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【告知】 第6回 京アカゼミ「今こそ廣松渉を読み返す」開催!

京都アカデメイアの会員が、毎回、自身の研究テーマについて発表するイベント「京アカゼミ」。第6回は、「今こそ廣松渉を読み返す」。昨年『廣松渉の思想』を刊行された、渡辺恭彦さんが担当します。廣松渉の思想について易しくお話いただく予定です。関心ある方はどなたでもご参加ください。


廣松渉の思想 : 内在のダイナミズム

みすず書房(2018年03月01日)

 

日時:2019年2月24日(日)15時〜17時

場所:京都市左京西部いきいき市民活動センター会議室4
※参加無料・予約不要

報告者紹介:渡辺恭彦(わたなべ やすひこ)
1983年生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程修了。博士(人間・環境学)。現在 奈良女子大学非常勤講師。思想史専攻。

書評:週刊読書人ウェブ(評者:小林 昌人)

本企画に関するお問い合わせ等については、お問い合わせフォームまたはkyotoacademeia□gmail.com(□に@を入れてください) までお尋ねください。

これまでの内容はこちら
第5回 ハンナ・アーレント入門/百木漠
第4回 アジールの現在と未来/舟木徹男
第3回 別れはなぜ在るのか:『別れの社会学』序説(あるいはその構想)/中森弘樹
第2回 精神分析から見る現代の知のあり方/浅野直樹
第1回 瀬木比呂志の裁判学:いわゆる「絶望の裁判所」論をめぐって/岡室悠介

最近の読書会

超おひさしぶりです、村田です。ブログを書くのは以前に聖書読書会の話を書いて以来かもしれません……。何してたんやという感じでありますが、最近やっと、その読書会が一段落しました。

 

聖書についてほぼ知識のない者たちが集まっていた聖書読書会、新約の福音書に始まり、黙示録を読んだり、ルターに寄り道したり、旧約も読んでみたり……と、途中詳しい人が参加してくれたりもしつつ、参加者の興味の赴くまま色々読みました。

 

とりわけ興味深かったのは旧約の「ヨブ記」でした。神様、というと一般に、いいことしたらご加護をくれて悪いことしたら罰を与える、みたいな存在としてイメージされていると思いますが、そうした因果を超えた神の概念が分かりました。(あと個人的には、ヨブの友達の冷たさが興味深かったです。わけもわからずひどい目に遭っているヨブに、「いや、お前がなんか悪いことしたからとちゃうんか?」みたいなことを言う役回りなのですが、理不尽な目に遭ってる人へのこうした反応って現代でもリアルだなあ……と。)

 

で、ここから、ユングに『ヨブへの答え』という著作があるのでそれを読んでみよう、ということになったのですが、寄り道のつもりで読み始めたらばこれが難物で、一年くらいかけて読み終えたのでした。ユダヤ・キリスト教についての知識と、ユングの思想についての理解、どちらもたいしてなかったので、皆で「こういうことかな?」「こういう意味ちゃう?」とああだこうだ言いながら読み、終盤でようやく、ユングが、核の時代(※執筆されたのは第二次大戦後)において人間は己の持つ力にどう対峙すべきか、という問題意識で以てこれを書いたらしい、という意図がみえてきたのでした。

 

さて今は、聖書に続く「有名だけど読んでない/一人で読みづらいものを読む」シリーズとして、源氏物語読書会が続行中です。毎回いろんな現代語訳で、ときどき原文も参照しつつ、読んでいます。まだ源氏は17歳、空蝉、六条御息所、夕顔、といろんな女性たちと出会い始める頃です。現代であれば明らかにクズ男と呼ばれるであろう言動に毎回呆れつつ、「現代の価値観ではこうだけど、当時はどう受容されたのだろう」と話し合ったりしています。毎回参加者から、思いも寄らんかった視点を教えられるのも面白いところ。文化人類学者・レヴィ=ストロースが源氏論を書いているらしく(知らなかった!)、その解釈によると、源氏が書かれた時代は価値観の転換期でありそれが物語に反映されているのでは?とか。また、あまりにも初歩的なことにハッとしたりとか。(当たり前だけど「ああ、当時は電気がないんだなあ」とか……古典を読んでいると、ついつい現代の感覚で読んでしまっている自分に気づきます。)

