浅野です。
第1回アカデメイア・カフェ「最近の大学ってどーなん!?」のまとめです。これはあくまでも浅野個人が記憶に基づき当日の話には出なかったことなども盛り込みながら再構成したものです。補足やご批判があればぜひコメントを書き残していってください。途中からになりますが、当日の模様の録画も残してあります。
アカデメイア・カフェ第1回「最近の大学ってどーなん!?」(USTREAM中継動画の録画)
1.学生運動、自治について
今回の最大のテーマは「大学の自治」だったように思います。事前にテーマを細かく設定せず、その場の流れに任せた結果そうなりました。
その背景にはキャンパス内での喫煙・飲酒の禁止や夜間の出入り禁止など、大学によるキャンパス規制が厳しくなってきている状況があります。このあたりのことは府大キャンパスフォーラムで詳しく話されることでしょう。
「大学の自治」と言えば学生運動と切り離せません。この場には学生運動に否定的な人もいれば肯定的な人もいて、主張には共感するけれども手段が有効的でないと感じている人もいました。ここではその議論の詳細には立ち入りませんが、こういう議論ができるということ自体が大切だと思います。
大学のもう一方の当事者は教職員です。最近では各地の大学でFD(Faculty Development)と呼ばれる教育開発の取り組みがなされています。こうした流れが加速すると、大学ごとに独自の教育観を打ち出すまでに至るかもしれません。教職員にせよ学生にせよ、大学教育への意気込みは人によって大きく異なるのが実情ではありますが。
他方でユニオンエクスタシーなどが取り組んでいるように、大学の非正規職員は現行の法律や判例を根拠にして3年や5年で雇い止めされるという問題があります。かなりの部分の仕事を非正規職員に頼っているにもかかわらずです。このような状況ですと職員が主体的に大学を運営するのは難しいですし、そもそも職員の雇用を法的な形式論でしか扱えないということ自体が大学の自治の低下を示しています。
大学の自治といえば大学寮もはずせません。少なくとも京大の寮にはまだ自治がかなり残っているように思われますが、寮の自治をやめて大学が管理しようとする動きもありますし、寮生の間でも面倒な自治には関わりたくないという人もいます。学生一般にしても大学に強い帰属意識を持っている人もいれば帰属意識をまったく持っていないような人もいます。学生は大学の構成員なのでしょうか、それとも消費者なのでしょうか。次に学費を軸にしてそのことを考えてみます。
2.学費は高い? それとも安い?
現在の国公立大学の授業料は原則的に年間535,800円です。これを高いと見るか安いと見るかは究極的にその人の価値観によるでしょうが、いくつか考慮すべき材料があります。
まず、実際の教育・研究活動で必要な費用を考えに入れなければなりません。大雑把に文系的なところでは図書館の本と論文やレジュメの印刷が費用のほとんどを占めます。教員が学生に関わる度合いは様々なので、その人件費をどう計上すればよいかはわかりません。それでも一人当たり年額535,800円は高いように感じます。ましてや大学にはそれなりの税金も投入されているのですから。しかし工学系や医学系となると話は大きく変わります。数億円もするような機械を使うことも日常茶飯事です。そう考えると535,800円は安く見えます。
今度は得られる見返りから検討します。4年で卒業するとしたら合計二百数十万円かかります。大学を卒業することにより生涯年収がそれ以上に上がればお得な投資であり、そうでなければ損な投資になります。これも分野によって様相は大きく異なります。極端な例としては、文系の学部から大学院に進学すると、交通事故などの際に算定される生涯年収がむしろ低くなるという話を聞いたことがあります。これが本当だとすれば学費を払って大学院に進学すると金銭的にプラスがないどころか投資した額以上の損失があることになります。
それでも大まかに言えば大学に行けば(少なくともこれまでのところは)生涯年収が上がってお得だから、多くの人が大学に行くようになった(日本の多くの場合でより正確に言えば親が子どもを大学に通わすようになった)のでしょう。それでは生涯年収の上昇をもたらす大学とは何なのかを次に考えます。
3.大学が就職にもたらす価値
現在では大学卒業を見込んで就職活動をすることが一般的になっていることもあり、大学を論じるにあたって就職を避けることはできません。卒業見込みの一年半ほど前から就職活動が始まるので、四年制の大学でも約半分、短大や大学院の修士課程では約4分の3の期間を就職活動をして過ごすことになります。せっかく年間50万円以上も払って大学に通っているのに、これはどういうことでしょうか。
答えは簡単です。一つの割り切った考え方では、就職の際に評価されるのは大学に入ることができたことから想定される基礎学力のようなものです。大学で何を身に着けたかということではありません。ユニクロが大学一年生から採用活動をする方針にしたのも、この考えを裏付ける一つの証拠になり得ます。だからこそドライに戦略を考えて就職活動する人が内定を得て、まじめに大学で勉強しようとする人が苦労するのかもしれません。このあたりのことはもはや人ごとじゃない!就活をめぐるタブーなき大”論”闘でも話されました。
