからだ。しかし、人間の方から見れば、今度は逆に、神の方こそが幻影、あるいは仮像に感ぜられてくる。ここでは先の考えとは真逆の転倒がある。この考察を再度、夢と現実との関係として構成しなおすならば、「現実」につ
いての認識は同時に、「夢」に依存してもいるということである。そして、「夢」は仮像としての「現実」の仮像という限りで、いわば、「仮像の仮像」(同掲)なのだ。このような前提をおいて考えると、このようにいうことができる。つまり、「夢」が、「真実」、あるいは「現実」を媒介する糸口になっているのは、「夢」が「現実」のもう一つの側面をあらわしているからだと。

最後にクエイドと彼の同士であるメリーナ(ジェシカ・ビール)の二人がキスを交わす(正確には交わそうとする直前の)シーンで映画は終わる。しかし、その直前に、カメラは一瞬、リコール社の広告看板を映し出す。観客としての私は、ここで再びあの疑念へと引き戻されることになる。つまり、本当はレジスタンスであるというこの現実もまた夢なのではないのか、という。

「たとえどんなに説得力があったとしても、所詮、幻想は幻想でしかない。すくなくとも、客観的には。しかし、主観的には――まったく正反対だ。」(『トータル・リコール』、大森望編、ハヤカワ文庫、13頁)

大窪善人

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