永遠平和のために ⑨:海賊は人類の友か敵か?

大窪善人


 

約二世紀前にカントが夢見た永遠平和。それがたんなる夢想ではなく、いかにして実現可能かを考えるのが、この連載の目的です。

前回(第8回)では、アニメ『けものフレンズ』を通して、”絶対に調和できない敵(絶対的な敵)をも受容する秩序”をつくり上げることこそが永遠平和である、という見通しを得たのでした。

だが、それはいかにして可能なのでしょうか。

 
人類の名を語るものは・・・

カントが主張する平和裏の世界秩序構想。その最も手強いライバルは、カール・シュミットでしょう。
この20世紀の政治学者は、著書の中で「人類=人道(Menschheit)を語るものは詐欺師である」として、この普遍的な理念を手厳しく批判します。[1]

その理由とは、人類が同じ人類に対して「人類の名において」戦うことは、”論理的に”不可能だからです。
ここでシュミットは、第一次世界大戦後の国際連盟の枠組みを念頭に置きながら論じているのですが、彼は「人類」とか「世界平和」といった、一見文句の付けようのない言葉の背後に、各国の利害やイデオロギーを鋭く嗅ぎつけるわけです。[2]

今回、私たちは「海賊」という形象を取り上げてみようと思います。なぜか。
その理由は、この海賊こそ、シュミットが言うところの「絶対的な敵」のひとつの原型(アーキタイプ)だからです。
 

海賊は人類の友か敵か?

みなさんは海賊と聞いてどんなイメージを思い浮かべるでしょうか。小説や映画に登場するキャラクター。貿易船を襲う海の荒くれ者たち…。歴史と神話とが入り交じった伝説上の存在。

じつは、海賊の歴史は人類の歴史とともに古く遡ることができます。たとえば、紀元前6世紀頃、ポリュクラテスという人物は、ガレー船団を率いて、エーゲ海や小アジアの沿岸を支配したといいます。[3] そこでの略奪行為はまさに海賊と呼ぶに相応しいものでした。

あるいは、神話にも略奪行為は描かれています。ギリシャ神話では、主神ゼウスをはじめ、神々が女性を奪うエピソードが多々登場します。

しかし、おもしろいのは、略奪は不道徳な行為ではなく、神々の卓越性を示すポジティブな挿話として描かれていることです。ポリュクラテスの海賊行為についてヘロドトスが肯定的に評価しているのも、このような価値観と結びつけることができます。

この見方が大きく変わったのは古代ローマ時代です。キケロは海賊について「人類共通の敵」であると断じています。背景には、ローマの帝国的秩序の成立(パクス・ロマーナ)による地中海の掌握がありました。ここにきて、海賊は、平和を脅かす厄介者でしかなくなります。
 

海賊が作った世界史

そんな海賊が、世界史上もっとも輝いた時代が訪れます。15世紀半ばにはじまる大航海時代です。

コロンブスによるアメリカの「発見」以来、スペインやポルトガルなどのヨーロッパ人たちが、この新大陸に殺到。メキシコ、ペルー、アステカ、インカから奪った財宝、先住民の強制労働により、莫大な富を手に入れます。

そこに海賊の出番がやってきます。スペインが新大陸で奪った富を、さらにスペインから奪うことが、彼らの家業だったのです。

この時代、海賊はなかば国家によって承認された存在でした。イングランド出身の海賊 フランシス・ドレークは、スペイン軍を蹴散らして奪った財宝を持ち帰った功績により、なんと、エリザベス女王よりナイトの称号を叙されています。

また、ヘンリー・モーガンという海賊は、騎士に叙勲されたのち、植民地ジャマイカの副総督にまで成り上がります。かくして、海賊がイギリスにもたらした莫大な富は、近代資本主義の「本源的蓄積」に寄与したわけです。

 
この時代、海賊は、国家によって「私掠」として合法化された存在であり、まさに「海賊の黄金期」と呼ぶにふさわしい時代だったのです。

 