京アカMLに登録されている方には読書会案内を流していますが、毎回直前の案内だったり、開催場所が京都だったり大阪だったり、変な時間の開催だったりと、気になっていながら参加しづらい、という方がおられるのでないかと思います、すみません。気楽な勉強会ですのでもし都合がつけばふらりといらしてください。

3月17日(土)「アジール空堀」での講演のお知らせ(舟木)

京都アカデメイア会員の舟木です。イベントのお知らせをさせていただきます。

3月17日(土)の午後、大阪で開催されるイベント「アジール空堀」で私が講演することになりましたので、お知らせいたします。定員35名、参加費1200円です。講演の後の食事会は定員20名、2500円です。

講演は大阪府社会福祉会館(大阪市中央区谷町7丁目 tel 06-6762-5681)にて、開場13:45、講演14:20~16:00 、質疑16:10~16:50です。食事会はビストロギャロ(大阪市中央区瓦屋町1-1-1 tel 06-6762-1016)にて、17:30~です。

お申し込み・お問い合わせは舟木 nafuko*hotmail.com まで。どなたでもご参加ください。(*に@を入れてください)

「アジ―ル空堀」とは、世話人の橋本康介さんを中心とするメンバーが月1回、大阪の空堀通り周辺で文学や思想、芸術などに関連したイベントを開催し、料理とお酒を楽しみながら世代を超えて交流する大人の文化サークルです。これまでには、労働問題研究の第一人者である熊沢誠さん、歌人の道浦母都子さん、詩人の金時鐘さん、浪速の歌う巨人パギやん(趙博)さん、ちんどん通信社の林幸治郎さんなど、錚々たる顔ぶれが出演されています。楽しい仲間が集まる自由な空間、という意味で橋本さんとお仲間が漠然と「アジール空堀」と命名したそうです。

昨年秋に「アジール」でネット検索して出てきたこのイベントに「何だこれは?」と思いながらとりあえず参加し、橋本さんに「私、アジールを研究している者ですが…」と自己紹介すると「じゃあ、今度このイベントでアジールについてレクチャーしなはれ!」となった次第です。アジールとは何か、アジールの歴史と諸形態、現代におけるアジールの可能性、などについて、わかりやすくお話しさせていただこうと思っています。多数のお越しをお待ちしております。

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トークイベント「ハンナ・アーレントとハンス・ヨナスの思想」のお知らせ

百木です。京都アカデメイアのイベントではないのですが、ひとつ宣伝させてください。
私事ですが、このたび、博士論文を元にしたアーレントのマルクス:労働と全体主義』という単著を上梓いたしました。アーレントの二つの主著『全体主義の起源』と『人間の条件』の間を繋ぐミッシング・リンクとして、アーレントのマルクス研究・批判を読解する、という内容です。そこから「労働と全体主義の親和性」を思想的に明らかにすることを試みました。
この出版に関連して、1月に『ハンス・ヨナスを読む』を上梓された戸谷洋志さんと出版記念トークイベントを開催することになりました。アーレントとヨナスはともにハイデガーの弟子であり、ナチスのユダヤ人迫害を逃れて米国へ亡命した思想家であり、また生涯をつうじた友人でもありました。ヨナスはこれまで日本で紹介される機会は少なかったのですが、若手研究者の戸谷さんが積極的に紹介を進めています。
予備知識不要、本を読んでなくても大丈夫ですので、ご関心とお時間が合う方は、どなたでもお気軽にご参加ください。

場所 TKPガーデン東梅田 ミーティングルーム7C
料金 1000円(当日現金精算) 定員 20名
申込方法 ウェブフォームまたは清風堂書店さん店頭、電話にてお申込み下さい。
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【告知】 第4回 京アカゼミ「アジールの現在と未来」開催!

