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第9回京都アカデメイア読書会のお知らせ

百木です。
次回京都アカデメイア読書会のお知らせです。

今回の課題テキストは加藤典洋『敗戦後論』(ちくま学芸文庫)です。ここに収められている「敗戦後論」というエッセイを読み、日本の「敗戦後」体制について皆で議論できればと思います。
近年、日米安保法制問題や沖縄米軍基地問題、改憲論議など、日本の(敗)戦後体制のあり方が改めて議論の俎上にのぼっています。これらはいずれも深刻かつ喫緊の課題ですが、そういうときだからこそ、改めて日本の「敗戦後」についてじっくり議論する機会を設けたいと考えました。

白井聡『永続敗戦論』矢部宏治『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』、加藤典洋『アメリカの影』『戦後入門』などの著作ともあわせて議論できればと思っています。
最低限、「敗戦後論」のテキストだけ読んできてもらえれば、どなたでも参加可能ですので、ご都合とご関心の合う方はお気軽にご参加ください。

<第9回京都アカデメイア読書会>
日時:8月21日(日)14時〜17時
場所:GACCOH (京阪出町柳駅から徒歩5分)
課題テキスト:加藤典洋『敗戦後論』(ちくま学芸文庫)「敗戦後論」(9~103頁) 

※別版のものでもOKです。
※参加費は無料ですが、場所代を数百円程度カンパしていただきます。
※当日参加も歓迎ですが、事前に参加人数を把握するため、参加希望の方はkyotoacademeia@gmail.comまたは百木までご連絡いただければ幸いです。

敗戦後論

【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅳ期)】

今日は第Ⅳ期「ヨハネ黙示録」の初回。キリスト教学がご専門の波勢さんがイントロダクションのレクチャーをして下さいました。ヨハネ黙示録についてはあらゆる点で分からなかいことだらけで諸説入り乱れているということがたいへんよくわかるレクチャーでした。そして今日の参加者は何と12人!最多記録を塗り替えました。次回からいよいよ本文の輪読に入りたいと思います。次回は来週7月23日(土)10:00~@京大本部時計台下サロンです。どなたでもご参加ください。飛び入り参加・飛び石参加歓迎です!

7月29日 第10回Academeia・cafe「やらない善か、やる偽善か」を開催します。

7月29日金曜日の午後8時から、カモガワラボさんで第10回Academeia・cafe「やらない善か、やる偽善か」を開催します。

古来より善とは倫理学の最も重要なテーマであり、多くの人が善について考えてきました。また近年では震災ボランティアの普及、増加を通して善と偽善という問題は話題になっています。古くて新しいこのテーマについて一度ざっくばらんにお話ししてみませんか?

〜Academeia・cafeとは〜

Academeia・cafeとは日常の中に眠る気になる話題に対して、少しだけ掘り下げて考えてみようという試みです。哲学カフェという名前で全国各地で幅広いテーマで行われています。京都アカデメイアでも学びの場の提供の一環としてAcademeia・cafeを開催しています。実践哲学的試みですが前提知識は一切不要、誰にでも開かれた場を提供していきたいと考えています。

<第10回アカデメイアカフェ>
日時:2016年7月29日(金)午後8時~9時半頃
会場:カモガワラボ(〒604-0000 京都府京都市上京区駒之町, 京都府京都市上京区中町通丸太町下がる駒之町561-4, 河原町スカイマンション 105、京阪神宮丸太町駅から河原町通りへ徒歩5分)
参加方法:ドリンク一杯で参加できます。途中入退出も自由です。当日 直接会場までお越しください。
主催・協力:NPO法人京都アカデメイア/カモガワラボ

 

 

