第2回 アカデメイア・カフェ<就活の「くだらなさ」を超えて>のまとめ

 

先日行われた第2回アカデメイア・カフェ<就活の「くだらなさ」を超えて>のまとめです。例によって浅野個人による主観的なまとめですので、補足や修正があればお願いします。

*今回はUstream中継動画の録画を公開しておりません。どうしてもその録画を見たいという方がもしもいらっしゃいましたらお問い合わせください。

就活の「くだらなさ」

前半は自己紹介から就活の「くだらなさ」へと自然に話が移行しました。振り返ってみれば、就活にうまく乗ってきましたという人が参加者の中にはいなかったように思います。まぁそれもこのようなテーマを掲げたのだから仕方ないかもしれません。

就活の「くだらなさ」とは、今就活を経験している人や少し前に経験した人に言わせると、大学3回生のある時から「就活ヨーイ、ドン」と号砲が切られて、スーツを買え、就活サイトに登録しろ、どのような仕事をしたいか考えろ、と一斉に急き立てられることです。そしてその流れに乗って企業にエントリーシートを送ったり面接を受けたりしても、よくわからない基準で落とされ続けると嫌になります。就活の「くだらなさ」とは画一的な競争を煽られることであり、しかもその競争の勝敗の基準がはっきりとしないことです。受験競争も画一的な競争ではありますが、まだ勝敗の基準ははっきりとしています。

この就活の「くだらなさ」を採用する側から見たらどうなるのでしょうか。今回の場では企業の採用に携わるなど様々な経験をされてきた方が採用活動の裏側を惜しげもなく披露してくださいました。それによると、不動産の物件と同じで、そもそも好条件の仕事は関係者のコネなどですぐに埋まってしまい、就活サイトに出されているものはその残りだということです。積極的に人を集めようとする企業は従業員が定着せずに辞めていくからいつも募集をかけているわけであり、就活サイトにお金を払って自社を美しく飾ってもらって人を集めているのです。虚飾が少ないという意味では、労働条件を明示することなどを法律で義務付けられている職業安定所(ハローワーク)のほうがよほどマシです。

このような状況ではあっても、就活サイトで募集をかければ履歴書の束が数センチにもなるほどに応募があるそうです。その内容を全て吟味することなど到底不可能で、採用担当者の目に留まりたければ履歴書を芸術作品にするくらいのことをしなければならない、と採用担当を経験した参加者は言っていました。しかも採用担当者にはバカな人もいるわけだから、なぜわざわざそのような枠に入ろうとするのか理解できないとも付け加えられました。採用の現状がこれなのですから、「こうすれば就活で採用される」などという一般的な解などないのです。

その代わりに、研究室の先生に推薦してもらう、製品の展示会などで役員と意気投合する、などして個人的なつながりをつくるとスムーズに事が運ぶとのことです。いきなりそのような形で関係を作るのが難しければ、どこでもいいからいったんアルバイトとしてでも関連企業に入り込み、技術を磨きながらお目当ての企業役員や採用担当と知り合う機会を探ればよいのです。これだけ就職が難しいと言われている時代であっても、特に中小企業の社長の中には後継者を探しても見つからずに困っていて、日夜出歩いている人も多いそうです。

あるいは人に雇われる道ではなく、自分で独立して仕事をするという道もあります。そして仕事がなければ創り出せばよいのです。最近の言葉では創職やノマド、3万円ビジネスと呼ばれている路線です。岡田斗司夫講演「私たちは生涯、働かないかもしれない」@同志社大学のまとめと感想も参考にしてください。昔からの言葉で広く含めるならフリーランスですね。

ここまで話が進んで私はふと疑問に思いました。就活に乗れず、かといって会社の偉い人と仲良くなるような要領のよさもなく、独立して仕事ができるほどの能力も創職するほどのガッツもない人はどうすればいいのかと。この議論の場では仮に「草食」や「まったり」と呼んでいた人たちです。

就活の「くだらなさ」を超えた先は創職なのかそれとも草食なのか。休憩をはさんで後半に入りました。

「くだらなさ」を超えて

前半では、大学の3回生くらいから一斉にスーツを着て専用のサイトに登録し、企業の選考を受けることを就活(就職活動の略で「シューカツ」とカタカナ表記されることもある)と呼んで、その「くだらなさ」を指摘してきました。そうすることによって今まさに就活で苦しんでいる人の心の救いになることが考えられます。しかしそこに留まっていては生産的ではないので、就活の「くだらなさ」を超えてさらに進もうというのが今回のアカデメイア・カフェの目標でした。

就活の「くだらなさ」を超えて進むのだといくら力を入れても、就活の存在を前提にしていてはなかなか話が進みません。こういうときは歴史の力を借りて就活を相対的に眺めてみましょう。

大雑把に言って、江戸時代以前の封建的な中世の社会では、原則的に職業は世襲でした。職業選択の自由がない反面、親の跡を継げば仕事はありました。そこでは大多数の人が農民で、職人や商人、武士が少数いました。明治以降の近代社会では工場や事務所などで働く賃金労働者が増加しました。この傾向は現在でも続いていると言えそうです。

そうした賃金労働者がどのようにして集められたのかと言えば、中学や高校を通して新卒者が企業に紹介されることが多かったと推測されます。私の世代(1980年代前半生まれ)でも、高校に来ている求人から選んで応募するという光景は思い浮かべることができます。大学でも、特に実験系の研究室では、学校推薦で就職するという形が残っています。

そのような状況から現在の就活へと移行するのにはインターネットが大きな役割を果たしました。それまでは高校や大学によって応募できる企業が限定されていたのですが、就活サイトを通すとたくさんの企業に応募できるようになりました。そうは言っても大学生が企業のことを詳しく知っていることは少ないでしょうから、有名さやイメージで応募する企業を決めるということになりがちです。毎年人気企業ランキングが発表されますが、そこに登場する顔ぶれは大体同じです。このようにして前半で指摘した雇用のミスマッチが起こったと考えられます。

