「マジカル・プランツ」から考える――「備え」としての学びへ

みなさんは「マジカル・プランツ」という言葉をご存知でしょうか。この聞きなれない言葉は、「食虫植物」、「多肉植物」、「ティランジア」といったユニークな観葉植物の総称です。食虫植物愛好家兼ライターである星野映里さんの『大好き、食虫植物。―育て方・楽しみ方』が火付け役となって、とくに若い女性の間でトレンドになってきているそうです。今年、新たに『マジカルプランツ―食虫植物・多肉植物・ティランジアをおしゃれに楽しむ』(こちらは木谷美咲名義) が出版され、さらに話題を呼んでいます。

食虫植物といえば、「ハエトリソウ」や「ウツボカズラ」、「モウセンゴケ」などがポピュラーな植物ですが、これまでは高価で入手が難しかったり、栽培方法が十分に確立されていなかったりして、一般には手を出しにくい状況がありました。しかし、最近では、ホームセンターでも取り扱っているケースも増えてきているみたいです。今回は、この「マジカル・プランツ」から、学びへのヒントを引き出してみようと思います。

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Kunstformen der Natur“, Nepenthes

まず、食虫植物とは文字通り「虫を食べる植物」のことです。このように言うとグロテスクなイメージがありますが、よく観察してみると、その独特で精妙な生態に驚かされます。エコロジー思想のルーツであるエルンスト・ヘッケル(生態学,Ökologieyという言葉を造語)の『自然の芸術学的形態』,Kunstformen der Natur の中には、ウツボカズラの図が収録されていますが、外形だけではなく、その生態的メカニズムも驚異的なものがあります。また、もしかしたらそれが、虫たちだけではなく、人をも惹き寄せる魅力なのかもしれません。

『食虫植物の世界』(田辺直樹,以下の食虫植物についての記述の多くは本書に依っています)によれば、食虫植物=マジカル・プランツが他の一般の植物と異なっている点は、第一に、虫を捕まえる器官を備えていることです。そして、もう一つは、捕らえた虫から養分を吸収する仕組みを持っていることです。分布地域は世界中で、主に温帯地域に自生する。たとえば、ウツボカズラはマレーシア、インドネシア、タイ、フィリピン、ラオスなどの東南アジアからマダガスカルまで100種類以上が確認されています。大きさは様々で、大型のものではネズミを捕食した例もあります。

さらに、その捕虫器(ピッチャー)は巧妙な仕組みを備えています。ウツボカズラの場合、葉の先が袋状になっていて、中に液体が溜まっています。そして、入り口や蓋の部分からは蜜を分泌して虫を誘引します。そこに誘き出されて穴に落ちて溺れ死んだ虫から、養分を吸収して栄養を得ます。袋の内壁は、虫が這い上がれないように滑りやすい構造になってて、さらにロウ質が分泌されています。袋の中の液体は、根や茎を通じて常に一定量になるように調節されています。

ハエトリソウについても見ておきましょう。こちらは、口のように開いた葉が捕虫器で、この内側から虫を誘き寄せる蜜が分泌されています。葉の内側にはそれぞれ感覚毛が上下3本ずつあり、それに虫が2回触れると、素早く閉じて虫を捕らえるようになっています。なぜ2回かというと、虫が十分に捕虫器に進入してから捉えるためです。0.5秒ほどで葉は閉じられます。ちなみに、ハエトリソウは初夏に白い花を咲かせます。

以上、食虫植物の生態について詳しく見てきましたが、これらは、われわれに対してどのような学びのヒントを与えてくれるのでしょうか。ところで、ここで興味深いことは、じつは食虫植物にとって「捕食はオマケのようなものである」という事実です。どういうことか、説明しましょう。食虫植物の生息地は、熱帯のジャングルの中のように日当たりの悪い場所だったり、土壌から十分な栄養を吸収しにくい環境だったりします。そこで足りない分の栄養を食虫によって補うのですが、じつはほんの僅かでよく、虫を食べ過ぎると逆に栄養過剰で弱ってしまい、ひどい場合には枯れてしまいます。また、とくにハエトリソウの場合には、仕掛けを動かすのに大きなエネルギーを消費するため、何度も開閉させるとそれだけでも枯れてしまう原因になるのです。

つまり、食虫植物は、あれだけの周到で大掛かりな仕掛けを準備していながら、しかし、実際には、ほんの少しの栄養を補う程度の役目しか与えられていないのです。むしろ、そうでなければ自分自身の生存さえ危うくしてしまいかねません。ここには、目的のための過剰とも思えるような備えと、その結果として得られる成果との間の、奇妙とも思えるようなアンバランスさがあります。