【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅲ期):継承といふこと】

今日は各方面の学会が開催されている関係で、聖書読書会には不参加の方が多く、私と久しぶりにいらしたTさんの二人のみ。ルター『キリスト者の自由』の続きを読む。読んでいるうちに、本書タイトルの「自由」がいろんな意味合いで使われていることに気付く。ある場合には律法の拘束からの自由、あるときは信仰によって得られる原罪の重荷からの自由、あるときはAもBも選べるという自由意志における自由、ある場合には「自発性」という意味での自由。これら多様な意味の「自由」がルターの中でどのように関連しているのかを見極めるのがこの本の読み方の要諦なのでは、と思った。要再読。
また、今日はいったん信仰によって救いを得た人が隣人に対してどう振る舞うべきかということについて述べた箇所に入った。こういう箇所にくるといつも疑問に思うのは、自分の信仰を「布教」したいという願望とはそもそも人間のいかなる願望なのか、ということ。もちろん鎮守の森の神道のように布教しない宗教もあるが、救済宗教は基本的に布教する。素朴に考えれば「救済」という恵みを体験した人間が、かつての自分と同種の苦悩を抱える他者にもそれを分かち合ってほしい、という動機から布教するのだという説明にはなろう。
しかし、人間はどんな場合にも自分の体験した恵みを他にも分かち与えたいと思うわけではない。分かりやすい例で言えば、ビジネスチャンスなどは、他に教えることで自分の利益の分け前が減る可能性があるから、しばしば独占される。また、以前プロの格闘家の先輩が「自分が現役でいる間は、たとえ弟子にでも得意技のコツの本当の大事な部分までは詳しく教えられないが、引退すれば遠慮なく教えられる」と言っておられた。勝負の世界だから、これも当然のことと思う。また、自分が競技者ではなくても、心理的な抵抗(ライバル心)からよきものを共有できないこともあるだろう。あるピアノの先生が「よきピアノの教師になる必須の条件は、自分の弟子が自分よりうまくなることを心から喜べるようになることです。自分もこの壁を乗り越えるのが本当に大変だった」という意味のことを書いておられるのを読んで、うーんそれはいかにも大変そうだ、と思った覚えがある。
また、表向きは他者に恵みを分かち与えるため、とは言いながら、実際にはそれが権力欲・支配欲の発露である場合もある。その際、自分が選んだ道の正当性に密かに疑問を持っているときほど、その不安ゆえに、他者にもそれを受け入れることを強圧的に要求することになる。納得のいかないまま家業を継承し人が、わが子に同じようにそれを踏襲させようとする場合のように。もっとひどいのは、本音は金銭欲なのに「この良い商品をみんなに知ってもらってみんなに幸せになってもらいたくて」と言って子ネズミを増やそうとするマルチ商法。あれでも言ってる本人は案外それを本気で言ってると信じてそうなところが怖い。
宗教の布教の際にも、布教を本心ではためらうこうした気持ちや、自己正当化・権力欲(さらには金銭欲)が幾分かの割合で混ざっていること(あるいはそれが大部分であること)は多いと思われる。最初はそうでなかったところにこうしたものが入り込んでくるようになることもあるだろう。とはいえ、そうした諸々のものとは区別される、「自らが経験した恵みを分かち与えたい」「分かち合わねばならない」という純粋な使命感、布教願望というものがあると思われる。そうでなくては命を賭してまで布教する人々の存在が説明できないだろう。その願望とは何か?
それがわからなくていつもグルグル回っているわけだが、今日はルターを読みながら、学生時代にやっていたスポーツでの「技の継承」を願う気持ちが(むろん強度はまるで違うが)少しそれに近いのかもしれない、とフト思った。人間が「とほうもない恵み」と思える経験を享受した場合、「自分のところで絶やさずに継承してゆく責務がある」という気持ちになるのではなかろうか。その気持ちがどこから来るのかはこれまた難しい問題だが、布教の願望がそれに通じるところがあるのは確かだろう。
精神分析では、分析家の養成のための分析(教育分析)と患者の治療の分析に本質的な区別を設けない。言い換えれば、分析家となるためには患者として分析を体験しなくてはならない。以前に親鸞にとっての法然との出会いやペテロにとってのイエスとの出会いを「スーと近寄って来た渡し船にひょいと乗る」ような体験なのではないかと書いたが、それについて知人がラカンの分析家養成の仕組みであった「パス」も「渡し船」と同じ語だと教えてくれた。とすれば、布教も精神分析も、自分が渡し船に乗って向こう側に渡ったのち、同じ経験を伝承すべく今度は船頭になって向こう岸から元の岸へと戻って来るというイメージで捉えられるのかもしれない。親鸞の「還相廻向」も吉本隆明のように「知識人と大衆」という図式で考えるより、「船に乗って向こうに渡った人間が今度は船頭になって人を渡しにくる」というイメージで捉えるほうがよいのではないか。
などなど、そんなことを取り留めもなく考えた回でした。ルターは残りほんのわずかなので、あと1回で終了するのは確実です。次回の開催日はまだ確定していません。決まり次第、関係者諸兄姉にご連絡さしあげます。ルターが終わったらいよいよ第Ⅳ期。新約聖書「ヨハネ黙示録」です。