就活に関係したもう一つの最近の変化はグローバル化にともなう雇用環境の変化です。その筋には有名な、日経連が1995年に出した「新時代の『日本的経営』」を参考にすると、企業が正社員として雇用するのはごく一握りの管理職だけにして(「長期蓄積能力活用型グループ」)、残りは非正規雇用にする(「高度専門能力活用型グループ」と「雇用柔軟型グループ」)という方針がはっきりと見て取れます。非正規雇用の人たちはずっと雇うわけではないのですから、日本人に限定せずその都度人件費の安い人を採用すればよいということです。この路線で考えると正社員の新卒一括採用を前提とした就活は前時代の遺物に過ぎません。

このような変化の末路を幾分誇張するなら、一方には正社員で待遇が保障されているけれども過労死するほど働かされる人がいて、もう一方には仕事がなかなか見つからず見つかっても待遇の悪い非正規雇用だという人がいることになります。過労死か失業か——というどちらを選んでも悲惨な状況です。

思い起こせば日本でバブルが崩壊した1990年代以降は、多少の浮き沈みはあってもずっと就職の難しい状態が続いてきました。バブルの頃は企業が応募者の交通費を負担するのは当たり前で海外旅行などの接待までして採用しようとしていたと聞くのに、現在では応募者が涙ぐましいまでの努力をしてもなかなか採用されない有様です。いくら学力低下だと言われていても、たったの10年や20年でそこまで若者の学力が落ちることはさすがにないでしょう。コミュニケーション能力にしても、最近の若者はソーシャルメディアなどで熱心にコミュニケーションを図っているのですから、昔と比べて大幅にコミュニケーション能力が落ちたとも思えません。そもそもこの「コミュニケーション能力」という言葉は何を指しているのか曖昧ですけれどね。

現状を嘆いてばかりいても始まらないので、そろそろ就活の「くだらなさ」を超えた先を考えましょう。一つには前半にも話が出ていた創職(ノマド)路線です。良くも悪くもグローバル化は進行しているのですから、日本で仕事がなければ海外で仕事を見つけるか創るかすればよいのです。これまで日本国内で培われた知識や技術を必要としているところはきっとあるでしょう。物価にしても日本と比べて大幅に安い国がたくさんあるので、日本国内でいくらか資金を貯めていけば十分に事業を始めることができるでしょう。

そうは言っても草食(まったり)路線の人たちは海外に出ることを選ばないでしょう。日本で生まれ育ったという事実は消せないのですから、その経緯を無視して海外に行けと強制するのは乱暴です。こうした人たちの最後の希望の綱は生活保護です。仕事がなければ生活保護を受給すればよいのです。生活保護と言うと抵抗があるなら、今時風にベーシックインカムと言ってもよいでしょう。

海外で創職するか日本で生活保護を受給するかというだけでは両極端なので、もう少し中間的なあり方を考えましょう。生活保護の前には失業給付などがあります。しかし日本の生活保護以外の福祉的制度はかなり貧弱ではあります。非正規雇用であれ働いているのなら、労働組合に入って待遇をよくすることも可能です。よくよく調べてみれば非正規雇用でも有給休暇は当然に発生しますし、期限の定めのない雇用なら簡単に解雇することはできません。そして何より2人以上が集まれば労働組合を作ることができ、労働組合が団体交渉を申し入れると使用者が断ることはできず、使用者が無茶な応対をするなら、労働組合は刑事上も民事上も免責される団体行動に打って出ることができます。ただし労働組合と一口に言っても内実は様々で、特に非正規雇用であれば企業内組合よりも地域のユニオンに相談したほうが親身に対応してもらえる可能性が高いと思われます。

もっと別の道を探るなら、自分たちで共同体を作ることも可能かもしれません。何も企業に雇用されて賃金を得るだけが生きる道ではないのですから。衣食住さえ確保すればどうにかなるかもしれません。日本の地方部では過疎化が深刻だと聞きます。住むところを見つけて、農作物を作りながら、必要に応じてお互いに助け合ったり物々交換をすれば立派な共同体になります。しかしそうした生活を捨てて都会に出てきた人たちが過去にたくさんいたわけで、ましてや今の時代にそうした生活が本当に可能なのかという疑問は残ります。そこまで厳密に考えずにできるところから始めれば案外できるものなのかもしれませんが。

このように就活の「くだらなさ」を超えて大きな展望を描こうとすると政治の領域に踏み込まないわけにはいきません。雇用環境や福祉などの社会制度を決めるのは政治ですし、地方と都市の問題にも政治が大きく関わっています。決められた枠の中でいかに立ち回るかを考えるだけでなく、その枠そのものを疑うことがあってもよいと思います。

教育という観点を導入しても面白いでしょう。現在ですと、高校や大学でフリーターはいかに損かということが教えられ、就活サイトや企業の合同説明会に参加することが勧められます。しかし今回の議論を踏まえるなら、創職(ノマド)の基本的な技術が教えられてもよいはずですし、生活保護の受給の仕方や労働組合の使い方が教えられてもよいはずです。共同性を育むということも重要な課題です。

ということで少し強引ですが、教育について考える場として、3月10日(土)の13:00〜15:30に山の学校で行われる次回の第3回アカデメイア・カフェ「今、教育を考える」をよろしくお願いいたします。Ustream中継は行いませんので、ご都合が許されましたらぜひ直接足をお運びください。

「多分野学生ワークショップ in 大阪」のお知らせ

こんにちは、百木です。
京都アカデメイアの活動に関心ありと連絡を頂いた生塩様から
京都アカデメイアの活動と同趣旨のイベントを開催するとの情報を
頂いたので、こちらに転送させていただきます。

添付資料もご覧のうえ、関心ある方はぜひご参加ください。
26日(日)のアカデメイアカフェもまだ参加者募集していますので、
関心ある方はご連絡ください。よろしくお願いします。

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大学や理系文系の枠を超えて学生が交流し、知見を広げ、
アウトリーチ活動などをすることを目的とした会を企画
致しました。気楽な会です。是非、ご参加ください!