次回の京都アカデメイアゼミを担当させていただく舟木です。
日時は2月24日(土)15時30分〜 左京西部いきいき市民活動センターです。テーマは「アジールの現在と未来―網野善彦の「無縁」論をどう読むか?」です。

私の関心はアジール論ですが、こんどの発表では現代においてどのような領域や形態でアジールの形成が可能なのかについて、歴史家の網野善彦の無縁論の読解を通じて考えてみたいと思っています。網野はアジール現象の背後にある原理を「無縁の原理」と名付けましたが、現代社会においてそれがどのような形で発現するのかについては、言及することなく没しました。今度の発表では網野の著作『無縁・公界・楽』に残された言葉を手掛かりに、西洋の思想史で「自然法」の名の下に考察されてきたテーマが「無縁の原理」の発現形態に相当に重なることを確認し、そこから、自然法(権)の名のもとに実践される「市民的不服従」など、国家の「公」とは異なる水平軸の「公共性」を求める運動に、現代におけるアジール形成の可能性を探ってみたいと思います。

他方、「無縁」と「自然法」を単純に同一視することもできません。「自然権」を出発点として個人の基本権の思想を築いた西洋とは対照的に、日本では、個人が「世間」の圧力を常に意識し、これを「忖度」して日々の行動を調整することが今も求められます。ところが皮肉なことに、「世間」の語は、かつては「公界」(網野は、これが中世において「無縁」と同義で使われていたことを指摘しています)とほぼ交換可能であったらしいのです。ここから、日本人にとっての「世間」と公共性、および「世間」とアジールの関係などについても議論できれば、と思っています。皆さんバシバシ突っ込んでください。

どなたでも無料で参加可能ですので、関心ある方はぜひご参加ください。

<第4回京都アカデメイアゼミ>
テーマ: アジールの現在と未来―網野善彦の「無縁」論をどう読むか?
日時 : 2月24日(土)15時30分〜
場所 :  京都市左京西部いきいき市民活動センター
報告者:舟木徹男
※誰でも参加可、参加無料、予約不要

無縁・公界・楽―日本中世の自由と平和 (平凡社ライブラリー (150))

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戸谷洋志さんインタビュー 「どうして哲学カフェやってるんですか?」

千葉と大阪で積極的に哲学カフェを主催しておられる戸谷洋志さん(大阪大学 医学系研究科 医の倫理と公共政策学教室 特別研究員)にインタビューしました。戸谷さんはハンス・ヨーナスの哲学(特にテクノロジー論や生命倫理)を専門に研究しておられ、GACCOHでのヨーナス講座なども担当されていました。京都アカデメイアと目指すところが近いのではないかと思い、戸谷さんが哲学カフェを始めたきっかけ、哲学カフェを通して目指していること、哲学カフェを開くにあたって心がけていること、などをお聞きしました。

――戸谷さんが哲学カフェを始められたきっかけを教えていただけますか。

戸谷:僕が初めて哲学カフェに参加したのは、博士課程の2年目のときでした。知り合いの先生が大学で哲学カフェを開いておられて、それに参加してみて「これは面白い」と思いました。同時に、自分ならばもう少し違ったかたちで哲学カフェを企画できるのではないかと思って、周囲の人の協力を得ながら、少しずつ哲学カフェの運営に携わるようになりました。現在は、西千葉の古本屋ムーンライトブックストアで定期的に哲学カフェを開催しています。同時に、阪大の周辺でもリクエストに応じながら、不定期で哲学カフェを開いています。

――哲学カフェのどのようなところに魅力を感じたのですか?