さて、このマジカル・プランツのもつアンバランスさに、「学び」というものの性格との類似点を見出すことはできないでしょうか。といっても、ここで「学び」とはどのようなものかを明らかにしなければ抽象的な話に終始してしまいます。ここでは、物ごとをより深く考えるということと結びつけて見たいと思います。周知のように、西洋の知的伝統には「リベラル・アーツ」という考え方があります。リベラル・アーツとは、文学・論理学、修辞学の三科、それに算術、幾何学、天文学、音楽の四科からなる学問分野の体系のことです。そして、これらを修得することが教養、すなわち、普遍的な学知を探究することによって、人間として自由になるということだと考えられていました。

それは、すでにある問題をいかに早く解決できるかといったようなタイプの学びとは、あるいは、いわゆる学問における効率性や有用性とは別の方向性を示していると思われます。むしろ、必ずしも最終的な答えは出せないかもしれないけれども、考えるべき重要な問いがある、ということを含意しているのではないでしょうか。もちろん、実際に直面する問いというのは、おそらく局所的で小さなものに過ぎません。が、しかし、そうした小さな問いを解くためにこそ、非常に広範でかつ深い教養を要請するのが、リベラル・アーツの基礎にある考え方ではないでしょうか。

それでは議論をまとめましょう。ポイントは、ある種の学びや教養は、食虫植物のアンバランスな生態との類推として捉えられるのではないかということでした。いずれも、ほんの僅かな結果のために、莫大な備えを必要としています。一方は、虫を、そして他方は学びという獲物を待つために。もしも両者に「マジカルな」魅力があるとするなら、それは、じつはそうした「備え」の方にあるのかもしれません。

大窪善人

 

[批評]映画『トータル・リコール』から考える――あなたが感じる現実は本当に「現実」か

大窪善人です。

百木氏から、大窪も何か投稿してはどうかとリクエストをいただいたので、文章を寄せます。

今回は、8月10日より放映されている映画『トータル・リコール』についてお話ししようと思います。すでご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんが、まだ見ていない方はネタバレにご注意を。

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原作は、SF作家、フィリップ・K・ディック、「追憶売ります」(1966年)で、1990年に映画化され大ヒットした。今作は、そのリメイクバージョンで、監督は『ダイ・ハード4.0』を撮ったレン・ワイズマンである。もちろん、全編に渡って展開するキレのあるアクションも大きな見どころの一つだが、ここでは作品のコンセプトに注目して、思考を走らせてみたい。

リメイクによる大きな違いはまず舞台設定にある。前作は火星を中心にした物語だったが、今作では地球が舞台だ。だが、その舞台装置がちょっとおもしろい。近未来の地球は化学戦争によって、ほとんどの地域は人類が住めない場所になってしまっていた。やがて世界は再編され、ブリテン連邦/UFBと地球の反対側のオーストラリア大陸のコロニーと呼ばれる場所に二分される。コロニーの市民はUFBのための労働力として、「フォール」とよばれる巨大地底エレベータを使って二つの場所を行き来する。そして、コロニーでは自由と独立を求めてレジスタンス活動が行われている。これに対して、UFBはロボット警官(シンセティック)の配備を進めていく。

主人公のダグことダグラス・クエイド(コリン・ファレル)はコロニーの住人であり、退屈な毎日を過ごす労働者である(彼の職場はシンセティック製造工場である!)。だが、一方で、愛する妻(ローリー/ケイト・ベッキンセール)とともに、それなりの生活を送ってもいる。しかし、彼は繰り返し見る悪夢に悩まされている。そんなある日、クエイドはリコール社を訪れる。そこに行けば、自分のなりたい自分になれる夢を見ることができると聞いたからだ。そこで彼はUBFに立ち向かうレジスタンスという記憶を購入する。だが、記憶を注入しようとしたまさにそのとき、完全武装したUFBの警官隊が彼を包囲してしまう。

今作の基本設定は前作、あるいは原作とも異なるオリジナルのアイデアである。UFBとコロニーという隔絶した二つの地域が現代の格差社会の暗喩であることはほとんど明らかだろう。ここには現在のアメリカ社会の状況の反映が刻印されているとみることができるかもしれない。UFBとコロニーとを隔てる圧倒的な空間的距離は、二つの地域に住む市民同士の、ほとんど流動化不可能な階層的落差の象徴であるように思われた。さらに、そうした各自のポジションは能力ではなく、むしろ変更不可能な属性(UFB/コロニー市民)において定められているのである。

ところで、ハリウッド映画の成功にはある法則があるという。それはアメリカ人の夢、アメリカン・ドリームを描いた作品であることだ。ここでいうアメリカ人の夢とは、1.社会のはしごを上ること、2.平等な機会が与えられていること、3.新天地で成功すること、4.そうした結果として自分の家をもち幸せな家庭を築くことである(『ハリウッドはなぜ強いか』、赤木昭夫、筑摩書房、2003年より)。ハリウッド映画はアメリカン・ドリームを描き、売ることに力を入れてきた(同掲)。一方、この映画は、さしあたっては、そうしたアメリカ人の理想が現実化されることに対する圧倒的な困難を基礎においている、ということができる。