「多分野学生ワークショップ in 大阪」
日時:3月3日(土)午後2時ー4時半
場所:大阪市西区民センター 第4会議室
参加費:300円(会場費などの充当)
定員:30名(先着順)
申込方法:下記WEBサイトより(締切:3月1日正午)
http://kokucheese.com/event/index/27341/

主催者:生塩研一

<開催趣旨>

多分野にわたる大学院生や学部学生が集まって、大学の枠や文系理系の枠を超えた交流を通して「知の友」を作り、知見を広げ、自身を客観的に捉え直したり、他分野のアイデアを自身の研究に活かしたり、多分野の仲間でアウトリーチ活動をしたりすることを目的として交流するワークショップを行います。

私は、理学・工学・医学と多分野に渡って研究・教育の現場を経験しました。その中で、学部や専門分野にかかわらず、学部教育では受動的な講義に出て卒論で専門的な研究を少しする程度、大学院では狭い専門に安寧として他分野の研究はあまり気にしないといった状況が改善されないのを残念に感じてきました。そもそも、米国では大学で、欧州では中等教育で教養教育をしっかりと受けるのに対して、日本では高校から文系理系に分けられるため、自ら求めない限りバランスが欠けがちです。変化の激しい時代を生きるには、幅広い教養を身に付け、自ら考えて動き、多様な人脈をもって仕事に取り組むべきだと考えます。

そこで、 大学院生らが大学や文系理系といった枠を超えた「知の友」を作る交流の場を企画してみようと思い立ちました。「知の友」で人的ネットワークを構築し、知見を広めたりアウトリーチ活動などを経験したりすることは、自身の研究を相対化できるだけでなく、思わぬヒントを得ることも少なくないでしょう。多様な人脈は研究や仕事のいろいろな面で活きてくるはずです。

 ★ ともに学び高め合う異分野の仲間が欲しい
 ★ 将来が何となく不安だ
 ★ いろいろなアイデアを吸収したい
 ★ 就職や就活、将来の転職に備えて人脈作っておきたい
 ★ 専門バカになりたくない
 ★ 自分とは異なる研究分野に興味がある
 ★ 他分野のアイデアを自分の専門に活かしたい
 ★ 自分の専門を俯瞰的に捉え直し相対化したい
 ★ 境界領域の研究に興味がある
 ★ 文系理系を分けることに違和感を感じる

そんな大学院生・学部学生の皆さん、似た意識をもつ者同士の交流の場に参加してみませんか?

会では、各自の研究内容を紹介して、具体的なアウトリーチ活動(セミナー、電子書籍、メルマガ、アプリ開発など)を考えましょう。他にも、各分野の名著を読んだりする読書会や、周辺領域の学会や展覧会など最新情報の交換も検討しています。本会は以後も継続的に企画しく予定です。

当日の流れ(予定)
 1. 趣旨説明
 2. 参加者自己紹介
 3. 研究紹介(数名)
 4. フリートーク
 5. アウトリーチ活動へのブレインストーミング

※ できれば、自己紹介用にレジュメ(A4版1枚)やパワーポイント等のファイル
  をお持ちください。
※ できれば、最近の面白いネタをご用意ください。(専門分野に限りません)
※ 研究紹介では10-20分程度でご自身の研究内容の紹介をしていただけます。
  希望される方は申込のコメント欄にその旨をお書きください。

近畿大学医学部
生塩研一

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以上です。
このように京都アカデメイアと同趣旨の活動をしておられる方と知り合えると元気がでます。同じ志をもつ人達どうしで情報を共有しあって、学問の垣根をこえた活動の波を広げていけると良いなと思います。

ものみな積分があるように、運ばれてくる寒い朝

素敵な皆さんこんにちは、お風邪を召されていませんか? インフルませんか? 花粉症んか? (む)です。
昨日は京都にも久々にゆきつもでした。ゆきがつもりました。
特に北のほうはこんもりしていましたね。私は「京都は二条で気候が変わる」説を確認しました(異論あり)。

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午後は、きょーあか数学の会へ。
昨日は私が発表当番。広義積分・回転体体積・曲線の長さ、などの分野をしました。
むずかしかったが、
「積分がある/ない って、図形上で表せるの?図形的に解るの?」
など、モヤモヤっとしていたところを教えてもらえて充実感でありました。その他、諸々の公式の証明もよう分かった。公式の証明って、高校数学やとあんましやらんよね。高校によるんかな?
図は、(け)さんによる「サイクロイド曲線」の解説など。走るチャリのタイヤの一点をとってその軌跡をたどるとこんな曲線になるらしいです。

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温泉土産もあってお菓子いっぱいでした(幸)。数学の人たちは、温泉に浸かりながら延々と数学の話をするらしい。たのしそうです。かっこいい。

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この数学の会、始めてそろそろ一年半ほどになりますかのう。よく続いています。今のテキストが終わったら、別のテキストを使って同じ分野をもう一巡、という案が出てますんで、新規の方もまだまだ歓迎であります!
今のとこメンバーは、数学専門の方(先生役をしてもらってます)・塾や予備校で教えるために数学が必要な人・経済学専攻で数学使う人、などなどですが、単なる数学挫折怨念組(私)もいますので、数学苦手人も来てね!

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わたくし(む)がコンスタント参加してる会はこの数学会だけですが、京アカでは他にもいろいろ読書会勉強会やってますんで、気になる気になる会がありましたらお気軽にご連絡を。3月から新たに『構造と力』読書会も始まるようです。

京アカ読書会・勉強会一覧:
http://www.kyoto-academeia.sakura.ne.jp/seminar.html#dokusyokai

ほなまた。失礼いたします。

【告知】隠岐さや香氏講演会「フランス王立科学アカデミーと統治の公共性」のお知らせ

百木です。
私が参加しているGCOE研究プロジェクトの一環として下記の講演会を開催する運びになりましたのでお知らせします。

隠岐さや香氏(広島大学准教授)は、「科学が社会の中でどのような位置づけを与えられてきたか」という問題関心から「科学者」という職業がいかに構想され、制度的な位置を与えられてきたかについて研究を進めておられます。本講演では、昨年度のサントリー学芸賞を受賞された『科学アカデミーと「有用な科学」』をベースとして、「フランス王立科学アカデミーと統治の公共性」をテーマとした講演を行なっていただく予定です。
関心のある方はぜひお気軽にご参加ください。もちろんGCOEプロジェクトの関連のない方のご参加も歓迎です。事前にある程度、参加者人数を把握したいため、参加希望の方はkyotoacademeia□gmail.com(□に@を入れてください)までその旨をご連絡いただければ幸いです。どうぞよろしくお願いします。

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隠岐さや香氏 講演会(「公共哲学のアクチュアリティと歴史概念としての公共圏」第4回)
「フランス王立科学アカデミーと統治の公共性」