もちろんこれは一つの割り切り方であり、分野によっても異なります。医学系や工学系なら数億円の機械を用いて練習してきたという能力そのものを買われることも多いでしょう。だからこそ研究室での活動を妨げないように自由市場での就職活動ではなく教授推薦での就職があったりするのだと思います。法学系なら法律の知識や複雑な論理を考える力を生かして資格を取るという道もあります。
この分析が正しいとすれば、そして大学新卒の就職活動を通じた就職が難しくなってきているのだとしたら、中途半端に大学に行くよりも手に職をつけられるような専門学校に行くほうが賢い選択になります。実際、ここ数年は専門学校人気が高まりつつあるとの報道を目にします。本田由紀さんがドイツを参考にしながら提唱しているあり方ですね。
経済合理的に考えれば考えるほど実学系以外の大学には魅力がないことになります。特に悲惨なのが文系大学院の博士課程で、水月昭道さんの著書のタイトルから「高学歴ワーキングプア」という言葉が普及するほどになりました。京都アカデメイアは最初は文系大学院生が中心となって始まりましたし、他にも近いところでは佛大・社会学研究ゼミがあります。研究職という視点から大学を捉えることもできますが、今回はその話は脇に置いて、もう少し広く社会という視点から大学について考えます。
4.社会の中の大学
大学は社会の中に存在しており、大学と緊密な関係を保っている社会組織が教会→国民国家→私企業(資本主義)と移り変わってきたということを吉見俊哉さんの『大学とは何か』で学びました(吉見俊哉『大学とは何か』(岩波書店、2011)を読んだを参照)。先に見たような就職に関する大学の位置づけは国民国家から私企業へと移行する際の過渡期的な現象であると考えると、今後は実学系以外の大学は衰退すると予測されます。実際、大阪の知事から市長になった橋下徹さんは「私は大学は私立がやるものと思っている」と言い、その線での政策を推し進めるつもりのようです。こうなると実学系を中心とした経営体としての大学が中心になりそうです。
この路線にはいくつかの疑問があります。第一に、教育は企業モデルになじまないということが挙げられます。企業モデルでは合理的に計算して利益が最大になるように投資します。しかし教育では計算通りにいかないことがたくさんあり、そちらのほうが本質だとも言えます。また、仮に教育の効果をある程度計算できるにしても、その期間は長くて短期的な投資にはなじみません。内田樹さんが言っていることですね。研究についても同じことが言え、遊びから生まれる発見などもあり成果を完全に計算することはできず、仮に計算できたとしてもその期間は非常に長くなることもあります。
第二に企業モデルだとお金が払えないと大学に行くことができません。それは大学に行きたいけれども行けない人にとって不幸であるだけでなく、社会の損失にもなります。優秀で熱意もあるがお金がない人が大学に行けないのは合理的ではありません。優秀で熱意がある人には奨学金を出せばよいではないかと言われるかもしれませんが、優秀さを測定するのは困難であり、先ほど述べたように思いがけない成果が生まれるのが教育・研究です。
第三に、企業モデルで行われる研究に内在的な疑問や批判が生じるのかという問題があります。これはおそらく実際に起こっていたことなのですが、例えば原子力発電所を作るための研究をしていてこのままでは危険だと思っても、批判をしたりコストのかかる安全装置の設置を提案したりするのが経済的な関係から難しくなってしまうということです。
ここまで三点に渡って個人的な意見を硬い言葉で表現しましたが、要は、何をやりたいかなど高校生までではわからないし、大学に入ってからいろいろな人に会う中で価値観が変わることもあるし、大学では自由に物が言えたほうがいいし、大学って楽しいところだから来たい人が来られるようになったほうがいいというだけのことです。
このように考えると、大学には少なくとも企業の論理だけではない何かが存在するはずです。教養教育が必要だというのもその一つです。XmajorやCollege Caféでやられているように専門分野を越えて出会った人同士が議論するのもそうです。こうした企業の論理だけではない別の何かを名指すとするなら「市民」でしょうか。それなら大学という枠にこだわることもないわけで、scienthroughや各地で行われているサイエンスカフェ、哲学カフェのように大学の外で活動することもできます。京都アカデメイアでも地域の寺子屋とも言うべき山の学校と共同イベントをしたことがあります。そして今回のアカデメイア・カフェの場そのものもそうです。
アカデメイア・カフェをまとめようと思って書き始めたのに自分の意見を前面に出してしまう結果になりました。修正や補足をぜひともお願いいたします。