しかしながら、この映画において、ここで問題にしたい点は次のようなことだ。それは、「なぜ人は、現実を、現実それ自体のみによって肯定することができないのか」といういささか観念めいた問いについてである。以下ではこの問題に立ち入ってみたい。

クエイドは退屈な毎日を過ごす労働者である。彼はある日、自分がレジスタンスであるという夢を買う。しかし、彼が現実だと思っていた記憶は埋め込まれた偽の記憶であり、レジスタンスである記憶の方が本当の記憶だということが、しだいに明かされる。彼は、もとはUFBの幹部であったが、反逆し、レジスタンスに寝返っていたのである。しかし、その後、捕らえられ、偽の記憶を植えつけ生活させられていた。時折見る悪夢は、抑圧された過去の記憶がフラッシュバックしたものだったのだ。

ここで重要な役割を果たしているのは「夢」である。映画の中では、クエイドが見るレジスタンスであるという夢が、真実を媒介する糸口になっているのだ。しかし、どうして「夢」がそのような作用を果たすことができるのだろうか。この問いに答えるためには、いささか遠回りに見えるかもしれないが、ニーチェの夢についての考察が糸口になろう。通常、われわれは現実と夢とを比較した場合、前者の方により重要性があると考えている。たしかに「夢想」や「夢見がち」といった言葉はむしろ否定的なニュアンスを含んでいる。あるいは、より根本的にいえば、生きるということは、目覚めている状態の、この現実を生きることにほかならないといわれる。しかし、ニーチェはこの見方に対してまったく逆の考えを示しているのである。ニーチェは、仮像に対する(われわれの)熱烈なあこがれ、憧憬から、次のような命題を提示している。

「真に実在する根源的一者は、永遠に悩める者、矛盾にみちた者として、自分をたえず救済するために、同時に恍惚たる幻影、快楽にみちた仮像を必要とするという仮説である。仮像のうちに完全にとらえられており、また仮像から成り立っているわれわれ人間は、この根源的一者のつくり出した仮像を、真実には存在しないもの、すなわち、時間・空間・因果律のうちにおける持続的な生成として、ことばをかえていえば、経験的な現実として感じざるを得ない仕組みになっている。」(『悲劇の誕生』、岩波書店、1966年、50頁より)

ニーチェが言うように、仮に人間を根源的一者(=神)の被造物として捉えるとするならば、人間は神にとっての仮像ということになるだろう。あくまでも実在は神の方にあるからだ。しかし、人間の方から見れば、今度は逆に、神の方こそが幻影、あるいは仮像に感ぜられてくる。ここでは先の考えとは真逆の転倒がある。この考察を再度、夢と現実との関係として構成しなおすならば、「現実」につ
いての認識は同時に、「夢」に依存してもいるということである。そして、「夢」は仮像としての「現実」の仮像という限りで、いわば、「仮像の仮像」(同掲)なのだ。このような前提をおいて考えると、このようにいうことができる。つまり、「夢」が、「真実」、あるいは「現実」を媒介する糸口になっているのは、「夢」が「現実」のもう一つの側面をあらわしているからだと。

最後にクエイドと彼の同士であるメリーナ(ジェシカ・ビール)の二人がキスを交わす(正確には交わそうとする直前の)シーンで映画は終わる。しかし、その直前に、カメラは一瞬、リコール社の広告看板を映し出す。観客としての私は、ここで再びあの疑念へと引き戻されることになる。つまり、本当はレジスタンスであるというこの現実もまた夢なのではないのか、という。

「たとえどんなに説得力があったとしても、所詮、幻想は幻想でしかない。すくなくとも、客観的には。しかし、主観的には――まったく正反対だ。」(『トータル・リコール』、大森望編、ハヤカワ文庫、13頁)

大窪善人

2012年8月16日(木)、「京アカ夏まつり2012」を開催しました。

<京都アカデメイア・夏休み特別ustream企画 京アカ夏まつり2012>
会場:アカデメイアハウス(出町柳)

学生をはじめ、社会人の方にも来ていただき充実した会になりました。
当日の様子をまとめておきます。

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第一部 ビブリオ・バトル

京アカ初のビブリオバトル。今回は公式ルールに若干アレンジを加えて行いました。

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発表の順番を決めています。

1人目:大窪
サティピアノ作品集 第1巻』,全音楽譜出版社。
2人目:種村
さようなら、ギャングたち』,�高橋源一郎。
3人目:岡本
音楽する社会』,小川博司。
4人目:百木
暇と退屈の倫理学』,國分功一郎。

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毎発表ごとに5分間のディスカッション、さらに全体ディスカッション5分でチャンプ本を決定!