 
万人の敵としての海賊とヨーロッパ公法

しかし、そうした時代も永くは続きませんでした。

17世紀頃になると、近代国家や国際法の枠組みが、徐々に出来上がってきます。30年戦争が終結した「ヴェストファーレン体制」(1648年〜)では、ヨーロッパの主権国家の相互承認と暴力独占が確認されます。

これにより、非-国家的暴力集団である海賊は、主権国家にとって、絶対に排除すべき敵として現れてきます。ここにおいて、「海賊=人類共通の敵(communis hostis omnium)」というキケロの言葉は、法的な意味において重大な意味をおびてきます。

つまり、いまや海賊は、市民でもなければ、国際法上、いかなる”対等な”敵対者(=主権国家)でもありえない
人々は、海賊に対していかなる義務も負う必要がない(つまり、いかなる約束も破棄してよい)。なぜなら、海賊とは、いかなる法によっても位置づけられない例外、まさに法外(out-law)の存在なのだから。[4]

そして、海賊は近代国家の勃興とともに歴史の表舞台から消えていきます。19世紀初頭の「バルバリア海賊」討伐により、ついにその終止符が打たれました。
 

人類の敵=人類の友

かくして、海賊は歴史上の、あるいはおとぎ話のなかにだけいる伝説上の存在になった、かのように思われました。ところが、21世紀に入って、再び、海賊が国際政治の中心に戻ってきます。「ソマリア海賊」の出現です。

「アフリカの角」に接するソマリア沖で、1990年代から武装した小型艇による海賊行為が多発するようになり、各国政府が軍艦を派遣するなど国際問題となっています。

通常、国内の犯罪であればその国の警察が対処しますが、海賊が出没する公海は、いかなる国の法律も及ばない空白地帯です。現在の国際法の枠組みにおいて海賊とは、すべての国に取り締まりおよび処罰を行う権利が認められている、まさに「人類の敵」に他なりません。

しかし、ここには大きな落とし穴があるように思われます。つまり、相手を法外な、何をしてもよい存在だとみなした途端、同じ人間であるという観点が失われてしまうのです。しかし、”そもそも、なぜかれらは海賊行為をしなければならないのでしょうか“。

いまや”破綻国家”と呼ばれるソマリアは、19世紀以来、西洋諸国の支配・介入を受けてきました。当地の違法操業による乱獲や不法投棄等による環境破壊の責任は、ソマリアの人々だけが負うべきものではないでしょう。問題は、グローバルな規模でのエコロジー問題です。

にもかかわらず、〈野蛮なソマリア・奴ら/文明社会・われわれ〉という非対称な図式化が、問題の本質を覆い隠します。[5] むしろ、枠組みの方自体が間違っているのです。
 

海賊ユートピア

ところで、映画やマンガ、アニメなどのサブカルチャーでは、たびたび海賊が魅力的に描かれてきました。
「大地」が人間の依って立つ場所だとするなら、「海」は人間にとって、移動する「自由の領域」です。[6]

国家と個人との間の、公的存在と私的存在との間の、戦争と平和との間の、戦争と海賊行為との間の、明確な境界は、彼らにおいては消失している。[…]彼らの献身や贈物を受けることを喜んでいた彼ら自身の政府もまた、彼らを、政治的な顧慮から実にしばしば見捨てたし、已むをえない場合には、彼らを絞首刑にも処した。それ故に、彼らは、言葉のもっとも危険な意味で、自己の危険を覚悟して行動し、国家から保護されていないと自覚していた[7]

本質的に何者の庇護も受けず、つねに死ととなり合わせに生きる海のノマド。海賊(パイレーツ)の語源的由来は、ギリシャ語のパレーシー(Pareshi)、すなわち、「勇気を持つこと」です。
 

理(野)性の公共的使用へ

最後に、カントの普遍的な世界秩序構想にとって、「海賊」がどのように位置づけられるのか、見通しを述べておきましょう。

海賊は、一見するとたんなる秩序の撹乱者に過ぎないように思われます。しかし、言いかえれば、撹乱者が現れるのは、その秩序が、まだ不充分なものだからではないでしょうか。