講演者: 隠岐さや香(広島大学 准教授)
日時:  2012年2月18日(土)15:00~17:30
場所:  京都大学大学院人間・環境学研究科 大学院棟333演習室
(当日は土曜日で正面入口が閉鎖されているため、恐れ入りますが14:50に入口前にお集まりください。会場までお連れします。また、この時間にお越しになれない場合は、上野090-4949-3240までご連絡ください。)

<講演内容>

本シリーズでは、西洋世界のなかで歴史的に形成されてきた「公共圏」をめぐって、ハーバーマスが提示したリベラル・モデルとはまた違った角度からこの歴史的プロセスを再検討するための講演会を開催してきた。4回目となる今回は、『科学アカデミーと「有用な科学」』で2011年度のサントリー学芸賞を受賞された隠岐さや香氏に、啓蒙の世紀から革命期にかけてのフランスにおける統治(オイコノミア)の言説を、公共性の成立という観点から再検討する講演をお願いする。
この統治の問題系は、フーコーの講義録の公刊やアガンベンの「ホモ・サケル」プロジェクトの成果を受けて、近年の人文・思想系の歴史研究のなかでもっとも注目されているトピックのひとつである。だが同時に、従来のリベラル・モデルの影響ゆえに、この領域を公共性という語と結びつけて思考することは、未だほとんどなされていない。オーソドックスな政治思想ではしばしば対立的に捉えられてしまう統治と公共性とが切り結ぶ複雑で錯綜した関係の一端が、今回の講演と議論のなかで少しでも明らかになればと考えている。

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以上です。

大学は出たけれど

はじめまして。(ふ)です。
震災読書会で『「フクシマ」論』(開沼博)を読もうと企画したものです。
今回から僕もここに文章を書かせてもらう予定です。

僕は近畿大学文芸学部で日本文学を学んでいました。もともと近大付属高校の出身で高校時代によく高野文子などの漫画を読んでいて、大学に入ったら「文学を読むぞ!」と意気込んで文芸学部を選択したのでした。

それはまさに幸運な出会いでした。近畿大学文芸学部という場所はとても恵まれた教授陣、授業が盛りだくさんでまさか偶然入った学部でこのような体験ができるとは!と喜んでいました。

柄谷さんをよく知る先生から、昔は浅田さんが京大の学生を連れてきて近大生と京大生でよく議論をしたものだったと聞いたことがあります。それを聞いて僕はそんなことをぜひしてみたいなぁと思ったのですが“京大”と言う名前に怯えるばかりで(笑)実際に自分からそれを試してみようと動くことはありませんでした。

そして僕は大学をでた。普通に社会人となって一年目はミスばかりで怒られてばかりで辛い日々をおくっていた。しかしそれよりなにより、生きていてはりあいがない。
大学時代は読んだ本の感想を議論したり、小説家の講演会に行ったり、劇をみたりで毎日が刺激に溢れていた。いまは本の感想をだれかと話すにもそういった機会をなかなかもてない。どこかの読書会に参加させてもらいたいなぁとため息がでる毎日をおくっていたら、ネットで京都アカデメイアの存在を知りました。

どきどきする中、メールを送ると早速(も)さんと(む)さんからお返事がありとても嬉しくおもったのを記憶しています。

大西巨人は『神聖喜劇』のなかで(みつけられなかった)……
「学士様ならお嫁にやろうか」と呼ばれた時代から、「大学を出たけれど」(小津安二郎)という社会になりつつある(大意)
と書いていたとおもう。『神聖喜劇』の世界は、まだまだそれでも「大学出」は珍しくて軍隊独特の空気感に従わない主人公東堂などを指して「大学出はこれだから困る」ばりによく馬鹿にする言葉として使われていた。

「大学は出たけれど」この言葉は僕のなかでとても響きました。
いまだに大学時代に学んだ学問に興味があるが、1人ではモチベーションを維持して行くのが難しい。誰かとの議論の中に何かを発見することもある。どこかで「大学」と繋がっていたいという気持ちが依然として残っていました。

京アカの門を叩いてみて、本当によかったとおもっています。
まだまだしゃべったことない方もいるので、そのうちにぜひお話ができれば幸いです。
僕みたいな奴はきっとまだ沢山いるとおもうので、ぜひ京アカに連絡を。。。

唐突ですが、仙台の学生たちが中心になって行っている復興支援UST番組「IF I AM」がおもしろいです。京アカのUST放送の参考にもなるかもしれませんので、ぜひチェックを!個人的にはやっぱりしゃべっているひとにカメラが向けられた方が臨場感が出るのではないかとおもっています。

http://flat.kahoku.co.jp/u/volunteer16/Up2gJjldCKxbWnAu3vHP

最後に京都アカデメイアのイベントに興味はあるが遠方の方もいるとおもいます。
いつかSKYPEなどを使って座談会や読書会ができれば制約を突破できるのではないでしょか。雑談にも使えるとおもいます。もちろん新たな制約が出てきてしまうかもしれませんが。そんなわけで筆をおきます。これからもよろしくお願いします。

(ふ)

府大キャンパスフォーラム これからの「キャンパス」の話をしよう

府大キャンパスフォーラム実行委員会の方から連絡をいただいたので、こちらでも宣伝しておきます。

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■府大キャンパスフォーラム これからの「キャンパス」の話をしよう
内容:
大学の教員や学生センター長、各地の大学生を招いて、大学キャンパスのあり方について考えるパネルディスカッションをおこないます。大学キャンパスをテーマに、社会全般での規制強化の傾向についてや、全国各地の大学での規制の状況、大学改革や大学経営の問題、などの視点から議論する予定です。

キーワード:
居場所としてのキャンパス、オープンスペース、サロン空間、課外活動、ルール、管理者責任、大学改革、大学経営、大学自治、学生自治、飲酒規制、喫煙規制、立て看板、ビラ、学生運動アレルギー、政治運動、ノンセクト、カルトサークル、情報化時代の高等教育、ラーニングコモンズ、学部間交流、学生教職員間交流、大学間交流

