他人を好きになる、愛するとはどういうことなのでしょう。
簡単なようで深い問いかけです。
アイドルとは、まさにファンに”愛される存在”です。
NMB48のアイドル 須藤凛々花さんはこのように語っています。
アイドルって、要するにファンの人に愛されることを目指しています。[…]そして私たちは、ファンに愛されようと努力するんですけど、ときどき、やっぱりちょっとそこに食い違いがでてくることってあるんですよね。[…]
例えばわたし、ちょっと前髪の毛を切ったんです。[…]
そのことをすごく残念がるというか、はっきり言うと離れていってしまったファンの人もいるんです。[…]そのときに言われたのが「そんなのりりぽんじゃない」って。
この本は須藤さんと先生役の堀内さんとのダイアローグで進んでいくのですが、そのとき引き合いに出されるのが、哲学者ジャン=リュック・ナンシーの「持つこと/在ること」という区別です。
「持つこと」とは、
「私は男です」
「私は日本人です」
「私は学生です」
「私は喫煙しない」
のような、その人のいろいろな属性のことです。
一方、「在ること」とは、そうした属性には表しきれない、”唯一性”や”固有性”をさします。
たとえば、もしも「哲学者アリストテレスがアレクサンダー大王の家庭教師」でなかったとしたら、あるいは、アリストテレスが「ほんとうは女」だったとしたら、どうなるでしょうか。
答え。仮にそれらが事実だったとしても、彼はアリストテレスその人のままです。
なぜなら、アリストテレスという「固有名」は、「アリストテレスがもし◯◯だったら」「もし☓☓だったら」「もし△△だったら」…という、彼をなす属性のいかなる変更可能性にも開かれているからです。
“私”とは「ここに生きて在るわたしがわたし」そのものなのです。
愛は交換なのか、贈与なのか?
ここまで来ると、愛について深く考えることになります。
なぜ人は、愛する人の期待はずれのふるまいに対して深く傷ついたり、憎しみを感じたりするのでしょうか?
それは、自分が相手を愛する理由、その重要な要素が損なわれたと感じるからでしょう。
でも、それはもしかすると、「君はこうあるべきだ」「君はこうすべきだ」という自分の勝手な思い込みや要求であるかもしれません。
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ところで、ある意味で、愛の告白ほど神秘的なものもないでしょう。
たとえば、告白がもし「君の容姿がすばらしいから」とか「お金があるから」「地位があるから」「家柄がいいから」のように属性だけに語り尽くされてしまったら、百年の恋も一時に冷めるというもの。
他者への愛がその人の”属性”でなく”固有名”へ向けられたものであるならば、それは、他者の存在の”可能性すべて”を含み込んで愛するということに他なりません。
それは自分への返礼を期待しない、他者にたいする純粋な「贈り物」なのです。
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