普遍的な秩序とは、すべての人々を十全に包含する秩序です。
だから、私たちは、公海の私的略奪者である海賊を「理性の公共的使用」の逆説的なアクターとみなせばよいのです。[8]
かつて、大航海時代に、ヨーロッパの文明化とは裏腹に、新大陸で西洋による悪逆非道な蛮行が行われたまさにその時、その矛盾の境界線上において海賊が現れたように。[9]

 
[注]
[1]
原文は、”Wer Menschheit sagt,will betrügen”「人類を語る者は、嘘をつこうとしている」。 Carl Schmitt,”Der Begriff des Politischen”,Duncker & Humblot Gmbh,1932,S.51.(菅野喜八郎訳「政治的なものの概念(第二版)」、長尾龍一編『カール・シュミット著作集Ⅰ–1922-1934』、慈学社、2007年、278頁)、を参照。
[2]
もし「人類」などという普遍的な名のもとに戦争を行えば、相手を極端に非人間的な存在とみなすことになってしまう、というのがシュミットの危惧である。そして、その警句は、二度目の世界大戦で現実化されることになる。たとえば、広島、長崎への原爆投下の命令を下した米国のトルーマン大統領は「日本人は獣である」と語りこれを正当化した。これについては以下の文献を参照した。J.ロールズ、中山竜一訳『万民の法』岩波書店、2006年、140頁。
[3]
桃井治郎『海賊の世界史』中央公論社、2017年、を参照。以下、海賊にかんする歴史的な記述は本書に負っている。
[4]
シュミットは、16世紀頃から徐々に整備された国際的な法秩序を「ヨーロッパ公法(jus publicum Europaeum)」と呼ぶが、その際、中心的な役割を担った国が、海の帝国 イギリスであったことは決して偶然ではない。つまり、ヨーロッパの法秩序の形成と、非ヨーロッパの発見と略奪・排除は、同じコインの裏表をなすパラレルな事象なのである。そして、それはまた、海賊にも当てはまる。 Carl Schmitt,”Der Nomos der Erde : im Völkerrecht des Jus Publicum Europaeum”,Duncker & Humblot Gmbh,1950(新田邦夫訳『大地のノモス――ヨーロッパ公法という国際法における』慈学社、2007年)、を参照。
[5]
この点については、阿部浩己「〈人類の敵〉海賊」,「現代思想」Vol.29-10, 2011, 146-57頁、を参照。
[6]
シュミットは、短いエッセーのなかで、「どこへでも好きなところへ出発できる自由」として「海のエレメント」について語っている。C.シュミット、生松敬三・前野光弘訳『陸と海と――世界史的一考察』慈学社、2006年、を参照。
[7]
前掲、シュミット、2007年、211頁、を参照。ちなみに、”Pareshi”は、ギリシャ語の「真理を語ること(パレーシア,parrhesia)」と同一の由来をもっているように思われる。
[8]
カントは『人倫の形而上学』のなかで「不正な敵」について語っている。不正な敵とは、いかなる法の保護をも受けない根源的な敵である。これについては後に論じるつもりである。また、シュミットの指摘は、前掲、シュミット、2007年、202-7頁、を参照。
[9]
あらゆる法の外部者(out-law)という表象は、G.アガンベンの「ホモ・サケル」を想起させるかもしれない。しかし、アガンベンが念頭に置くのは、収容キャンプで厳重な管理下にある収監者や「ムーゼルマン」のような全き無能者である。だが、海賊にふさわしい属性は、積極的な”敵対性”、あるいは、飼いならされない”野生性”である。それはむしろ、J.デリダのいう”ならずもの”や”狼”であろう。以下を参照。G.アガンベン、高桑和巳訳『ホモ・サケル 主権権力と剥き出しの生』以文社、2007年。J.デリダ、西山雄二・郷原佳以・亀井大輔・佐藤朋子訳『獣と主権者 Ⅰ』白水社、2014年。

 

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