プログラム:
1.実行委員による各大学の規制紹介(府大、関大、同志社、市大、京大、阪大、立命館、法政、明学、明大、早稲田、首都大、東洋)
2.関東の学生による規制反対活動の紹介
3.登壇者によるパネルディスカッション
(休憩)
4.登壇者によるパネルディスカッション
5.質疑応答(一般の参加者からパネルディスカッション登壇者へ質問をしていただけます)

パネルディスカッション登壇者(予定)
・竹内正吉 (大阪府立大学 学生センター長)
・酒井隆史 (大阪府立大学 人間社会学部准教授)
・奥村、白石、菅谷、杉本、藤村(学生:府大、同志社、法政、明学、早稲田)
(敬称略)

■日時:2012年2月11日(土) (18:00開場) 18:20~20:30

■場所:大阪府立大学中百舌鳥キャンパス 第2学生会館シュライク 2階 第5会議室

■参加申込み 不要  直接会場にお越しください。 (先着50名)

■主催: 府大キャンパスフォーラム実行委員会
          fudai.campus@gmail.com    Twitter: @fudai_campus

■後援: 大阪府立大学中百舌鳥キャンパス学生自治会

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先日のアカデメイアカフェでも、最近の大学であまりに管理化・クリーン化・商業主義化が進んでいていかがなものか、もういちどイデオロギーに回収されないかたちで「大学自治」というものを考えなおす必要があるのではないか?という議論が出ていました。当日は、関東で同様の反対運動をされている方(というか、関東の学生の方が最初に反対運動を始められたそうですが)や、酒井隆史さん(大阪府立大准教授)などをゲストに迎えて、パネルディスカッションを行うそうです。
私(百木)はその日に研究会で発表があり、参加することができないのですが、関心ある方は参加されてみてはいかがでしょうか。

鬼と踊れ!蕎麦を食え!ぷにょ玉をすくえ!せつぶん! の巻

ヘヘイ(む)です。
ここのとこ(あ)氏の力作が続き、他スタッフがブログ書くのに気後れしている、との説を聞いたので、ハードルを下げるべくログインしました。

さてさて厳寒の日々が続く京都。
チャリに跨って市内を走行すると、冬の粒子のよーなものがぴしぴしと顔面に突き刺さり曲がり角を過ぎた皮膚を更に皹割るのでありますが、その京都の冬もモウ終わりだ! 節分が過ぎれば春なのや。
そして節分といえば、吉田神社節分祭。
吉田神社節分祭期間は、一年で最も京大(の周辺)が荒ぶる季節なのである。
東一条通りから吉田参道へずらーっと夜店が並んで、人がいっぱい出て、火が焚かれて、鬼がでるのだよ!
子どものころは鬼がこわくて泣いたもんだよ。

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節分祭に並ぶ屋台は毎年トレンドがあるようで、今年はご当地B級グルメブームを反映してか、「シロコロ」が大人気やった。シロコロばっかり10軒くらい見た気がする。去年現れた衝撃の「ラーメンバーガー」は消えていた…。代わりに「神戸生まれ チャイナバーガー」が登場しておりました。

あと今年突然流行り始めていたのが「ぷにょだますくい」。なんやそれ。

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文字通り、ぷにょぷにょした玉をすくうもののようでした。時代はつねに新たなものを生み出してよる。
ぷにょぷにょした玉をすくいたかったけど、3時間後くらいにはもうぷにょぷにょしたものを持て余し後悔するのであろうことが目に見えたのでやめた。
代わりに不健康そーなチョコバナナを買うた。

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さてさて参道を登ってゆくと、本殿のあたりはえらい数の人が、福豆を売る福娘の前に列を成し、豆を求めています。この豆、抽選券つきなんやけど、毎年当たったためしがない。

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境内のまんなかにはお焚き上げられ予定のお札の山。

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拝所には拝みたい人々がぎうぎう詰めで、賽銭を投げても賽銭箱に入ったのかあらぬ方向へ飛んでいったのか確認できぬほど。一応わたくしも賽銭(1円)を投げ、もちろん京アカの発展を祈……るのは忘れてた。

さて本殿まで登ってきたがここからが本番で、更に登ると菓祖神社がありまして、お菓子の神様を祀る素敵なこの神社では、素敵なことに豆茶とお菓子が振舞われております。更にその上が、斎場所大元宮。なんと八百万の神々が此処に集っているという、「ここに祈っといたら他の神社いらんやん!」的な反則神社。なのだが、なんと今年は大元宮の前に長蛇の列ができていて境内に入れないという有様! 毎年節分祭に通ってますがこんなのは初めてだ。やはり暗い世相の昨今、皆神頼みしかないのかなあ…と思うがいや単に金曜の夜だからであろう。不埒なわれわれはといえば、列に並ばず「遥拝」で済ませたのであった。

で、ここで折り返して下山するわけですが、われわれの本当の本番はこの下山であって、下山がてら、参道で売られている吉田日本酒を飲むのが定番なのであります。わたしは下戸なのだが、ここで売られている日本酒は下戸でもスイスイ飲めるほどおいしい。なんや澄んだお味がするのです。おかげで悲劇が起ったこともあります。(悲劇とは具体的には嘔吐のこと。) 山の寒さにぷるぷる震えながらも、日本酒を飲み米沢牛(と書かれて売られているがほんまは何牛か知らない)を食べ、河道屋の年越しそばを食べる。そう、旧暦の年越しやからね。だから今日から新春ぢゃよ!!
皆様、今年もよろしくお願いいたします。

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これがその蕎麦。

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……というようなことをしていたため、この後に予定されていた京アカスタッフ会議に大幅遅刻した。というか、今日は会議のことを書く予定だったのですが、ここまでで力尽きたので、誰かよろしくです。
ほな!皆さんお達者で!!