戸谷:僕は大学院から大阪大学に来たのですが、せっかく新しい場所に来たので、新しい仲間とともに何か勉強会でもやろうと思ったんです。それで最初にハンナ・アーレントの『人間の条件』の読書会をやったんですね。そのときに「活動」の章を読んで深い感銘を受けたんです。私的利害から自由になって、他者の前に「現れ」、仲間と連帯しつつ、その仲間もかけがえのない存在として現れてくるので、何が起こるのかは予測不能である。そしてそこで起こったことは取り返しがつかなくて、だからこそ相手を赦さなければならない。そうしたアーレントの考え方に強い刺激を受けて、自分でもそういうことをやってみたいなと思ったんです。

それで、その後も読書会や勉強会を開催してみたり、ビブリオバトルをやってみたり、院生の立場ながら国際シンポジウムを企画したりと、いろいろと積極的にやっていたんですね。最初のうちは何もかも下手っぴだったんですが、回数を重ねるうちにだんだんコツをつかんできて、企画の仕方とか、司会の技術とか、メディアの使い方とか、少しずつ上手くできるようになってきました。哲学カフェもその延長線上でやっていて、何か「活動」をしたい、そんなことを別にする必要がないことを敢えてしたい、そういう欲望が僕のなかにあるんです。哲学カフェ自体に何か大きな魅力を感じたというよりは、「哲学」と「活動」を結び付けたかったというのが、哲学カフェを始めた理由ですね。

――一般的に言うと、哲学って難しい本をゴリゴリと原書で読んで、それについて抽象的な議論をしている、あるいは論文を書いている、といったイメージが強いです。戸谷さんが自分の研究とは別に哲学カフェを始めようと思ったのは、何か専門の研究だけでは物足りない・満たされないところがあったからなのでしょうか?

戸谷:はっきり言ってしまうと、いわゆる専門的な哲学研究と哲学カフェとは別物だと思います。哲学カフェの議論が専門的な哲学研究を補うとか、それをより発展させるといったことはほとんどありません。そもそもそういうことを期待して哲学カフェをやっているわけではないんです。それよりも、単純に哲学カフェそのものが楽しいから、という理由でやっている側面が強いです。僕にとっては、一種の「遊び」やゲームに近い。

――私も一度、戸谷さんがやっておられる哲学カフェにお邪魔したんですが、できるだけ哲学の専門用語を使わないようにして議論する、というルールが設けられているのが印象的でした。哲学カフェという名称でありながら、具体的な哲学者の名前や、哲学の専門用語が出てこないというのは少し不思議な印象もしたんですが、それはどうしてなのですか?

戸谷:難しい問題ですね。そもそも、日本で統一された哲学カフェのルールみたいなものがあるわけではないんです。僕が哲学カフェをやる際に設けているルールは、(1)発言の際には挙手をすること、(2)他の人の意見を最後まで聞くこと、(3)専門用語をなるべく使わないこと、の三つです。これはカフェフィロが発行している『哲学カフェのつくりかた』という本のなかで一例として挙げられているものなんですね。でも、最近自分のところではこの三つ目のルールは廃止してもいいかもなと思っているんです。というのは、ここでは専門用語はなるべく使ってはならない、というルールがあるということは、参加者の人たちが哲学の専門用語や考え方を理解できないだろうから、それを使わない範囲内でやりましょう、という上から目線の姿勢があるようにも感じてしまうんですよ。

先ほども言ったように、僕自身は、哲学の専門研究と哲学カフェでの議論は基本的に別物だと思っているのですが、必ずしもその二つの間に境界線を設ける必要もなくて、哲学カフェのなかでちゃんと具体的な哲学者や専門用語の説明をしながら議論ができるなら、それはそれで全然いいんですよ。問題なのは、それを誰にでも分かりやすく説明できないことのほうなので。それは専門用語を使う側の試練にもなるはずです。例えば誰かが「それはカントのアンチノミー的に言えば…」みたいなことを言い出した時に、僕がすかさず「それってどういうことですか?」と訊けばいいわけです。進行役がその専門用語を説明させればいいだけのことであって、最初から専門用語を使ってはならない、というルールがあるのも違うのかなという気がしています。