第8回京都アカデメイア読書会のお知らせ

百木です。

次回の京都アカデメイア読書会についてなのですが、7月9日(土)14時から開催させていただくことになりました。前回の読書会では6月25日(土)14時からと伝えていたのですが、百木の都合で7月9日に延期させていただくことになりました。勝手を言ってすいませんが、よろしくお願いします。

第8回京都アカデメイア読書会
課題本:ハンナ・アーレント『人間の条件』第4〜6章
日時:7月9日(土)14時〜17時
場所:GACCOH
※参加費は無料ですが、場所代を数百円程度カンパしていただきます。
※初心者向けの解説もついていますので、どなたでもお気軽にご参加ください。

 前回読書会のブログ

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【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅲ期)】

今日は新規参加の方2人を含め6人参加でした。新しくいらして下さった方には専門知識をお持ちの方もおられ、いろいろと勉強になった。驚いたのは、カトリックのなかには、世俗と区別された信仰に固有の領域などない、なぜならこの世界に住む人々はすべて救済の可能性の対象であり、その意味で信仰に関係ない領域など定義上存在しないから、という考えや、別の宗教の信者であっても(本人にはその自覚がなくとも)潜在的なキリスト者として終末において救われるよう神が定めている、という考えなどがあるらしいということ。普遍宗教ならではの責任感がそのような教義を産むのだろうか、と思った。また、カルヴァンの予定説は、少なくとも信者に対しては「もう救いが予定されているから大丈夫だよ」という慰めのために用いられたのであり、ウェーバーのように予定説がもたらした不安の側面を強調して資本主義の精神に結びつける議論は間違っているという説も聞けた。その他、前回に引き続きbelieve とbelieve in 、種子の比喩、回心体験、宗教体験と恋愛、信仰の有無とは何ぞ、聖霊と自由意志、遠藤周作、親鸞、鈴木大拙、臨済禅と曹洞禅、エリート凡夫など、話題は多岐に及ぶ。古代語に詳しい面子もそろってきて、京アカ聖書読書会はなかなか盛り上がって参りました。あと1回か2回ぐらいでルターは終わりそうです。次回は6月25日(土)10:00~@京大本部時計台下サロン。

ハンナ・アーレント×ハンス・ヨーナス講座@GACCOH レポート

百木です。GACCOHのアーレント×ヨーナス講座第4回が無事終了しました。昨日は多くの方に参加いただけて、議論も盛り上がったので良かったです。締めくくりにふさわしい感じでした。今回は「責任」がテーマだったのですが、アーレントとヨーナスの思想の違いがよく出て、面白い議論になったのではと思います。

特に昨日は、ヨーナスの「弱い神」、神が人間を助けるのではなく、人間が神を助けるというアイデアが面白くて印象的でした。アウシュビッツ後にどのような道徳・倫理・責任を語るか、というのが昨日のテーマでしたが、アーレントが決して神に頼ろうとしなかったのに対して、ヨーナスは最後までユダヤの神への信仰を捨てず、それを救い出すための哲学を構想したのだなと。