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ちなみに一夜明けて本日の吉田神社。嗚呼祭りの後。

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橋下徹×山口二郎討論(報道ステーションSUNDAY)を学問的に検討してみる

浅野です。

報道ステーションSUNDAYでの橋下徹×山口二郎討論の動画を学問的に検討してみます。以下は浅野個人の意見です。

「ほとんど中身のあることが話されていない」というのが動画を見た直後の感想であり、それからしばらく吟味してもその結論は変わりません。ですのでいかに中身がないかを示し、少しでも中身のある議論をしようというのがこの記事の目的です。

この記事を書き始める前にインターネット上でのその動画の分析をいくつか読んだのですが、私の結論とは大きく異なるものばかりでした。私は普段はまったくテレビを見ない生活をしているため、テレビリテラシー(テレビの特性や暗黙のルールを踏まえて視聴する能力)が足りないのかもしれません。

さて本題に入りましょう。

心理学的な検討

中身はさておき、橋下徹さんはしゃべりが達者だなぁと感じずにはいられません。その達者さの一部は社会心理学で分析できます。最初に過大な要求をしてから条件を引き下げると相手はお得な気分になって同意しやすくなるというlow-ballテクニックなどです。詳しくは「橋下徹の言論テクニックを解剖する」中島岳志‐マガジン9をご参照ください。

この社会心理学的な文脈で単純接触効果をはずすことはできません。人間には頻繁に見たりしたものを好む傾向があり、単に繰り返し接触するだけで好意が高まるのです。ということはこのようにテレビに出演して非常に多くの人に接触した橋下さんへの好意はそれだけでも高まるはずです。放送された時間の大部分は橋下さんがしゃべっている姿を映していたのですから。

この記事でも橋下さんに数多く言及し、動画にリンクを貼っているのだから、微々たるものとはいえ単純接触効果に寄与しているのではないかという見方もできますが、単純接触効果とよばれる現象があるということを周知すれば、その効果も緩和されると私は考えています。

政治学的な検討

橋下さんは山口さんよりも圧倒的に長い時間テレビに映っていただけでなく、そもそも画面上で真ん中に座っていました。あのような討論の場では司会者が真ん中に座るのが普通です。それをあえて橋下さんを真ん中に据えたテレビ局の方針には疑問が残ります。

テレビを始めとするメディアは第四の権力と呼ばれるほど大きな力を持っています。その力は他の三権(立法、行政、司法)のような何かを強制する力というよりもむしろ議題を設定し、世論を誘導する力です。橋下さんを取り上げるというだけでも一つの大きな決定であるのに、彼を画面の真ん中に配置するというのはかなりの優遇に思われます。

ここからは議論の中身に入ります。橋下さんは民主主義を多数決だと規定した上で、民主主義が最善の政体であると想定しているようです。しかし、民主主義のよさは多数決に至るまでに議論を尽くすことであるという考え方も有力ですし、どの制度が最善かという議論は昔からあって今も決着していません。せいぜいのところが「民主主義は最もマシな政体である」といったところでしょうし、その民主主義にしても直接民主制なのか間接民主制なのかなどいくつも議論はあります。

教育学的な検討

教育(education)の語源となったラテン語のeducereから考えて、教育には「能力を引き出す」という側面と「(無理やりにでも)導く」という側面があると言われます。今回の動画では子どもたちが先生の良し悪しを判断できると主張していた橋下さんですが、別のところでは「教育は2万%強制」だと述べていたそうです。仮にしつけに厳しい先生がいて、生徒たちがその先生をやめさせてほしいと言った場合は、橋下さんはどう判断するのでしょうか。教育には「引き出す」という側面と「強制する」という側面の両方があるのですから、それをいかに調整するかというのが腕の見せ所です。都合に合わせて両極端の立場を使い分けるのはまずいでしょう。

哲学・倫理学的な検討

先ほど教育のところで述べたことを哲学的な考えるなら、「自己決定は可能か」という問いになります。子どもたちが自分で受ける教育を決めるのか、それとも子どもたちの意に反してでも教育をされる必要があるのかという問いです。この問いに簡単に答えることはできませんが、人間は自分で決定して生まれてくるわけではないということを指摘しておきましょう。

「決定」は他者にも影響を及ぼすことがあります。子どもたちがある先生の授業を受けたくないと決定すれば、その先生は職を失います。それでも多数の子どもと保護者が求めればその先生を辞めさせるべきだというのが橋下さんの主張です。しかしこのような決定を安易に多数決で行ってよいものでしょうか。

この状況を極端な形で示したのが「眼球くじ」と呼ばれる例です。目のまったく見えない2人の人と両目が健全な1人の人がいるとして、その1人の目を一つずつ移植すれば2人の視力を回復することができるという例です。眼球に限らず一人の健康な人を殺せばたくさんの健全な臓器が手に入り、複数の人の命を救うことができるという考え方です。

この考え方には多くの人が直感的に反対するでしょう。もちろんこれは極端な例ですが、多数決によって教員を辞めさせる話にせよ、公務員の待遇を引き下げることにせよ、この構図が当てはまることは確かです。

自分の頭で考えた検討

率直に告白しますと、上の学問的な検討は自分の頭で考えたことに学問的な装いをもたせた記述です。そして私はどの学問の専門家でもありません。ここからは言い残したことを素朴に書きます。

教育基本条例の詳しい中身は結局わかりませんでした。何があっても教員を辞めさせることができないというのは変ですが、かといって子どもや保護者の多数決で安易に辞めさせられるのも問題です。学校現場で何か問題があればよく話し合い、場合によっては担当を交代するなどしてうまく調整できればよいと思います。

あの動画では教育の問題から話がそれて学者が役に立たないという話になっていました。これは本来の論点ではない上に、橋下さんの偏見が目立ちました。本を読むことの意義をあれほどはっきりと否定するのはあまりに乱暴です。本には誰かが経験したことが書いてあるのですから、本を読めば間接的ではあれ何らかの経験を知ることができます。また、複数の経験
に通じるような法則や説明なども本には書いてあります。それもまた有用なのではないでしょうか。

そして仮にも山口さんが教育基本条例を考えるための有益な知見を出せなかったとしても、それをもって学者が役に立たないと決めつけるのは早計です。一つの自治体の例で物を言うことをとがめていた橋下さんが、一人の例で物を言うのはおかしいです。

さらに、もし橋下さんにとって山口さんが無能に見えたとしたら、それは橋下さんの対応にもその原因があると思います。こんなことも知らないのかと挑発するなど、彼の姿勢は相手から何か有益なことを聞こうとする姿勢ではなく、相手をやっつけようとする姿勢でした。相手の知らないことがあれば簡単に説明すればいいだけの話ですし、そうして共によい解決を探ればいいだけの話です。