――なるほど、全国的に統一された哲学カフェのルールや進行方法が決まっているわけではなくて、それぞれの哲学カフェによってやり方にも特徴があるんですね。

戸谷:そうですね。そもそも最初に哲学カフェが始まったのは1992年のフランスなんですが、そこでは今の哲学カフェのようなルールは全くなくて、ただ哲学的な議論をするというだけの場所だったんですよ。あとフランスの哲学カフェでは箴言や格言・ことわざなどがテーマになることが多いんです。例えば、「時は金なり」とは何か?とか。そういう言葉をテーマにすることで、自分たちの日常や習俗の延長線上で哲学の議論をするということが多いんですね。それに対して日本の哲学カフェではあまりそういう感じがしなくて、「本当の友達とは何か」とか「愛とは何か」とか「正義とは何か」とか、そういったテーマを意図的に専門的な言葉を用いずに議論するという性格を強く持っているんですね。私も正確には分からないんですが、専門用語を用いずに議論するというルールは、おそらく日本に哲学カフェを導入する際に作られたルールで、日本で市民が対話をするために取り入れられたものという意味合いが強いのだと思います。

――それは面白い違いですね。日本はフランスとは違う、独自の哲学カフェの発展をしてきたということですね。戸谷さんが2016年に開かれた哲学カフェのタイトルを見ると、「愛と恋とそれから情け」「だいっきらい!!」「セコいとは何か?」「前向きってどっち向き?」などユニークなものが多いですね。他に「観光」「アイドル」「壁」「喩えについて」などのものもあります。毎回、哲学カフェのテーマはどうやって決められているのですか?

戸谷:テーマの決め方にはいろんなやり方があると思うんですが、僕の場合は、毎回哲学カフェをやった後に時間がある人に残ってもらって、次回のテーマを決めてもらうことが多いですね。参加者の人に案を出してもらうんです。試行錯誤のうえにそういうやり方に落ち着きました。ちなみにフランスの哲学カフェだと、予めテーマを決めておくのではなく、当日の最初の10分間とかでテーマを決めるんですよ。これは日本の哲学カフェではおそらく無理で、日本だと予めテーマを決めておいたほうがスムーズなんですね。その場で決めようとするとすごく時間がかかってしまうんです。

――毎回テーマを決めずに集まって、最初の10分間で話し合ってテーマを決めるというのはすごいですね。それは確かに日本では難しそうな気がします(笑)

戸谷:もうひとつ言っておくと、フランスに限らずヨーロッパでは箴言や格言などをすごく大事にするんですよ。例えば手紙の始まりや終わりとか、学位論文の冒頭とかに、セネカとかキケロとか、シラーとかゲーテとかの言葉を引用するというのが教養の証明になっていて、そういうものを皆がよく覚えているんですよね。

僕がドイツに留学しているときに印象的だったのは、ドイツ人たちがそういった箴言や格言、有名な詩などについてよく知っているということです。例えばドイツでは国語の時間にゲーテやシラーの詩を暗唱したりするんです。で、ゲーテやシラーの詩について質問すると、すごく長い説明や解釈を聞かせてくれるんですね(笑)それはドイツの教育の成果という面がとても大きいのだと思います。日本人だとそういう共通の教養的な土台ってあまり持っていないし、詩や文学を解釈する授業や訓練ってほとんど受けていないと思うんですよ。その割にディベートの時間を設けようとしたりするんですけど、共通の素養や古典教養などがないと、実はそうした試みも難しいのではないか、と思っています。ヨーロッパだと皆が共有している古典というものがまずあって、そこから引用しながら議論をしていくことができるんですよね。

逆に、日本で哲学カフェをすると、定められたテーマに対して自分はこういう仕方で生活をしている、という風に話をされる方が多いんです。つまり私的な利害に引きずられちゃんですね。例えば「どうして働くのか」というテーマの回だと、私はこういう働き方をしています、という話を各参加者がする。それって、ひとつひとつは否定できないじゃないですか。それでなかなか対話が成立しない、ということはよくあります。皆が自分の生活の自己紹介に終わってしまって、それ以上の抽象的な議論に発展していかないことも多い。そこが日本で哲学カフェをするひとつの難しさではあります。

