ラミス『戦争するってどんなこと?』の輪読会はお陰様で終了しました。
ご参加下さった皆さん、どうもありがとうございました。
次の本については、改めてお知らせいたします。

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京アカサイトに穂積陳重『復讐と法律』(岩波文庫)の書評を掲載しました。アジール書評シリーズです。
https://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/book_review/id110/
今回は『手づくりのアジール』(晶文社,2021年)のなかの百木漠×青木真兵「対談6 ぼくらのVita Activa-マルクス・アーレント・網野善彦」を紹介します。
アジールとは、本書では「時の権力が通用しない場」、数値化やそれによる序列が優先される現代社会(此岸)において「そうでない原理が働く場」(彼岸)です。そして、彼岸と此岸、生産と消費、生と死、男と女、昼と夜、右と左、敵と味方、文化と自然、秩序と混沌のような「2つの原理」が補完しあっていること、その2つの間を行き来することの大切さ、寅さんがその代表例であることが本書の冒頭で述べられます。
京都アカデメイアの監査役・百木漠さんと青木真兵さんの対談6では「いかに楽しく日々を生活できるか」を考えるときに、網野善彦の「アジール」、マルクス的な「脱成長・脱資本主義」、貨幣と商品交換に取り込まれない「コモン(共有地)」がヒントになることが語られます。
百木さんが提唱する「欲望の方向性や質を、物質的・消費的なものから文化的・学問的なほうに転換していく」という方向、人間がどうしても「過剰なもの」を作り出してしまう(バタイユ)とき、それを戦争や宗教や貨幣・商品に向かわせず。文化的・学問的豊かさを含めた別の方向に向けることは、とても大切な気がします。青木真兵さんが東吉野村で大学中心とは違う仕方で人文知を開こうとしている私設図書館ルチャ・リブロをはじめ、この京都アカデメイアの活動もその一つでしょう。
聖と俗、健常と障がい、中心と周縁、都市と農村など2つの原理を行ったり来たりする人をもっと増やすこと、2つが分かれていながらもたまに交じりあったり、入れ替わったりを増やすことも提唱されています。この世のゲームの外に出て別のゲームを始めることは容易ではありませんが、この対談では「山」というコモン、自然のなかで人間が住める場所を見つけて住まわせてもらっていることに着目します。不便な山の中ならば欲望の暴走を防げそうです。余地・余白がある場所を増やせば、2つの原理を行き来できる人や時間を増やせそうです。
アジールも2つの原理の行き来も、寅さんのように生き方で示していくしかないのかもしれません。同じく百木さんと青木さんの本書の対談2では、寅さんのことがより詳しく述べられ、網野善彦の扱った中世では「無縁」が社会のしがらみから逃れる点で価値をもっていることも述べられます。無縁と有縁も行ったり来たりできると楽に生きられそうですね。 (紹介:古藤隆浩)
【京都アカデメイアの過去ページにも、アジールの紹介があります】
アジールの現在と未来
村田です。最近、連続して韓国の小説を読んだので紹介します。どれも話題作だったものです。
● ミン・ジヒョン『僕の狂ったフェミ彼女』加藤慧訳、イースト・プレス、2022.
原著は2019年。作者・訳者ともに1986年生まれ。
別れた彼女が知らないうちに「メガル」(先鋭化したフェミニストを指す韓国のネットスラング)になっていた! という話。韓国の若者風俗やネット事情が分かるのが良かったです。
「僕」は「イデオロギーとしての『フェミ』には理解を示さないが悪いやつではないし共感力もある」みたいな男性像でリアルでした。「僕」の視点から「彼女」の様子が描かれるのですが、「僕」の一人称語りを徹底することで彼女の内面に直接触れられないようになっているのが面白かったです。
物語の本筋には関係ないかもしれない細かいところですが、印象的だったのは「課長」の話。「彼女」が「課長」の話を始めたとき私も男性をイメージして読んでしまっていて、ここで自分もジェンダーによる固定的イメージ(「管理職=男性」)にとらわれてた!と気づいてはっとなったのでした。多くの読者もそうではないかな? とすると、本書を読む人は「フェミ」寄りの意識の持ち主が多いと思われますが、ここで語り手の意識に沿うことができるようになっているのかなと思いました。(まあ最初から非男性を想定して読んでいた人もいるかもですが……)
● チョ・ナムジュ『82年生まれ、キム・ジヨン』斎藤真理子訳、ちくま文庫、2023.