投票結果は、
1位『さようなら、ギャングたち』,高橋源一郎。3票
2位『暇と退屈の倫理学』,國分功一郎。2票
3位『サティピアノ作品集 第1巻』,全音楽譜出版社。1票
4位『音楽する社会』,小川博司。0票

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優勝者の種村さんには賞品として図書券を差し上げました。

参加していただいたみささん、ありがとうございました。

第二部 アカデメイア・セミナー

・テーマ:「体癖と思考」
・講師:小林哲也先生,(京都大学非常勤講師)

「体癖」とは、整体指導者・野口晴哉氏が大成したもので、体の癖の違いが人の行動や思考の違いをもたらしているという考え方です。

この考え方に従うと、たとえば靴底のどの部分が減っているか、何気ない日常の仕草、体型などをもとに、その人の性格の類型化ができるといいます。

セミナーではそれぞれの参加者の性格を体癖にもとづいて「診断」していただきました。

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小林先生

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興味津々。

後半では体癖に基づいた「体癖運動」の実演もあり、少しユニークなセミナーとなりました。

 食事会&五山観覧

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リラックスした雰囲気で食事&歓談中。

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大文字が見れました。終わりゆく夏を感じる。

 第三部 真夏の夜の討論会――もう一つの”ユニヴァーシティー”をめざして

2010年に京都アカデメイアがスタートして今年で3年目になりました。この討論会では、模擬授業、講演会、読書会、カフェなどのこれまでの活動を振り返ることでその意義を再確認すると同時に、これからの京都アカデメイアの進むべきビジョンを展望しました。また、それを通じて、大学や学生、社会人にとっての学びのあり方、さらには、そもそも学問的に、知的に思考するとは何かという問いについても考えました。

パネリスト
百木 漠
浅野 直樹
池畑 索季
板垣 遼
岡本 竜樹
大窪 善人(司会)

開始直後、これまで京アカを牽引してきた百木氏から重大発表!?

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突然の、百木引退宣言!? 一同騒然!

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ともあれ、討論は進行。浅野氏からこれからの京アカの展望を報告。3年間で、成功した試み、上手くいかなかったことを総括。

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社会人にとっての京アカの可能性とは?

後半は、「学問」とは何か、大学を成り立たせる社会とはなど、根本的な問題に立ち入って議論がなされました。

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議論は深夜まで白熱し、終了したのは予定の終了時刻を2時間近く超えた時でした。

ふだんの生活では、あるいはこれまでの京アカのイベントでも触れられなかった深い議論ができました。

イベントにご参加いただいた方、ustreamで視聴してくださった方、そしてスタッフのみなさまにあらためて感謝を申し上げておきたいと思います。みなさまの参加、協力なしに、あるいは京アカのこれまでの活動の実績・経験がなければ、短期間にこれだけの企画を準備し開催することは到底不可能だったでしょう。

もちろん、これで京アカの活動が終わってしまったわけではありません。今後も、ますます活発に活動は続けられていくはずです。
これからも京都アカデメイアにたいするご理解、ご参加をよろしくお願い申しあげます。

文責:大窪善人(モデレーター)

掲示板ができました!

京アカサイト、目下リニューアル中でございますが、このたび掲示板を設置しました。
メンバー以外の方も、お気軽に書き込んでくださいね!
http://kyoto-academeia.sakura.ne.jp/index.cgi?rm=mode2&menu=bbs

ちなみに(あ)氏のプログラミングによるオリジナル掲示板です。
使いやすいですよ。
お気づきの点などもあれば教えてくださいね。

京アカ夏まつり!

夏休み企画のお知らせです!

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<京都アカデメイア・夏休み特別ustream企画 京アカ夏まつり2012>

来週の8月16日のお昼から、アカデメイアハウス(出町柳) で「京アカ夏まつり」を開催します!
ビブリオバトルやセミナー、ディスカッションなど盛りだくさんの内容です!!

■日程:8月16日(木),正午~午前0時。

第1部:ビブリオバトル(12時~14時)

1人10分で好きな本1冊を紹介。ジャンル問わず。
ただ今、参加者を募集中です。参加希望の方は当日までに kyotoacademeia@gmail.com へご連絡ください。
定員5~6名。優勝者には素敵なプレゼントを差し上げます。

第2部:アカデメイアセミナー(15時~18時)
大学院生・社会人等が発表者となり、多彩なテーマで講演します!

・夕食会&五山観覧(19時~)

第3部:真夏の夜の討論会:もう一つの”ユニヴァーシティー”をめざして(21時~0時)

2010年に京都アカデメイアがスタートして今年で3年目になりました。この討論会では、模擬授業、講演会、読書会、カフェなどのこれまでの活動を振り返ることでその意義を再確認すると同時に、これからの京都アカデメイアの進むべきビジョンを展望します。また、それを通じて、大学や学生、社会人にとっての学びのあり方、さらには、そもそも知的に思考するとは何かという問いについても考えます。

■会場様子はustreamで配信。リアルタイムで参加できます!
京アカustはこちらです。 http://www.ustream.tv/channel/kyoaca

今年の夏は一日ずっと”京アカ”!