4回の講座を通してヨーナス哲学の概要を知ることができ、アーレントとヨーナスの共通した問題意識と、それに対するそれぞれの応答の違いを知ることができて、僕自身も大変勉強になりました。一緒に講師を務めてくれた戸谷洋志さんに感謝です。
今後、戸谷さんと一緒に学術的にも何らか成果を出していければいいねという話もしています。アーレントとヨーナスの比較研究は海外ではいくつか先行研究があるらしいのですが、日本ではまだ本格的に研究されていないと思うので、そこを切り開いていけたらいいなと。

こういう場を設けていただいたGACCOHさんにも感謝です。また次も何かやりましょう。


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第6回京都アカデメイア読書会(『失敗の本質』)を開催しました。

百木です。
4月24日(日)にGACCOHさんを借りて第6回京都アカデメイア読書会を開催しました。
課題本は『失敗の本質――日本軍の組織論的研究』。太平洋戦争における日本軍の組織的構造の問題点を詳しく研究した一冊です。経営学の分野での必読書としても知られています。

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参加者は6名とやや少なめでしたが、若手研究者、非常勤講師、大学院生、社会人、大学生(学部生)といろんなメンツが揃って議論は盛り上がりました。
あいまいな戦略目的、主観的で帰納的な戦略策定、空気の支配、進化のない戦略オプション、アンバランスな戦略技術体系など、現在の日本組織の構造にも通ずる問題が次々と列挙されていて、あの戦争のときと今とでは根本的なところは何も変わっていないよね、という感想がしきりに聞かれました。とくに会社や大学などの組織で働いたことがある人間にとっては、どれもこれも「あるある」なことばかりだったようです。某先生が大学のゼミでこの本を読ませたところ、学生たちから「これほんとバイトの現場で起こってることそのままっす」みたいな感想がたくさん出てきたとか。

そのうえで僕が個人的に気になったのは、このような日本組織の構造的欠陥が、日本が西洋近代に「遅れ」ていることから来るものなのか、あるいはそもそも日本が西洋近代とは根本的に異なった文化・価値観を抱えていることから来るものなのか、という問題です。前者は丸山眞男に代表される考え方で、この本の筆者たちも基本的にそのような考え方に立っているものと思われますが、しかしそのような図式でもはや不十分なのではないか、と最近は感じています。この本を読んでいると、戦後70年間のあいだの日本組織のあまりの変わらなさぶりに、むしろ西洋文明と日本文化は相当に異なった基盤のうえに立っていて、その違いは容易には埋まらない(少なくとも百年や二百年レベルでは埋まらない)と捉えておいたほうがよいのではないかと。こうした捉え方は、一歩間違えると、日本特殊論、あるいは歪んだ日本礼賛論になりかねないので気をつけねばならないのですが、150年程度の近代化の歴史(来年でちょうど明治維新150年ですね)では簡単に埋まらない西洋文明と日本文化の間の溝とは何なのか、それぞれの文明・文化がどのような基盤のうえに立脚しているのかを考えてみるというのも、なかなか面白い課題ではないでしょうか。

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ちょうど読書会の日の日経新聞に、『失敗の本質』で書かれているのとほぼおなじ内容の記事が掲載されていました。
検証なき国は廃れる 2016/4/24付日本経済新聞 朝刊
会員限定の記事なのですが、無料登録で読めるので関心ある方にはおすすめです。

この記事では、2003年以降のイラク戦争を米英日各国がどのように検証・総括したかが書かれています。この戦争は、イラクが大量破壊兵器を保有しているとして米国が中心となって攻撃を始めたものですが、結果的にそのような大量破壊兵器は見つからず、「大義なき戦争」であることが明らかになってしまった。当時のブッシュ大統領は、フセイン独裁体制の打倒と民主化の実現に戦争の目的をスライドさせようとしましたが、このような「大義なき戦争」に対して世界中から非難が集まりました。
これに対して、米政府はイラク戦争のみならずアフガニスタン戦争なども含めて911テロ後の対応について検証した600ページにもわたる報告書を約10年前に提出しています。また米政府に追従した英国でも、09年に設けた独立調査委員会が8年越しの検証を行い、今年6月にも結果を公表する予定とのこと。この検証作業ではブレア氏をはじめ、当時の要人や軍幹部など百数十人にのぼる関係者にインタビューが行われたということです。
それに比べて、日本ではどうか。英政府と同じく、当時の小泉政権も米国のイラク戦争を支持し、イラク特措法を成立させて、後方支援という名の兵站業務に自衛隊を派兵しました。しかしこれに対する本格的な検証作業はいまだ行われていない。支持を決めた経緯について、民主党政権の指示を受けた外務省が調査し、2012年12月に結果をまとめたそうですが、発表されたのはたった4ページの要約だけ。これではまともな「失敗の検証」作業になっていないのは明らかです。