原著は2016年、ハードカバー版邦訳は2018年。映画にもなった(未見)話題作ですが今更読みました。ヒット作なのでもっとポップな小説なのかと思ったら、こんな本だったのか!と吃驚。
ひとりの女性「キム・ジヨン氏」の半生と家族の歴史が淡々と語られるのですが、何か目立った大事件は起きません。大きな不幸や珍しい不運もなく、大学にも進学できて苦労はしたが就職できて善良な男性と結婚したキム・ジヨンは、どちらかといえば恵まれた人に見えます。しかしその人生の中にいくつも、女性であるゆえに蒙らざるをえなかった理不尽が潜んでおり、註の形で付された歴史的背景や統計資料により、それが彼女ひとりの問題ではないことが浮き彫りにされます。
「キム・ジヨン」は1982年生まれの韓国の女性に最も多い姓名とのこと。私はジヨンよりやや年上ですがほぼ同世代。ジェンダーをめぐる日本と韓国の事情は、よく似ているところと異なるところがあると思われますが、自分にも覚えのある出来事や思いがいくつもありました。そうした「あるある」ゆえのヒットなのでしょう。「お母さんは自分の人生を、私のお母さんになったことを後悔しているのだろうか」という前世代の女性である母への思い。品質が向上する以前の生理用ナプキン。学校やバイト先でのセクハラ(些細であるゆえに告発しづらいものも含む)。存在はするのに使うのに気が退ける制度(戸主制度はなくなったのに特別な理由のない限り母方の姓は選びづらい)。などなど。
物語は、ジヨンの解離のような憑依のような症状(?)から始まるのですが、その症状の中で複数の女性が現れるのは、本作が多くの女性の物語になっていることの隠喩のようであるなあと思いました。
文庫版では、作品の歴史的背景、作品発表時とその後の韓国でのフェミニズムの状況、また作品内の或る仕掛けについての解説が付されています。
● ハン・ガン『菜食主義者』(新しい韓国の文学01)、きむふな訳、クオン、2011.
「韓国で最も権威ある文学賞、李箱(イサン)文学賞を受賞」したという作品です。原著は2007年。
表題作に続き「蒙古斑」「木の花火」の連作で、主人公である主婦「ヨンヘ」を巡る話が、それぞれ異なる登場人物に視点をおいて描かれます。
表題作はヨンヘの夫の視点から書かれ、「妻がベジタリアンになるまで、私は彼女が変わった女だと思ったことはなかった」という一節から始まります。平凡で地味な主婦であった「ヨンヘ」はある時から突然肉食を拒絶するようになります。それまで普通に肉料理(これらの描写が皮肉にも実にうまそう!)も作っていたというのに。
今回読んだ三作は(話題作ということで読んだので特に意図をもって選んだわけでないのに)偶然にもすべて、「変わってゆく女を男が眺める」という図式になっていました。『僕の狂ったフェミ彼女』は、普通の可愛い女から「メガル」になってしまった彼女を「僕」が眺め、『82年生まれ、キム・ジヨン』は、突然憑依を起こした妻を夫が眺め、本作では「菜食主義者」になってしまった妻を夫や父が苛立ちとともに眺める。
しかし本作でヨンヘがなろうとするのは、実は単なる「菜食主義者」ではなく、その肉食拒否は明確な理由は語られません。彼女が志向するのは植物への生成変化のようなものであることが連作の中で明らかになってゆきます。自分の身体が(というか身体があることが)厭で仕方なかった十代の頃に読んだらばより共感したであろうなあ、と思いながら読みました。どうやら食が「家族」と結びついているらしい点、ヨンヘの生成変化がそこからの離脱であるらしい点も。「木の花火」では視点がヨンヘの姉に移るのですが、この姉妹の関係は、どこか少し小川洋子『妊娠カレンダー』を思い出させました。
こんにちは。暑くなったり涼しくなったりの日々ですね。
今年は京アカブログにたくさん投稿しようと思いつつ既に挫折しておりましたが、最近読んだ本の紹介です。
白石良夫『古語の謎――書き替えられる読みと意味』中公新書、2010.