勝敗をつけるようなディベートをするのは勝手ですが、それをテレビという影響力を用いて大阪の人たちの生活がかかっている場で行うのはひどいです。政治討論が盛り上がっているということで興味をもって動画を見たのですが、建設的で実質的な議論はほとんどなされておらず残念でした。

アカデメイア・カフェ「最近の大学ってどーなん!?」のまとめ

浅野です。

第1回アカデメイア・カフェ「最近の大学ってどーなん!?」のまとめです。これはあくまでも浅野個人が記憶に基づき当日の話には出なかったことなども盛り込みながら再構成したものです。補足やご批判があればぜひコメントを書き残していってください。途中からになりますが、当日の模様の録画も残してあります。

アカデメイア・カフェ第1回「最近の大学ってどーなん!?」(USTREAM中継動画の録画)

1.学生運動、自治について
今回の最大のテーマは「大学の自治」だったように思います。事前にテーマを細かく設定せず、その場の流れに任せた結果そうなりました。

その背景にはキャンパス内での喫煙・飲酒の禁止や夜間の出入り禁止など、大学によるキャンパス規制が厳しくなってきている状況があります。このあたりのことは府大キャンパスフォーラムで詳しく話されることでしょう。

「大学の自治」と言えば学生運動と切り離せません。この場には学生運動に否定的な人もいれば肯定的な人もいて、主張には共感するけれども手段が有効的でないと感じている人もいました。ここではその議論の詳細には立ち入りませんが、こういう議論ができるということ自体が大切だと思います。

大学のもう一方の当事者は教職員です。最近では各地の大学でFD(Faculty Development)と呼ばれる教育開発の取り組みがなされています。こうした流れが加速すると、大学ごとに独自の教育観を打ち出すまでに至るかもしれません。教職員にせよ学生にせよ、大学教育への意気込みは人によって大きく異なるのが実情ではありますが。

他方でユニオンエクスタシーなどが取り組んでいるように、大学の非正規職員は現行の法律や判例を根拠にして3年や5年で雇い止めされるという問題があります。かなりの部分の仕事を非正規職員に頼っているにもかかわらずです。このような状況ですと職員が主体的に大学を運営するのは難しいですし、そもそも職員の雇用を法的な形式論でしか扱えないということ自体が大学の自治の低下を示しています。

大学の自治といえば大学寮もはずせません。少なくとも京大の寮にはまだ自治がかなり残っているように思われますが、寮の自治をやめて大学が管理しようとする動きもありますし、寮生の間でも面倒な自治には関わりたくないという人もいます。学生一般にしても大学に強い帰属意識を持っている人もいれば帰属意識をまったく持っていないような人もいます。学生は大学の構成員なのでしょうか、それとも消費者なのでしょうか。次に学費を軸にしてそのことを考えてみます。

2.学費は高い? それとも安い?
現在の国公立大学の授業料は原則的に年間535,800円です。これを高いと見るか安いと見るかは究極的にその人の価値観によるでしょうが、いくつか考慮すべき材料があります。

まず、実際の教育・研究活動で必要な費用を考えに入れなければなりません。大雑把に文系的なところでは図書館の本と論文やレジュメの印刷が費用のほとんどを占めます。教員が学生に関わる度合いは様々なので、その人件費をどう計上すればよいかはわかりません。それでも一人当たり年額535,800円は高いように感じます。ましてや大学にはそれなりの税金も投入されているのですから。しかし工学系や医学系となると話は大きく変わります。数億円もするような機械を使うことも日常茶飯事です。そう考えると535,800円は安く見えます。

今度は得られる見返りから検討します。4年で卒業するとしたら合計二百数十万円かかります。大学を卒業することにより生涯年収がそれ以上に上がればお得な投資であり、そうでなければ損な投資になります。これも分野によって様相は大きく異なります。極端な例としては、文系の学部から大学院に進学すると、交通事故などの際に算定される生涯年収がむしろ低くなるという話を聞いたことがあります。これが本当だとすれば学費を払って大学院に進学すると金銭的にプラスがないどころか投資した額以上の損失があることになります。

それでも大まかに言えば大学に行けば(少なくともこれまでのところは)生涯年収が上がってお得だから、多くの人が大学に行くようになった(日本の多くの場合でより正確に言えば親が子どもを大学に通わすようになった)のでしょう。それでは生涯年収の上昇をもたらす大学とは何なのかを次に考えます。

3.大学が就職にもたらす価値
現在では大学卒業を見込んで就職活動をすることが一般的になっていることもあり、大学を論じるにあたって就職を避けることはできません。卒業見込みの一年半ほど前から就職活動が始まるので、四年制の大学でも約半分、短大や大学院の修士課程では約4分の3の期間を就職活動をして過ごすことになります。せっかく年間50万円以上も払って大学に通っているのに、これはどういうことでしょうか。

答えは簡単です。一つの割り切った考え方では、就職の際に評価されるのは大学に入ることができたことから想定される基礎学力のようなものです。大学で何を身に着けたかということではありません。ユニクロが大学一年生から採用活動をする方針にしたのも、この考えを裏付ける一つの証拠になり得ます。だからこそドライに戦略を考えて就職活動する人が内定を得て、まじめに大学で勉強しようとする人が苦労するのかもしれません。このあたりのことはもはや人ごとじゃない!就活をめぐるタブーなき大”論”闘でも話されました。

もちろんこれは一つの割り切り方であり、分野によっても異なります。医学系や工学系なら数億円の機械を用いて練習してきたという能力そのものを買われることも多いでしょう。だからこそ研究室での活動を妨げないように自由市場での就職活動ではなく教授推薦での就職があったりするのだと思います。法学系なら法律の知識や複雑な論理を考える力を生かして資格を取るという道もあります。

この分析が正しいとすれば、そして大学新卒の就職活動を通じた就職が難しくなってきているのだとしたら、中途半端に大学に行くよりも手に職をつけられるような専門学校に行くほうが賢い選択になります。実際、ここ数年は専門学校人気が高まりつつあるとの報道を目にします。本田由紀さんがドイツを参考にしながら提唱しているあり方ですね。

経済合理的に考えれば考えるほど実学系以外の大学には魅力がないことになります。特に悲惨なのが文系大学院の博士課程で、水月昭道さんの著書のタイトルから「高学歴ワーキングプア」という言葉が普及するほどになりました。京都アカデメイアは最初は文系大学院生が中心となって始まりましたし、他にも近いところでは佛大・社会学研究ゼミがあります。研究職という視点から大学を捉えることもできますが、今回はその話は脇に置いて、もう少し広く社会という視点から大学について考えます。