大窪善人

6月作戦会議議事録

浅野です。

もう7月になってから日も経ちますが、6月8日(金)の作戦会議で話し合われたことを記録しておきます。当面のところは毎月第2金曜日に作戦会議をしようということに決まり、明日が7月の会議日なので、それまでにまとめておかないとと思い立ちました。

最近はUstreamでの生中継イベントをしています。第1回は「ノマドと知のこれから~ブロガー玉置沙由里に聞く」、第2回は「京大J地下の夜間閉鎖問題を考える」でした(第2回はごく最近のことで6月の作戦会議では話し合われませんでしたが)。今後もこの路線の延長を考えています。

それまでは「アカデメイア・カフェ」というタイトルの下で、議論をする場を設けてきました。そちらに関しては「食」、「サブカルチャー」、「Facebook」などの案が出ました。もっとも、Ustream中継とアカデメイア・カフェとの区別や目的の整理などをしておく必要があります。

その他、1, 2年前によくしていた模擬授業を復活させることや、ビブリオバトルをやってみるということも提案されました。

勉強会(自主ゼミ、読書会)については小説関連のものをするとか、公共政策関連の本を読むとかの案があがりました。既存の会も含めて整理したいところではあります。

そうした整理やWeb上で情報をまとめる作業は残念ながらあまりできておりません。少しずつ時間を見つけてできればと思っております。

第2回アカデメイア・ラジオ <京大J地下の夜間閉鎖問題を考える>

百木です。
次回イベントのお知らせです。

<第2回 アカデメイア・ラジオ(ust中継)>
テーマ:京大J地下の夜間閉鎖問題を考える
日時:7月7日(土)20~22時

ustreamアドレス:http://www.ustream.tv/channel/kyoaca
内容:
先日、大学側から突然に発表された京都大学法学部棟地下の夜間閉鎖問題について、京大法学部自治会の方をゲストに招いて議論します。この問題について、賛成・反対という議論で終わらせるだけではなく、1月のアカデメイア・カフェで議論した「最近の大学ってどーなん?」の続編として、最近の京大正門閉鎖問題同志社の交番導入問題など、「大学の管理化・クリーン化」が進んでいることの問題点について広くお喋りできればいいなと考えております。

お時間ある方はust中継をご覧頂ければ幸いです。コメントでの参加も歓迎です。
(動画アーカイブするかどうかは終わってから判断します)
また前回同様、ust中継前に18時頃からシェアハウスで内輪の食事会を行う予定です。
こちらにももし関心ある方がいらっしゃればご連絡ください。
よろしくお願いします。

<京都アカデメイア×玉置沙由里 ustream中継> ノマドと知のこれから~ブロガー玉置沙由里に聞く

百木です。
前回の玉置沙由里さんとのust中継動画はこちらです。

<京都アカデメイア×玉置沙由里 ustream中継> ノマドと知のこれから~ブロガー玉置沙由里に聞く
http://www.ustream.tv/recorded/23024032

まとまった文章を書こうとしていたのですが、うまくまとめてきれませんでした。すいません>
代わりにOくんが熱心に取ってくれたノートのデータをアップしておきますので、関心ある方はご参照下さい。
https://docs.google.com/file/d/0Bx7L-njNF6cJYzNvZkhibWR5Nm8/edit?pli=1

いちおう、箇条書きで当日に出た論点をまとめておきます。

・最近のノマドブームでは、ノマドワーキングという狭い意味でのみノマドが理解されているのが残念。ノマドにはミクロな意味(ノマドワーキング)だけでなく、人類史的なマクロの意味があり、そちらが見落とされている。たとえば、ジャック・アタリというフランスの哲学者は『21世紀の歴史』という本の中で、21世紀には人類全体がハイパーノマド、ヴァーチャルノマド、下層ノマドという三つのノマド層にわかれていくと予想した。このように「ノマド化」は一時的なブームに解消されるものではなく、人類史的な意義をもつ現象であるととらえるべき。(玉置さん)

・私は「第八大陸」という概念を提唱してきた。それは現実の七大陸に加えて、ネット上に新しい大陸=第八大陸が出現している、という意味。それは単に架空の空間ではなく、現実空間とリンクしたバーチャル空間。私たちは自分の意志でこの世界に生まれてきたわけではないし、自分の名前も親から与えられたもの。しかし、第八大陸には自分の意志で参入することができ、名前も新しく自分でつけ直すことができる。(玉置さん)