――共通の土台がないなかで、抽象的なテーマについて議論しようとすると、まずは参加者が自分の体験や生活に引きつけた話をしてしまうというのはどうしてもそうなってしまいそうですよね。フランスと日本にそういった哲学カフェの違いがあるというのは知らなかったので面白いです。では、戸谷さんが哲学カフェを運営するうえで気をつけておられることなどはありますか?

戸谷:哲学カフェの運営の仕方は、運営する人によってそれぞれ異なると思います。大まかに共有されているルールはありますが、厳密に定められている規則などがあるわけではありません。そのなかで個人的に心がけているのは、進行役である僕自身が積極的に議論の交通整理をしたり、参加者に問いかけをしたり、ある程度の方向性を示したりすることです。

哲学カフェの主催者の多くは、進行役(司会者)はできるだけ参加者の議論には介入しない方がいい、そのほうが参加者の間で自由な議論が生まれやすい、という考えを持っていると思います。でも僕はそうじゃないと考えています。進行役の人が身を引いてしまうと、むしろ議論がぼやんとしてしまって、なかなか深まっていかないことが多い。だから僕が進行役を務めるときは、かなり明確に問いを立てるんですね。ある程度、議論の整理をしたり、問いかけをしたりするほうが、参加者の間の積極的な議論を引き出すことに繋がるんじゃないか、と考えています。

――その点、戸谷さんは敢えてファシリテーター(司会者)として、議論の交通整理をしたり、参加者に疑問を投げかけたりするように心がけているということですね。

戸谷:哲学カフェって、そのときのその場所のその参加者の間だけで成立する論理みたいなものが形成されるんですよ。だからあとから考え直すと、これっておかしいよな、という議論もある。でもあのときはなぜか全員がそれで納得していた、みたいなことがしばしば起こるんです。それってやはり哲学カフェが非常に演劇的というか、ある瞬間にだけ立ち現れる必然性のようなものに力が認められている空間だからなんですよね。そこに哲学カフェの面白さがある。でも同時にそれが、哲学カフェがいわゆる「学問」にはなりにくい理由でもあるんですよね。あとから客観的に検証したりはできない。良くも悪くも、哲学カフェの議論は「蓄積」されないんです。

――それは最初におっしゃられていたアーレントの「活動」の議論にも通ずるところですね。戸谷さんは以前、Twitterで「哲学カフェを有用性はないが有意味である空間を創りたい」という旨の発言をしておられたと思うんですが、その真意を聞かせていただけますか?

戸谷:有用性というのは何かの役に立つということですよね。何か外に目的があって、その目的のための手段として役に立つという。それに対して、それをやっていること自体が楽しい・面白いと思えるような空間、何かの役に立つわけではないけれども意味を持っている空間というものを、哲学カフェを通して創り出したいなと考えています。哲学ってもともとはそういうものだったんじゃないかと思うんですよね。でも最近はビジネス雑誌で「ビジネスの役に立つ哲学」といった特集が組まれたりして、哲学のなかにも有用性の原理が入り込んできている。そういう状況のなかで、有用性とは全く関係のない哲学の在り方というものを実践してみたいというのが、僕が哲学カフェをやっている理由です。

――そのTwitterでの発言が印象に残っていたので、その真意を聞けて良かったです戸谷さんにとって、「ああ今日の哲学カフェは上手くいったな」と思えるのって、どういうときなんですか?

