中山元『フーコー入門』:「美容整形は何が問題なのか」問題に迫る

大窪善人
 




(1970年01月01日)

 
北条かやさんの『整形した女は幸せになっているのか』を取り上げた先日の「批評鍋」では、参加者から「美容整形は何が問題なのか」という疑問が共通して出されました。つまり、一人ひとりが自分の意思で望んで整形しているなら、そこには何も問題ないのではないか、ということです。では美容整形はOKなのか。

しかし、ここにはもう一段深い問いが含まれているように思われます。それを理解するには、フーコーの議論が手がかりになります。

現代社会では、刺青や抜歯、割礼といった慣習があった古い社会とは違って、身体の加工は個々人の自由意思に任されています。

では、個々人が主体的に選んだ整形ならば、それは自由だと言えるでしょうか。フランスの思想家 ミシェル・フーコー流に言えば、それは間違いでしょう。なぜなら、私たちが自由に振る舞うことのうちに、すでに権力や支配が働いているからです。

フーコーの権力論、生権力の誕生

フーコーはそれまでの「権力」についての考え方を大胆に転換させました。
普通「権力」というと、禁止や抑圧といったネガティブにイメージされがちでしたが、彼が『処罰と監視―監獄の誕生』という本で指摘したのは、むしろ、人びとを、学校や刑務所、病院、軍隊などの社会的な装置を通じて、従順で道徳的な、一人前の主体へと作り上げていくという「規律権力」のメカニズムです。

さて、フーコーの権力論でもう一つ重要なキーワードが「生権力」です。「生権力」とは、平たく言えば、人びとを殺したり、抑圧するものではなく、逆に、人びとを生かし、幸福を促進する権力だということです。具体的には、国民の健康や幸福を気遣う「福祉国家」がそれです。

では、一見ありがたいように思える福祉国家のどこがまずいかというと、背後には戦争の問題があると言います。

フーコーをこのプロジェクトに駆り立てたのは、国家が戦争という形で大衆を虐殺しはじめたのは、国家が国民の健康を気遣いはじめた時代でもあるということの奇妙さだった。(p.174)

「福祉国家」と「戦争国家」とは対局にあるように見えて、じつは両者はコインの裏表の関係にあるということです。究極的には人びとの”生”を”死”へと差し向けるこの生権力のパラドックスは、フーコーの権力論の極限的な洞察でしょう。

ともかくも、こうした規律権力や生権力のネットワークが張り巡らされた社会の中では、ほんとうの意味での自由や主体性はありえない。なぜなら、自分ではいかに自由に振る舞えていると思っても、本当は、意識することが難しい諸々の権力によって支配されいているということになるからです。

整形する女性の多くは整形の基準を自分自身の価値基準で判断していると言います。しかしそれにもかかわらず、客観的には、平均的に白人風の「理想型」へと近づいていくのです。整形が個人の自由な選択だと単純に言えない理由の一つはここにあります。

「告白」を通じた支配

ではそうした権力から自由になる(ことを望むとして)にはどうすればよいのか。その問題を解くために彼は時代を遡り、西洋的伝統であるキリスト教の権力構造に行き着きます。

キリスト教の教会において確立された支配構造が司牧者権力である。この権力はなによりも信徒の魂の幸福を気遣う利他的な権力であるかのように装う。しかしこの司牧者権力は[…]来世における魂の救済という〈餌〉によって、羊たちをみずからの支配下におくことを目的としている(pp.193-4)

そのために利用されたのが「告白」という技術でした。

信徒たちは自己の秘密をすべて語り、司祭の指示に従うということによって、自己の内面の秘密と自律的な決定の権利を放棄する。[…]羊飼いも羊も、自己の放棄という方法によって、彼岸での救済を確保できるのである。(p.221)

教会での告白は、信徒自らが自分はどんな善くない欲望をもっているのかを神の前で自覚させ受容させることで、いわば来世での救済を人質に、個人の主体性を放棄させて教会や聖職者に対する服従を実現したと言います。そして、フーコーによれば、その仕組みは近代の福祉国家による支配と論理的にパラレルなものである、と。

「ビューティー・コロシアム」という整形をテーマにしたテレビ番組でも「告白」が重要な要素になっていると見ることができます。番組の中で出演者は、自分が容姿でいかに悩んでいるかや美に対する欲望を、ゲストや視聴者に向けて赤裸々に表現させられることになります。

「自己への配慮」とフーコーの袋小路

キリスト教支配にまでさかのぼる生権力から自由になる術はあるのか、これが晩年のフーコーの課題でした。「性の歴史」というシリーズの『快楽の活用』『自己への配慮』で詳しく展開されます。そこで、生権力に対抗する拠点として提示されるのは、同じく西洋的伝統である古代ギリシアの「自己への配慮」というアイデアです。

しかし、最後に、このアイデアがどのくらい妥当なのかという点は、いまひとつよくわからないところではあります。フーコーは「実存の美学」、つまり、「自分の欲望に素直に従うこと」を推奨します。しかし、その「欲望」が、あの生権力から無傷であるという根拠はどうやって保証されるのでしょうか。

 

中山元『フーコー入門』:「美容整形は何が問題なのか」問題に迫る” に1件のフィードバックがあります

  1. 浅野直樹

    整形と近代(現代)ということに関して以下のような図式を思い描いているのですが、合っていますでしょうか。

    前近代(親からもらった身体にメスを入れるのはけしからん)
       ↓
    近代(整形をするもしないも個人の自由で何が問題なのか)
       ↓
    現代(自由に整形をするという選択をしているように見えても生権力にとらわれている)

    この図式を念頭に置いて、どの段階の議論をしているのかを意識するとよいように思います。整形をすることに反対だという結論的なニュアンスだけを見ると、前近代と現代が一致してしまうので、注意が必要です。

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