北田暁大・白井聡・五野井郁夫『リベラル再起動のために』:「すべてをなしにする」衝動にどう抗うか?


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大窪善人


リベラル再起動のために

毎日新聞出版(2016年08月01日)

 

リベラルの元気がない。 前回の参院選でも民進党をはじめとする左派勢力は、結局、与党を切り崩すことができませんでした。

本書は、社会学者で、与党・自民党に対抗して政策提言を行う「リベラル懇話会」でメイン・スタッフを務める北田暁大氏、政治学の立場から近年のデモについて積極的に論じている五野井郁夫氏、そして、レーニン論や『永続敗戦論』の著者で、左翼中の左翼、白井聡氏による鼎談。発売は選挙前ですが、今なお刺激的な内容です。

そもそも「右」と「左」って?

なぜリベラル・左は力を失ったのでしょうか?

でも、その前にちょっと復習。
もともと「左翼/右翼」という呼び名は18世紀のフランス革命直後、フランス国民議会で議長席から見て左側を革新勢力である共和派が、右側を保守勢力である王党派が占めたことに由来する、歴史的な区別です。

また、「右」が古きよき伝統や慣習をもち出すのに対して、「左」が あるべき理想的な世界秩序などをもち出すことから、右=過去志向、左=未来志向である、というのが辞書的な説明です。日本の政治もおおむねこのラインで理解できるでしょう。

しかし、すでに存在する(した)伝統や慣習とはちがい、不確かな未来に頼ることの方が、じつははるかに難しいことです。なぜなら、昨日より今日、今日より明日の方が社会はよくなるという「進歩」を信じる必要があるからです。

よく「左派・リベラルは、くだらない揚げ足取りや批判しかやってない」と言われます。たしかにそういう面もあるのでしょうが、しかし、ほんとうに苦しい理由、リベラルの根本的な焦りの原因は、そこにあるのではないでしょうか。

「日本死ね!!!」ブログの衝撃

ですが、目下の問題はもっと具体的なものです。この間、左派は原発や沖縄基地の問題、憲法、安全保障の問題などについて訴えてきました。しかし、国民の期待はむしろ圧倒的に経済政策や社会保障でした。鼎談でも、アベノミクスに対して、リベラルの側から、より現実的で豊かさを追求する経済政策を果敢に提案していこうという話をしています。

きっかけはある匿名ブログでした。今年2月「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログ記事がネットで話題になり、ついには国会で取り上げられるなど、驚くべき波及力を発揮しました。

白井  そもそも、「日本死ね!!!」って表現自体が、ある意味ですごい(笑)。[…]安倍さんは「日本を取り戻す」というスローガンで政権をとったわけですよね。「取り戻した日本がこれかよ。そんなんだったら死ねよ」って話で。
[…]
少子化でこれほど急速に人口が減っていくのはヤバいと、自民党も当然、主観的にはわかっていて、何とかしたいと思っているはず。にもかかわらず、本気で対策しているとは思えない。「こんなことで効果が上がるわけないだろ」という話ばかり出てくる。保育士に勲章を与えようとか、噴飯ものです。

この話なんかゲームで言えばほとんどバグでしょう。

白井  昨年、僕は子どもができたんですが、扶養家族が増えたので、当然一定の控除があると思っていたら、15歳以下はカウントされないんですよね。[…]民主党政権で「子ども手当」ができたから、バーターで小さな子どもは控除されませんよ、と。だけどその後、子ども手当は減額されている。つまり事実上、この国は子育て世帯に対して増税をやっている。[…]もうこの国を滅ぼそうと思っているんじゃないのかな。

事実だとすれば、もう「どうしてこうなった!?」と言いたくなるほど。さらに、

白井  「日本死ね!!!」って一番強く思ってるのは、実は安倍さんじゃないのかな。

えっ?!

保健所といえば真っ先に思い浮かぶのは、野良犬とか野良猫の殺処分でしょ。保育所と言おうとして保健所って言ってしまうのは、「子どもなんかいらない、死んじゃえ、もう滅んでしまえ」と無意識に思っているからだと見れば、原発回帰政策だのTPPだの、全部辻褄が合いますよ。

もちろん、なぜ「保育所」を「保健所」と言い間違えたか、ほんとうの理由はわかりません。しかし、白井氏の指摘は、ある意味でとても興味深いと感じます。

「すべてをなしにする」

その話を聞いて、ある映画を思い出しました。
黒沢清『叫(さけび)』(2006年)です。

あらすじは以下のとおり。

東京湾岸の埋め立て地で連続殺人事件が発生します。いずれも海水につけて窒息死させるという共通の手口。刑事の吉岡(役所広司)は容疑者を取り調べますが、かれらは一様に動機として、「全部なしにしようと思ったから」という不可解な供述をします。犯人たちはいずれも、被害者に対して抑圧した感情(親として、愛人として、元婚約者として)を抱えていました。殺害は、そのトラウマを帳消しにするために行ったのだ、と。

一方、事件を追う中で吉岡は「赤いコートを着た女」の幽霊に付きまとわれます。その正体は終盤につれ明らかになりますが、じつは彼女こそが連続殺人の鍵を握る存在だったのです。

強迫的に襲い来る不快な叫び。かつて社会から見棄てられ死んだ彼女は、「私は死にました、だからみんなも死んでください」という、端的に反論不可能な呪いの言葉とともに、正体に辿り着いたがゆえに赦された吉岡を除く全てに復讐することを示唆し、映画は終わります。




(1970年01月01日)

 
さて、この物語を寓意的に受け取れば、「日本死ね!!!」の筆者、他方、日本の伝統を復活しようとする首相という、およそ対極にいるであろう両者の共通項、それは、ある意味で、この「全部なしにする」という全的な破局への願望、”死への衝動”とでもいうべき、一種の徴候であるとは考えられないでしょうか。

であれば、リベラルがそれに抗う道は、非常に難しいことですが、やはり、「理想」や「進歩」を信じながら、ほんとうの「幸福へと転換しうるような制度設計を」具体的に示していくこと、これ以外ないのではないでしょうか。
 
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