戸谷:さっきも言ったように、僕が哲学カフェをしている一番の目的は、現実とは違った論理が通用するような非日常な空間を創りだすこと、その時間・その場所でだけ立ち現れるような議論を生み出すことなんですね。哲学カフェは「遊び」に近いと言いましたが、「遊び」の本質はやはり楽しいことです。そして、楽しいのは「真剣に遊ぶ」から楽しいんですよね。だから参加者が真剣に参加してくれているかどうかというのは、ひとつの重要な指標になりますね。例えば、議論の途中で怒り出す人なんかがいると、僕は結構ときめくんですよ。怒っているとか、むすっとしているとか、そういう態度を取る人がいるのって、その人が議論に真剣に参加してくれているからなので、そういう人がいるとああ上手くいったな、って思いますね。

――なるほど、参加者が議論の途中で怒り出すのは必ずしも悪いことではないんですね。

戸谷:それは、僕が主催してる哲学カフェの大きな特徴だと思います。でも、哲学カフェを主催している他の人からは反対の声もあるかもしれませんね。

――それは面白い特徴ですね。最後に、戸谷さんが今後哲学カフェを実践するなかでやってみたいこととか、目標にしたいことはありますか。

戸谷:僕はこれまで自分独自のやり方で哲学カフェをやってきたんですが、今後は哲学カフェを他の地域で運営している人や同業者と交流したり、意見交換をしたりしていきたいなと思っています。

――また機会があれば京都アカデメイアとも何かコラボしていただければ嬉しいです。今日はありがとうございました。

2016年12月20日(火) 梅田の喫茶店英國屋にてインタビュー。
記事構成担当:百木漠

Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲 (講談社文庫)

Jポップで考える哲学 自分を問い直すための15曲 (講談社文庫)

【京都アカデメイア聖書読書会(第7期)】

ユング『ヨブへの答え』の一回目でした。参加者は6人。初っ端からユングの激しい宣戦布告。「私は以下において遠慮会釈なく言葉を激情に委ね、不正に対しては不正なことをお返しするであろう。そうすることによって私は、なぜそして何のためにヨブが傷つけられたのかを、またこの出来事からヤーヴェにとっても人間にとってもどんな結果が生まれたのかを学び取るであろう。」当初は章ごとにレジュメを切って読んでゆく予定でしたが、極力参加者の負担を少なくして牛のよだれのように長続きさせるというこの読書会のコンセプトに従って、今後もダラダラ輪読してゆくことにしました。次回は4月29日(土)10:00~@京大サロンです。

新企画「京アカゼミ」がスタートします。

新規イベントの告知です。

今春から、新企画「京アカゼミ」がスタートします。
京都アカデメイアに所属する、各自の専攻分野に通じた会員が、3ヶ月ごとに持ち回りでゼミを主宰します。このゼミでは、まず報告担当者が、各自の関心テーマもしくは専門領域のトピックについて発表した後に(30〜40分程度)、参加者による質疑応答(50〜60分程度)を通じて内容への理解を深めていきます。
今年度の報告担当予定者(所属、専攻分野)は以下の通りです。
【第1回:2017年5月20日】岡室悠介会員(大阪大谷大学人間社会学部専任講師、憲法学・法社会学)
【第2回:2017年8月予定】浅野直樹会員(京都アカデメイア理事、精神分析学)
【第3回:2017年11月予定】中森弘樹会員(京都大学大学院文学研究科特別研究員[PD]、社会学)
【第4回:2018年2月予定】舟木徹男会員(龍谷大学社会学部非常勤講師、社会思想史・宗教学)
日時・内容等の詳細は、順次追って告知いたします。
もちろん、京アカの会員・非会員問わず、どなたでもご参加できますので、各自お誘い合わせの上、お気軽にお越しください。また、会員の皆さまにおかれましては、本メールをお知り合いの方などにご転送いただけますと大変ありがたいです。