これについてこの記事では次のようにまとめられています。

 日本はなぜか、失敗を深く分析し、次につなげるのが苦手だ。「小切手外交」とやゆされた1991年の湾岸戦争、安保理常任理事国入りに失敗した05年の国連外交、小泉純一郎首相による2度の北朝鮮訪問。外交だけでも、検証すべきできごとはたくさんある。
 だが、元幹部を含めた複数の外務省関係者によると、これらを正式に調べ、総括したことはないという。多くの人が原因にあげるのが次の2点だ。

 *日本人の性格上、失敗の責任者を特定し、批判するのを好まない。
 *これからも同じ組織で働く上司や同僚の責任を追及し、恨まれたくないという心理がみなに働く。

 同省にかぎらない。日本の組織には多かれ少なかれ、こうした「ムラ的」な風土がある。ならば、ときには第三者が必要な検証をしていくしかない。国家の場合、その役割をになうべきなのは立法府である。

失敗の責任を特定の個人に帰することを嫌い、「一億総懺悔」といった風に責任の所在を曖昧にしてしまう傾向、誰が最終決断をしたのか不明確なままに「空気の支配」によって重大な決断がなされてしまい、後からそれに対して誰も責任を取ろうとしない事態、こうした状況はどうやら容易に改まることはなさそうです。東日本大震災にともなう福島原発事故や、最近の原発再稼動においても、そのような問題の構造は引き継がれたままです。こうした組織的欠陥を改めていく地道な努力を続けると同時に、こうした体質が容易に変化することはないことを前提としてどのような社会・組織をデザインしていくのが望ましいのか、西洋文明と日本文化の根本的な差異を探りつつ、考えていく必要があるのかなといったことを、帰りの電車のなかでつらつらと考えていました。

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京都アカデメイア読書会では、今後も「(1)これまで読もうと思いつつなかなか読めていなかった古典・重要テキストを読む」「(2)課題本を通じて、現在の日本社会が置かれている状況を考える」という二つをテーマにして、月一ペースでいろんな本を読んでいければと考えています。皆様もご関心とご都合のあうタイミングがあれば、ぜひ読書会にご参加ください。よろしくお願いします。

4月29日 第15回 批評鍋 國分功一郎『暇と退屈の倫理学』を開催します。 

 
第15回 「批評鍋」開催決定!
今回は國分功一郎さんの『暇と退屈の倫理学』を取り上げます。

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京アカ「批評鍋」とは、鍋を囲みながら毎回一冊の本を取り上げてその感想などを言い合うスタイルのイベントです。
食事をしながらリラックスした雰囲気で輪読してみませんか。

今回はGACCOHさんのスペースで開催する予定です!
『暇と退屈の倫理学』、はじめての人も、もう一度読みたい人も、5月病を先取りしたいあなたも、ぜひこの機会に!

開催日時:4月29日(金、祝日)午後7時スタート
会場:京都出町柳GACCOH
(京阪出町柳駅から徒歩5分)
※参加費無料。事前予約不要ですが、参加希望の方は、人数の把握のため kyotoacademeia@gmail.com までご連絡いただけますとありがたいです。

過去の批評鍋イベントはこちらからご覧いただけます。
http://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/blog/?cat=20

これまでに取り上げた本一覧
http://www.kyoto-academeia.sakura.ne.jp/index.cgi?rm=mode2&menu=nabe