インパクトのある帯が気になって読みました。
帯の通り、第一章は、万葉集の柿本人麻呂の歌、「ひむがしの野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ」の謎の探索から始まります。
有名なこの歌はしかし『万葉集』では「東野炎立所見而反見為者月西渡」と表記されており、もともと何と詠まれていたかは分からない。実際にかつては「東野」を「あづまの」とするなど異なる訓で読まれていたのに、18世紀以降に現在の訓が定着した、とのこと。謎解きのようにその過程が探られていきます。
第二章以降はそれぞれ別のトピックが扱われているのですが、全体を通して分かることは、江戸期の古学・国学の役割とその影響力。
「文献を考証して古の言葉を知ること=オリジナルへの遡及」という考え方が提唱され、古の言葉を知るだけでなくそれを使いこなすべしとされ、かつそれが一般化する中で、「江戸時代に生まれた架空の古語」のようなものも登場します。古に遡及しようとする中で、偽書や贋物が現れたことも。しかし、そうした贋物を単にけしからん紛い物とするのでなく、学問の副産物としてポジティブにとらえその存在ごと歴史資料として認めようとするのが、本書の面白いところでした。
日本文献学の営みを問い直す終章では、「オリジナルこそ最も尊重すべき」とする考え自体が問われます。私は実は大学時代は国文科だったのですが、本文異同を検討したり註を付けたりという文献学的な授業を受けながら「自分が何を教えられているのかよく分からない」完全なる劣等生であったので、本書を通して少し、「あれはああいうことだったのか」と分かった気がします。
ところで贋物といえば、これも終章で扱われている「神代文字」の話は個人的に大好きなのですが(胡乱なものや架空の文字が好きであるため)、「神代文字」で検索すると夥しい書籍やウェブサイトがヒットしてしまい、未だ真面目に扱われ(たり商売に使われたりし)ていることが分かります。
NHK Eテレ新番組「toi-toi 」 脳性まひ当事者の視点から、思うように動かない自身の体を哲学的に解明した今回の主人公・河合翔さん(京アカ会員)は今後もレギュラー出演されるそうです。その他の出演者も、発言から醸し出される雰囲気が、私にはとてもよいものでした。内容の一端:
問い:「役に立つってどういうこと?」には~
・働いたり社会貢献していなくても「ただいるだけで役に立つ」ことがある(例:車いすユーザーが街を歩いているだけで他の人の見方考え方を変える)、
・「自分が役に立つ立たないを考える必要はないのでは」「価値は自分が決めるもの」
・「役に立つのは大切だけど、役に立たなければいけないというふうになると怖い」
などが出されていました。
問い:「言葉が伝わらないと役に立たないのか」には、
・「ゆっくり伝わる」「身体で伝えることを読み解く」など、焦らない、時間の大切さがあげられていました。
(感想)役に立たないものの価値をどれだけコトバにして伝えられるか、みたいな挑戦は、私もしていきたいです。役に立たないもの が 言葉にもできず、役に立たないままで、それでも認められるのがよいのでしょうが、そうすると、役に立つもの ばかりの世の中になりそうなので、役に立たないものを言葉にして承認して応援したいです! 皆さんは、どんな感想を持たれましたか。
以前の記事「ネイピア数の無理数性」がパワーアップして帰ってきました.
ネイピア数eが無理数であることを, 2通りの方法で証明しました.
良かったらPDFファイルを見て下さい.
作成: 藤原大樹
更新: 2024年3月19日