映画『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』:なずなと典道はどこへ行ったのか?

大窪善人

本作は、映画監督 岩井俊二の出世作となった同名の実写作品をもとにしたアニメ―ションです。じつは私は、今回のアニメ化の話を知ってから、鑑賞を楽しみにしていました。

優れた原作とはいえ、放映されたのは今から20年以上前。そんなに古い作品をわざわざ引っ張り出してくるからには、たんに原作をなぞるだけではない、きっと大きな驚きがあるはずだ、と。結果は、期待以上でした。
 

[ if ] もしも、あのとき・・・

物語の舞台は、茂下(もしも)町という、とある海辺の町。中学1年の典道(のりみち)と友人の祐介は、同じクラスのなずなに密かに想いを寄せていました。

なずなは、典道と祐介、水泳勝負に勝った方を花火大会のデートに誘う―。というのは口実で、ほんとうは母親の再婚への反発から、駆け落ちするのが目的でした。

ところが、勝負に勝った祐介は約束を反故にし、なずなは力ずくで連れ戻されてしまいます。それを見た典道は「もしも、あのとき、オレが勝っていたら・・・」 ここから物語は巻き戻され、バッドエンドを覆す[ if ]の世界へと分岐していきます。
 

「この世界からの離脱」というテーマ

この映画の特徴は、物語が「ループ構造」になっていることです。[ if ]の世界で勝負に勝った典道は、なずなと駆け落ちし、町から脱出しようとするのですが、親や祐介の妨害にあい、あえなく連れ戻されてしまいまいます。そして、そのたびに、さらに別の[ if ]のルートが枝分かれしていくのです。
 

ところで、なずなや典道は、なぜ茂下町から出ようとしたのでしょうか? 町の外へ出たとして、何か具体的なプランがあるわけでもありません。「所詮は子どものやること」と片付けてしまえばそれまでですが、そこには、ストーリー上の理由をこえた、深い理由があるように思えます。

物語評論家のさやわか氏は、原作の『打ち上げ花火…』にかんする批評の中で、「類型的な田舎の風景」が、日本のサブカルチャーの中で繰り返しテーマ化されてきたことを指摘します。どういうことか?

「類型的な田舎の風景」とは、どこにでもあるような「どこか」、つまり、とりたてて何の変哲もない場所のことで、1990年代以降、主人公である若者たちにとってそこは、退屈で居心地のよくない「悪い場所」として感じられてきたのだと言います。

そして、90年代に製作された『打ち上げ花火…』は、まさに「『いまここ』という現実からいかにして抜け出すか」という、後に「セカイ系」と呼ばれる作品テーマを扱った、先駆的な作品だったのです。




(1970年01月01日)

 
そのテーマは、今作でも正しく引き継がれており、ビー玉、風車、校舎、螺旋階段、灯台、そして花火など、繰り返し反復される円や回転のシンボルが、閉ざされた世界のイメージと重なります。そして、執拗に追いかけてくる親やクラスメイトによる妨害が、この現実から逃れられえないことを暗示します。

ちなみに、映画をみた人の中には、背景美術のレベルが低いと批判する声もありますが、おそらくこれも計算の内でしょう。のっぺりとした、細部の情報量を落とした建物や風景は、どこか作りモノめいていて、そこが一種の〈閉域〉であるように感じさせます。

駆け落ちした二人は電車に飛び乗るのですが、その幻想的な光景は、少年ジョバンニとカンパネルラを乗せて天をゆく『銀河鉄道の夜』を彷彿とさせます。
 

書き換えられたラストシーン

「いまここ」から「ここではないどこかへ」。この90年代の意味論を、本作はどのように更新したのでしょうか。そのためには、20数年前の『打ち上げ花火…』まで戻る必要があります。

前作。クライマックスは、駆け落ちを諦めた二人が、夜の学校のプールに忍び込みはしゃぐ場面です。そこで、なずなは典道に「今度会えるの二学期だね。楽しみだね」と告げて、プールの向こう側へと遠ざかっていきます。そのとき、カメラの焦点深度の浅いレンズによって、水と光の背景のなかに、まるで溶けていくように描かれます。

さやわか氏は、これを、少年少女が「ここではないどこかへ」の希求を結局はあきらめ、類型的な風景へと溶け込んでいくことで、「いまここ」という日常を受け容れる物語だと解釈します。
 

一方、今作のアニメ版では、ラストシーンに大きな変更が加えられています。まず舞台が夜の浜辺。物語のキーアイテムである「もしも玉」が打ち上げられ、空中で爆破、無数のかけらとなって飛散します。

そこに映し出されるイメージのひとつひとつは、東京にいるなずなと典道、花火大会の屋台でデートするなずなと祐介… ひょっとするとありえたかもしれない、可能世界の断片です。

最後になずなはこう問いかけます。「次に会えるの、どんな世界かな?」 では、こうした可能世界(論理学)、多元宇宙(物理学)的設定の導入は、何を意味しているのでしょうか?  

主人公たちは、前作と同じく、結局は「この現実」にとどまるわけですが、ポイントは、ここで”図と地の反転”が生じることです。つまり、不可避の宿命のように感じられた「いまここ」というこの現実が、じつは、無数に存在する可能性の束のなかから浮かび上がる、ひとつの選択の結果であったということ、これです。

「いまここ」とは、単に孤立してあるのではなく、ひょっとするとありえたかもしれない無数の可能性と共にあると。

ラスト・シーンの夏休み明けの教室になずなと典道がいないのは(実際に遠くに行ってしまったかどうかは別にして)、この世界にとどまりつつ、「いまここ」からの解放を表しているからではないでしょうか。
 

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