・しかし、玉置さんがいう「ノマド的な生き方」は一部の特殊な能力や性格(コミュニケーション能力、人間的魅力、社交性、露出耐久力など)をもつ人にだけ実践可能なものではないのか?(京アカ)

→たしかにそういう側面はあるが、もしノマド的な生き方が嫌ならば自分はそれを他人に強制するつもりは全くない。非ノマド的な生き方をしたい人はそのままでいいのでは。(玉置さん)

→それを単純に「人それぞれ」の問題で終わらせてよいのか。もしアタリが言うように、人類や社会全体が「ノマド化」の方向にむかっているのであれば、「ノマド的な生き方が嫌なら、それ以外の生き方をすすればいい」というだけでは済まないのではないか。むしろ、皆が好むと好まざるとにかかわらず、ノマド的な生き方・働き方にある程度は巻き込まれざるをえない状況が出現しているのでは?(京アカ)

→それは難しい問題。自分が「第八大陸」と呼ぶネット上の空間では、これまでの社会とは違った基準の価値観が生まれるようになるだろう。そこで新しい格差のような問題は生じてくるかもしれない。でも、「第八大陸」から生まれる新しい可能性や面白みもあるはずで、自分としてはそれを追求していきたい。(玉置さん)

・玉置さんは、第八大陸には自分の意志で生まれることができる、自分で新しく名前をつけることもできる、と言っているが、ソーシャルメディアなどに疎い人間からすれば、第八大陸においても自由意志で生まれるという感覚はない。むしろ第八大陸に強制的に参加させられているという印象すらある。そのような感覚をもってしまっている自分のような人間はこれからどうやって生きていけばよいのか?何かコツやノウハウがあれば教えてほしい。(京アカ)

→その感覚はとても面白い!とくにコツやノウハウなどというものはない。自分がやりたいことを追求し、自分に合ったライフスタイルを追求していたら、こういう生き方になった。何か努力して身に付けるという感覚ではない。自然に振る舞えばよいのでは?無意識なキャラ化。(玉置さん)

→努力して能力を身につけるのではなく、自然にあるがままに振る舞えば理想の自分が実現できる、という言い方は興味深い。それは例えば、就活問題に引きつけていえば、本田由紀さんの提唱する「ハイパー・メリトクラシー」問題に近い。努力によって身につけることができない、天性的な能力・性格だとしたら、それはなかなか残酷な問題なのでは。(京アカ)

・自分がMG(X)などで実践している活動は、「ビジネス」ではない新しい経済圏の創出というイメージ。同じ意志を共有する人たちが集まってきて、いろいろ新しいこと・興味あることを試してみる空間。いまや企業に頼らず、個々人がそれぞれの経済圏を創出できる時代になった。(参考:岡田斗司夫さんの「評価経済社会」)(玉置さん)

→それに関しても、自分独自の経済圏を創出できる人とできない人との間で新しく格差が生まれるのでは?また、そのような新しい経済圏が、最終的には資本主義に回収されていくものなのか、あるいは資本主義とは異なる新しい経済空間/コミュニティ空間を生み出すものなのかが気になる。(京アカ)

→その二つを区別する必要はあるのか?あまりそういった意識はしていない。ただし、単純に既存の資本主義経済に飲み込まれて一時的なブームで終わらせるつもりはない。(玉置さん)

いまの社会は「カネ余り」状態なのでは。これだけ物質的に豊かな社会で、ソーシャルメディアも発達していれば、そもそも暮らしていくのにあまりお金がかからない。お金を稼ぐために嫌な思いをしてまで働く必要はなく、もっとささやかな収入で豊かに暮らしていくこともできるのでは。京都アカデメイアもあまり「ビジネス化」することを意識しすぎないほうがいいかもしれない。お金に還元されない、物や知識の交換という道もあるのでは?(玉置さん)

他にももっと面白い話題がたくさんあったのですが、とりあえず思い出せる範囲で書いてみました!
余裕があればまた後日更新するかもしれません。

京アカの近況と畑の近況

おひさしぶりです。(む)です。

しばらくブログを書いておりませんでしたね。
ご無沙汰してしまいましたが、近況報告をさせていただきます。

さいきんは、ちょっとのったり気味のわれわれです。
主要メンバーがそれぞれ多忙であったり各地に散っていたりして、ここのところ大きなイヴェントなどはなかなか企画できずの状態であります。
とはいえ、月イチで食事会&会議を開くなどの集まりは、ぼちぼちと続けております。
それらの会に新規の方が来てくれたり、こんなことしてみたいあれやりたいとアイデアが出されたりもしています。
そのアイデアがなかなか実行できぬのがもどかしくはありますが、一日発言しなければ忘れ去られてしまうんちゃうかというネット時代的強迫に満ち満ちた昨今、そんな中でスローにやっていくのんもまたよいのではないかとおもいます。
(いや忘れ去られるも何も、そもそも忘れ去られるほど知られてもないのだが。)

先日の食事会の写真です。
「(できれば)一品持ち寄り」制。てづくり南蛮漬けやなますなど、みんないろいろもってきてくれました!