ちなみに第1回は、次のような内容を予定しています。
日時:5月20日(土)14:00〜15:30ごろまで
場所:左京西部いきいき市民活動センター第4会議室
テーマ:瀬木比呂志の裁判学―いわゆる「絶望の裁判所」論をめぐって—
報告担当者:岡室
概要:日本においては、各裁判官が外部の圧力から独立して裁判を行うという意味での「裁判官の独立」が憲法上も保障されています。しかしながら、近年では、最高裁判所を頂点とする裁判所内部の組織的な統制が進んでおり、たとえ良心的な裁判官であっても、最高裁の方針に背いた無罪判決や違憲判決を出すことが難しくなっている状況が、元東京高等裁判所判事の瀬木比呂志教授(現・明治大学法科大学院)によって指摘されています。
本ゼミでは、これまでの瀬木教授の業績を簡単にレビューした上で、はたして、日本の司法は、瀬木教授が主張するように「絶望」的状況なのかどうかを、参加者のみなさんと一緒に考えたいと思います。
参考文献(事前にどれか一冊読んできていただけると、理解が深まるかもしれません。):
①瀬木比呂志『絶望の裁判所』(講談社現代新書、日本における司法・裁判統制の現状を把握する上での、とりあえずの一冊。)
②瀬木比呂志『ニッポンの裁判』(講談社現代新書、上記の応用編として、これまでの日本の主要な裁判例について、その力学的な背景も含めてレビューしています。)
③瀬木比呂志『黒い巨塔—最高裁判所』(講談社、上記の内容のいわば小説版、小説好きな方はこちらがオススメ。)

本企画に関するお問い合わせ等については、岡室(y2olibrary@gmail.com) までお尋ね下さい。
よろしくお願いいたします。

イベント「人類は人工知能にいかに立ち向かうのか~将棋とオセロから考える」振り返り

百木です。
ずいぶん時間が経ってしまったのですが、昨年11月にGACCOHで特別イベント「人類は人工知能にいかに立ち向かうのか~将棋とオセロから考える」を開催しました。

ここ数年、将棋・囲碁・オセロなどのボードゲームで人工知能が急激に実力を上げ、トッププロを凌駕するようになったことはよく知られています。そうした状況のなかで、将棋界とオセロ界ではそれぞれどういう対応や試みがなされているのか、そこから人類と人工知能との向き合い方に何らかのヒントが見出せないか、という議論がなされ、イベントは大変盛り上がりました。

参考までに当日のプレゼンを担当した百木と中森のパワーポイントファイルをアップしておきます。関心ある方はご参照ください。また今後も何らかのかたちでこうしたイベントを開催できたらなとも思っているので、リクエストなどあればお待ちしています。

 

【京都アカデメイア聖書読書会(第Ⅵ期)】

「ヨブ記」1回目。今日は用事で参加できない方が多かったものの、元気娘のSさんが初参加してくれたこともあり、何とか4人集合。7章まで読み進めました。義人ヨブが酷い目に遭うのはよく知られていますが、ヨブを襲う理不尽な苦難を目にした家族や友人の反応の仕方には、いろいろ考えさせられるものがありました。彼らは「主は正しいものを助け悪しきものを罰されるはずだから、主を呪ってはいけないよ」などと言って暗にヨブが罰されて然るべき罪を犯しているのではないかと疑ってみたり、「主は私たちを鍛えるために試練を下されることもあるが、それを見事耐え忍べば最後にはハッピーになるはずだよ」といったりして、因果応報の倫理の枠内でヨブの苦難を意味づけようとするのですが、こうした対応自体、「隣人の途方もない不幸」という事件の重みにいたたまれなくなり、適当な意味づけをしてその心理的負荷を軽減しようとする防衛反応なのだと言えるでしょう。語の本来の意味での臨床(病の床に付き添う)という行為の重みと難しさを考えさせられ、看護学の必読テキストともいえるのではないかと思いました。またそこから、原発避難者へのいじめやセカンドハラスメントの話などにも議論が及び、今年最後の聖書読書会に相応しい有意義な集まりとなりました。次回は新年1月7日(土)10:00~@京大本部時計台下サロンです。動画はときどき画面下に登場する子供らが可愛いので貼ってみました。メリー・クリスマス。
※なお当方でメールアドレスが分かる方にはHさんが別の機会に作成されたヨブ記の導入用レジュメを添付してお送りします。