4.社会の中の大学
大学は社会の中に存在しており、大学と緊密な関係を保っている社会組織が教会→国民国家→私企業(資本主義)と移り変わってきたということを吉見俊哉さんの『大学とは何か』で学びました(吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだを参照)。先に見たような就職に関する大学の位置づけは国民国家から私企業へと移行する際の過渡期的な現象であると考えると、今後は実学系以外の大学は衰退すると予測されます。実際、大阪の知事から市長になった橋下徹さんは「私は大学は私立がやるものと思っている」と言い、その線での政策を推し進めるつもりのようです。こうなると実学系を中心とした経営体としての大学が中心になりそうです。

この路線にはいくつかの疑問があります。第一に、教育は企業モデルになじまないということが挙げられます。企業モデルでは合理的に計算して利益が最大になるように投資します。しかし教育では計算通りにいかないことがたくさんあり、そちらのほうが本質だとも言えます。また、仮に教育の効果をある程度計算できるにしても、その期間は長くて短期的な投資にはなじみません。内田樹さんが言っていることですね。研究についても同じことが言え、遊びから生まれる発見などもあり成果を完全に計算することはできず、仮に計算できたとしてもその期間は非常に長くなることもあります。

第二に企業モデルだとお金が払えないと大学に行くことができません。それは大学に行きたいけれども行けない人にとって不幸であるだけでなく、社会の損失にもなります。優秀で熱意もあるがお金がない人が大学に行けないのは合理的ではありません。優秀で熱意がある人には奨学金を出せばよいではないかと言われるかもしれませんが、優秀さを測定するのは困難であり、先ほど述べたように思いがけない成果が生まれるのが教育・研究です。

第三に、企業モデルで行われる研究に内在的な疑問や批判が生じるのかという問題があります。これはおそらく実際に起こっていたことなのですが、例えば原子力発電所を作るための研究をしていてこのままでは危険だと思っても、批判をしたりコストのかかる安全装置の設置を提案したりするのが経済的な関係から難しくなってしまうということです。

ここまで三点に渡って個人的な意見を硬い言葉で表現しましたが、要は、何をやりたいかなど高校生までではわからないし、大学に入ってからいろいろな人に会う中で価値観が変わることもあるし、大学では自由に物が言えたほうがいいし、大学って楽しいところだから来たい人が来られるようになったほうがいいというだけのことです。

このように考えると、大学には少なくとも企業の論理だけではない何かが存在するはずです。教養教育が必要だというのもその一つです。XmajorCollege Caféでやられているように専門分野を越えて出会った人同士が議論するのもそうです。こうした企業の論理だけではない別の何かを名指すとするなら「市民」でしょうか。それなら大学という枠にこだわることもないわけで、scienthroughや各地で行われているサイエンスカフェ、哲学カフェのように大学の外で活動することもできます。京都アカデメイアでも地域の寺子屋とも言うべき山の学校と共同イベントをしたことがあります。そして今回のアカデメイア・カフェの場そのものもそうです。

アカデメイア・カフェをまとめようと思って書き始めたのに自分の意見を前面に出してしまう結果になりました。修正や補足をぜひともお願いいたします。

吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだ

浅野です。

明日は京都アカデメイアの新企画アカデメイア・カフェで、「最近の大学ってどーなん!?」というテーマで議論します。

<新企画> アカデメイア・カフェ 第1回

その下準備として吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読みました。ごく簡単に内容を紹介します。

大学とは何か (岩波新書)

大学とは何か (岩波新書)

「大学とは何か」という書名にも表れていますように、大きな視野で大学について考えようというのが著者のスタンスです。

大学の歴史を簡単に図式化するなら、中世ヨーロッパでの大学の誕生(12~13世紀)→近代的な大学の普及(16世紀~)となります。中世的な大学は印刷術の普及などのために一度没落し、それに代わって国民国家に支えられた近代的な大学がヨーロッパから世界各地に広がったというのが大きな流れです。中世的な大学はキリスト教会と、近代的な大学は国民国家との緊張関係の中で独自の発達を遂げたと著者は分析します。

近代的な大学の普及の流れの中で、日本では明治時代に最初の大学ができました。日本の大学の特徴は、分野ごとにアメリカやドイツなど微妙に異なる各国のモデルを取り入れたことに加え、私塾や官立専門学校など多様な組織が大学の基盤となった点にあると著者は述べます。そしてそれを天皇のまなざしのもとで統一したのが戦前の大学であるとするなら、国民国家の影響力を残しつつも企業経営のもとに統一したのが戦後の大学だとまとめることができます(私立大学と国立大学とで趣きが異なったり、戦後といっても年代によって揺れ動いているという点も興味深いのですが、ここでは割愛します)。

新しい印刷革命とも言うべきインターネットの発展や国民国家の衰退を受けて、現在は大学にとって二度目の大きな転換点であり、エクセレンス(卓越性)を目指して英語という国際語を用いて各大学が結びつく新しい時代が来るだろうとの予言でこの本は締めくくられます。

多様な資料に基づき綿密に書かれていながら読みやすく、非常に有益な本だと思います。しかしながら、今後の展望に関しては違和感が残ります。

まずこの本自体が大学の先生によって岩波書店から出されたという確固たる事実があります。インターネットが大きな可能性を秘めていることに疑いはありませんが、既存の出版社や大学の権威もまだしばらくは続きそうです。

そして大学が変化するとして、その行き先がエクセレンス(卓越性)とは限りません。大学が緊張関係にある相手が教会→国民国家→資本主義と移ろいゆくのだという著者の主張には確かに説得力がありますが、教会や国民国家がそうしてきたように大学に一定の自由を与えることが、果たして資本主義にできるのでしょうか。そのような寛大さは資本主義にはないと私は思います。

それよりもむしろ、これまでは一握りのエリートのための組織であった大学が、広く一般の人々に開かれることを期待します。その点で1970年代や80年代から見られた自主講座が興味深いです。京都アカデメイアもその流れにあると言えます。

というわけで明日のアカデメイア・カフェをよろしくお願いします。