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でかいチヂミを焼きました。

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この後、今月のイヴェントとして、玉置沙由里さんとのUst中継をしたのでした。
ご覧くださった方、有難うございます。
今回は、主にこちらから、常々疑問に思っていたことを玉置さんに質問するという形でしたが、また違う形でもやってみたいなと思っております。
この日の録画はこちらから。

なお中継中に貼っていた紙はコレです↓
背景がさみしかったのでなんか貼ろうと思い急遽つくったのだがうまく貼れず… かなしいのでここにupしておきます。

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畑のほうも、ぼちぼち、であります。たねまきの時期を逸して初春撒き野菜が上手く収穫できんかったのでありますが、初夏撒き野菜は上手くいけば夏にたんと獲れるはず!!
先日は、秋に植えたニンニクとエシャロットを収穫してまいりました。
剥いたり炒めたりして食べました。美味!

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これだけの量をいっぺんに食べたので、現在皮膚からニンニク臭が立ちのぼってゐる状態です。
これで終わるのもなんですが、このへんでそろそろ。

ではまた!

タマキサユリ問題

百木です。先日、久しぶりに大学の後輩の玉置沙由里さんとスカイプで話をしました。ご存知の方も多いかと思いますが、玉置沙由里さんはいわゆるノマドブロガーとして有名な方で、ブログ「女。MGの日記」MG(X)プロジェクトなどを主宰し、ノマドとして新しい生き方を実践しておられます。僕は彼女が京都大学の総合人間学部にいた頃からの知り合いで今でも仲良くさせてもらっており、彼女には一昨年の11月祭で京都アカデメイアが主催した公開討論<大学と学問のこれから>にもパネリストの一人として参加してもらいました。

スカイプで議論した内容は「ノマドという生き方は誰にでも実践できるものなのか?」ということでした。これは以前から僕が気になっていたテーマだったので、最近のノマドブームに一役買い、自らがノマド的な生き方を実践してきた玉置さんがその点についてどう考えているのかを聞いてみたかったのです。すると彼女自身、この点についていろいろ思うところがあったらしく、なかなか話は盛り上がりました。そこで議論した内容と、その議論から僕なりに考えたことを簡単にまとめておきます。

そもそも「ノマド」という用語に馴染みのない人もいるかもしれません。ノマドとはもともと遊牧民を意味する英単語ですが、最近では「いつも決まった場所ではなく、カフェや公園、お客さんのオフィスなどでノートパソコン、スマートフォンなどを駆使しネットを介して場所を問わずに働くスタイル」が「ノマドワーキング」として知られるようになりました。その背景にはソーシャルメディアやクラウドなどのネットサービスの発達があります。最近では、ノマドワーカーの一人として人気のある安藤美冬さんが情熱大陸に取り上げられたり、日経新聞で連載特集記事が組まれるなど、ネット界隈やビジネス界を中心にしてその認知度が高まっています。

玉置沙由里さんは自身のブログで「露出社会」「創職時代」「パトロン制度」「合脳主義」「第八大陸」「没落エリート」など、様々にキャッチーな造語を作りながら、プロブロガーとしての生き方を実践してこられました。ノマドについては2年前の2010年時点で「都市ノマド」という概念を提唱し、こんなブログ記事を書いています。もともとはITジャーナリストの佐々木俊尚さんが2009年に『仕事するのにオフィスはいらない』という本の中で「ノマドワーキング」を提唱したのがきっかけだったと思います。

しかし、佐々木俊尚さんと80年代生まれの若者4人が対談したこの記事でも、佐々木さんが冒頭で述べておられますが、ノマドとは本当に誰でも実践できる生き方なのか?ノマドはノマドで結構厳しい生き方なのではないか?という疑問や批判も最近ではなされるようになってきているようです。数ヶ月前に、浅野さんが岡田斗司夫さんの講演会内容をまとめたブログ記事で彼の提唱する「3万円ビジネス」や「評価経済社会」について書いておられましたが、その記事を読んだ僕の正直な感想は「うーん、それって会社勤めよりも大変な生き方なのでは??」でした。(同じ疑問は「就活」をテーマに議論した第2回アカデメイアカフェでも出ていました)

