西尾維新『終物語(下)』の書評です。
「本当、こんなにショックを受けたのは、若い子に寄せていったつもりでノストラダムスの大予言の話を振ったら、『一九九九年にはまだ生まれてません』と答えられちゃったとき以来だよ――私も歳を取ったものだ」
「……よく意味がわかりませんけれど」
「意味は特にない。あのとき終わらなかった未来に、私達はいるというだけの話だ」
(p.372)
私は西尾維新さんと同世代ということもあってか、この箇所に引っかかりました。事実上の最終巻ですから、少し広い視野でこの〈物語〉シリーズを位置づけてみます。
ノストラダムスの大予言で地球が滅亡するとされていた1999年より後の話だということは、大きな物語の有効性が失墜した後だということになるでしょう。『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』では正当性を担保する大きな物語が有効だったのに対し、およそ『新世紀エヴァンゲリオン』以後はそうした大きな物語が機能しなくなったという趣旨のことが東浩紀『動物化するポストモダン』にも記述されていたように記憶しています。
大きな物語の有効性が失墜した後は、『新世紀エヴァンゲリオン』の本編のような引きこもり系か、あるいは同作品のテレビ版最終話や二次創作に見られるような「学園エヴァ」的な日常系の作品が優勢となります。
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』では、それら引きこもり系と日常系の後に来るのが決断主義だと論じられます。〈物語〉シリーズには決断主義的な面があると西尾維新『偽物語(下)』書評 | 京都アカデメイア blogで論じました。
ここまでのところを「正しさ」という観点から振り返ると、大きな物語が機能していて自明な正しさが共有されていた時代から、正しさがわからないので引きこもるあるいは正しさなんて考えずに日常を楽しむという状況を経て、自分が正しいと思うことを信じて他の正しさを信じる人たちと戦うという決断主義へ至るということになります。
〈物語〉シリーズは決断主義的な要素がありながらも、ただ戦うだけではなく、怪異のように言葉が通じにくい存在とも言葉を通じて交流することを通して、またくらやみのように言葉がもっと通じない存在の課すルールも把握しながら、正しさを模索する作品になっています。