平和について考える連続企画。
第2回目の今回は「戦争」をどう考えるかについてお話します。
社会学における「戦争」の不在
私は社会学を専門にしているので、まずは戦争の社会学的なアプローチということからスタートしましょう。
2016年7月に出版された『戦争の社会学』で橋爪大三郎氏は読者に、「軍について知ろう」「戦争について学ぼう」と呼びかけました。なぜなら、戦争の理解なくして平和を考えることはできないからです。すでにアメリカでは軍事社会学(ミリタリーソシオロジー)というジャンルが成立しているそうです。
ところが、日本では「軍事社会学」や「戦争社会学」という名の講義が大学で開かれたり、教科書や講座本にまとめられるということは、ほとんどありません。それは、あたかも社会学では、この世に戦争というものが存在しないかのようではありませんか。
もちろん、個々には戦争をめぐる実証的な歴史研究や戦争体験についての語りの分析など、たくさんの研究の蓄積があります。しかし、問題なのは、それらをまとめて、戦争という現象をトータルに捉えるような社会学的な理論や概念がまったく欠けている、ということです。
戦争について考えなくてよかった理由
どうしてそんなことになっているのでしょうか? それはおそらく、日本社会が戦後ずっと戦争について考えなくてよかったからです。なぜか。憲法と日米安保のためでしょう。
日本には軍隊がありません。自衛隊は憲法で軍隊ではないということになっています。では国防はどうするかと言うと、米軍にまもってもらいます。
日本は、いわば戦争をアメリカにアウトソーシングできたので、自分たちで考える必要がなかったというわけです。戦争の社会学がないのは、こうした社会状況と社会学とが”共振”していたからではないでしょうか。
戦争と犯罪はどう違うのか
戦争を考えるとき、今なお参照されるのがクラウゼヴィッツの議論です。クラウゼヴィッツは19世紀プロイセンの軍人・理論家で、『戦争論』という本を書いています。
戦争は、相手にわれわれの意志を強制するための、暴力行為である。
クラウゼヴィッツ『戦争論』
彼の定義によれば、戦争とは、自らの意志を押し通すための”手段”です。
また、戦争は犯罪ではないということがとても重要です。たとえ戦争でモノを壊したり、人を傷つけたり命を奪ったとしても、それが罪に問われることはないということです。
社会学には「正当性(Legitimität、レギティミテート)」という概念があります。マックス・ウェーバーが厳密に定義しました。戦争には様々なルールや取り決めがあって、ルールに従う限りそれは正当な行為であるとされるわけです。つまり、戦争とは、正当になされる暴力の行使のことであると言えるでしょう。
繰り返して言えば、戦争について社会学的に考える場合、たんに戦争を非道徳的なこと、絶対的な悪として捉えてしまうのではなく、正当(非正当)という観点から批判的に考えることが重要であるように思われます。
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