例えば岡田さんは「就職のオワコン化」にたいして「3万円の仕事を10個、1万円の仕事を10個、無償の仕事を20個、マイナスの仕事を10個の計50個くらいの仕事をする」という3万円ビジネス的生き方を提案しておられるわけですが、はっきり言って3万円ぶんのビジネスを50個やるって相当なブラック企業並みの働きっぷりになるのではないでしょうか。浅野さんも自分自身それに近い生計の立て方をしていると言いつつ「50個というのは体力的にも時間的にも無理」と書いておられます。僕も同じ意見です。もちろん岡田さんが言いたいのは、すべての人に50個分の仕事をしろということではなく、それぞれの能力や希望所得に応じてできる範囲のことをやればいよい、ということなのでしょう。ただしそのことを考慮したとしても、やはり3万円ビジネスや評価経済社会的なワークスタイルで生計をずっと維持していける人はさほど多くないのが現状であると思います。(岡田さんが提案する50個の半分=25個の仕事→月収20万円を毎月継続的にこなしていくだけでも結構大変なのでは)

では、「ノマド的生き方がすべての人間に実践できるわけではない」とすると、それを実践できる人と実践できない人を分ける境界線は何でしょうか。ひとまず思いつくままに列挙すると、「コミュニケーション能力」「社交能力」「露出耐久力」「流動性への耐久性」といった能力・性格ではないでしょうか。

例えば玉置さんのユニークな造語のひとつに「露出社会」がありますが、ソーシャルメディアやスマートフォンを活用してノマド的生き方を実践していくためには、かなりの程度まで自分がどういった人間であり、普段何を考えている人間であるのかという個人情報をネット上に晒していくことが必要になります(ほとんど素性が知れないような人間にたいしては、ネット上でも仕事や寝る場所を提供しようという人は現れないでしょうから)。このような「露出耐久力」がある人にとっては、それはむしろ楽しいことなのかもしれませんが、そういった「露出」に抵抗を感じる人も多いはずです。「ダダ漏れ女子」で有名になったそらのさんがある日の放送をきっかけに叩かれまくった例などを見れば、露出への恐怖を感じる人も多いのではないでしょうか。

また「これからの時代は企業や組織に属さなくても、ソーシャルメディアなどの繋がりから仕事や居場所をGetできる!」という場合にも、見知らぬ人と積極的にネット上でやり取りをしたり、積極的に人脈を広げたり、人に会いに行ったりする社交性やフットワークの軽さが必要になります。企業や組織に属していれば、自由度は制限されるけれども、安定した人間関係のなかで仕事ができる(さほど社交能力がなくても仕事ができる)というメリットがあります。このあたりは人によってどちらを働きよいと感じるかが分かれるところでしょう。流動的な環境が好きか、固定化された環境が好きか、という違いかもしれません。

こういった「コミュニケーション能力」「社交能力」「露出耐久力」「流動性への耐久性」などの能力・性格を持っている人にとっては「ノマドワーキング」や「ノマド的生き方」は新しい可能性を切り開く希望に満ちた働き方・生き方かもしれませんが、そのような能力・性格を持たない人にとってはそれは今以上にしんどい・辛い働き方・生き方になるかもしれません。つまりは、「ノマドはごく一部の能力や性格をもつ特殊な人たちにしか実践できない生き方である」にもかかわらず、「これからの時代はノマド的な生き方が新しい!そうしないと生き残っていけないよ!」という規範意識(言説)が形成されてしまう現状があるのではないでしょうか。仮にこれを「タマキサユリ問題」と名づけておきます(笑)

僕はべつにノマド的-評価経済的な生き方を批判したいわけではありません。閉塞感ばかりが高まる昨今の日本社会において、そういった新しい自由な生き方が可能になったこと自体は良いことだと思いますし、そうした新しい生き方を実践する人たちがたくさん出てくることで、日本社会を良い・面白い方向に変えていってくれるのであればそれは歓迎すべきことだと考えています。ただし、僕が警戒的なのは「いまや会社や組織に依存した生き方はもう古い。そんなやり方ではもう生き残っていけない。これからはノマドの時代で、みんなノマド的な生き方・働き方を実践していくべきだ」という言説に対してです。あえて戦略的にやっておられるのかもしれませんが、例えばネットジャーナリストの佐々木俊尚さんや梅田望夫さんなどの発言からは、端々にそういった「べき論」を感じ取ってしまいます。最近はややスタンスを変えているようですが、少し前までの玉置さんの発言からも僕はそのような主張を読み取っていました。

そこで先日のスカイプではそのあたりの疑問をいろいろ玉置さんにぶつけて訊いていたのですが、予想以上に話が盛り上がったので、これは京都アカデメイア×玉置沙由里でust中継でラジオをしようよ!という話になりました。先日の記事でも書いたとおりですが、6月2日(土)の20時~ust中継をすることになりましたので、関心ある方はぜひご視聴ください。当日のコメント参加や事前の質問受付なども募集しております。よろしくお願いします。

<京都アカデメイア×玉置沙由里 ustream中継>
テーマ:ノマドと知のこれから~ブロガー玉置沙由里に聞く
日時:6月2日(土)20時~

URL:http://www.ustream.tv/channel/kyoaca
参考:玉置さんのブログtwitterfaceboook現代ビジネスでの連載プロフィール